宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ

2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。
 藤田幸右 管理人

つなぎ記事(5/31の「宮古伝言板」投稿記事を転載)「灯台のある防波堤」は消えた。

2011年06月06日 | データ、転載など





いいかげんな港湾づくりのつけが鍬ヶ崎の津波被害とそれに続く港ぐるりのサッパ船泊まりの危機、旧魚市場浸水、出崎岸壁の不安定な接岸繋留事情にまわってきていますね。高潮、高波の暗雲です。「赤い灯台のあった防波堤」が無くなってはっきりしました。県による港湾計画は未曾有の犠牲を払って破綻しました。そしていま悪夢が再び鍬ヶ崎の港まわりと地区全体をうかがっています。

漁師の徒然なるブログさん「宮古市魚市場 岸壁冠水で」(11.5.30)の記事を念頭に置いて書いてます─
http://blog.goo.ne.jp/heiun

3.11津波の前、岩手県は鍬ヶ崎地区沿岸で、1)鍬ヶ崎防潮堤計画、2)出崎埠頭の延長・親水開発、3)龍神防波堤の強化──を行っていました(一部完成、一部進行形、一部計画中)。で、これら県の事業は3.11の津波でわずかに磯鶏/藤原地区とその港に効果があったと言えるかもしれない(?)が鍬ヶ崎地区と港まわには何の効果ももたらさなかった。人は当地区の被害状況をつぶさに見て確かめるべきである! 津波は「灯台のあった防波堤」をなぎ倒し,岸壁をのみ込んで、直接、鍬ヶ崎市街地に押寄せた。壊滅的被害をもたらしたのである。その時も、3事業はそれぞれ連携なしにバラバラに行われており、相互に連携がなかっただけではなく、地域にも、津波にもディフェンス面で少しも関係する事がなかったのである。まさに3事業それぞれが、希望のない、事業のための事業であったからであるといえる。

特に「灯台のある防波堤」には連携の手がさしのべられず、管轄外として3事業の視野にさえ入っていなかったようである。あのようにもろくも崩れるものなのか?数十億円、数百億円規模の県の宮古港湾事業の中で、この防波堤の強化、改修には目的的予算は何もついていなかったのである。この防波堤の始まりは昭和の初めだったろうか?この防波堤の今に至る経過は真剣に議論される事もなく,宮古港湾全体の中の位置づけ意味づけも通り一遍でずさんで、強度調査も環境調査もまともに行われず、「灯台のある防波堤」は全く無視されてきたといえるのではないか。これは港湾内諸施設の連携あるいは役割ということを考える事なくその場当たりの計画を主導する岩手県(庁)の計画のせいであろう。地域住民の意向を軽く見た官僚行政の末路であったと言える。

鍬ヶ崎地区と港にとって本当は計画の中心になければならなかった「灯台のある防波堤」は津波によってあっけなく破壊されたが、私はこれは役人にシカトされた人災だと思っている。また鍬ヶ崎には政治的力がなく上の方の指導力、住民の団結力も鍬ヶ崎地区になかったという事でもある。今、「灯台のある防波堤」がこんなにも弱々しく、同時に鍬ヶ崎地区とその港にとって中核的に最重要施設であったことがはっきりわかった。敢えて津波のためとはいわないが港湾諸施設や岸壁に対するルーチン的防波堤として原点に返って再興しなければならないだろう。津波対策の諸策、廃止を含めた3事業の根本的見直しは平行して進めなければならない。…宮古港湾全体のグランドデザインが先決か?とも思う。

住民はものをいうべし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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