避難に話題が移った時彼女は自分の体験をこのように語った。「訓練どおり逃げっけ」「訓練どおり逃げらさっけ」と、津波から間一髪ぎりぎり逃げて助かった鍬ヶ崎の知り合いの女性は目を輝かせて自分の様子を語ってくれた。地震と同時に逃げる支度をした。その辺の貴重品をポケットに突っ込んで…旦那さんのウデをつかんで熊野神社(鍬小だったか?=筆者)に向かった。車のことがちらっと頭に浮かんだが、徒歩で走った。
──この一連の動きを、身体が自然にそのように動いたと証言した。当日を振り返ると自分でも意識しないで訓練どおり体が動き、訓練どおりの目的地(避難場所)に向かって逃げることができた、と。
真実味の深い直面体験を聞いて私は情景が目の前に広がった。
また、私は、同時的に、別の事を考えていた。
このところの宮古市の津波に体する避難訓練はどうなっていたのか?という事である。上に引用した成功例もあった。しかし全部が全部、成功例だけであったのか?と。
ほんの昨年2010年、2月28日だったと思う。1960年5月のチリ地震津波の再来のように、宮古市をチリ発の津波が襲った。今回の大津波に比べると被害はほとんどないと言ってよかった。しかし、ここで言いたい事は被害の事ではなく避難訓練の事である。この津波の直後の避難訓練は中止されたのではなかったか?2010年3月3日の宮古市の恒例の津波避難訓練は中止されたと記憶している。宮古市から遠くに住んでいながら奇異な感じを受けた事を覚えている。そうでなくてさえ年々避難訓練に参加する人数が減ってきている事を市の広報(誌)は数字を添えて伝えていたからでもある。その傾向に危機感を覚え、訓練中止でさらにどうなるのかと思った。なにを考え違いをしているかと怒りさえ覚えたのである。中止は汚点の記録として残った
今年2011年の避難訓練は、今度の3月3日は、今年の大津波3月11日の直前であった。「重点地区を赤前」という事で実施されたが、今度もまた奇異な感じを受けた。第一に避難訓練に「重点地区」ということ。避難訓練に重点地区という事があるのだろうか?という違和感である。過去にも重点地区は設定されてきたのだろうか?重点地区以外の訓練はどうなっていたのだろうか?行われたのか、行われなかったのか?という疑問であった。もしかして訓練は2年連続で行われなかったのでは…と。
第二に、その避難訓練の内容が情報伝達や救助訓練に片寄っていたように思う。私の記憶に間違いがあるかもしれないが赤前運動公園には役所、消防、警察が動員された。大規模の訓練であったが何かがずれているように思った。津波の避難訓練とは昔も、今も、将来も「高台に逃げること」ではなかったのか?それが原点ではなかったのか。まさに「訓練どおり逃げらさっけ」という事が目的でなかったか?逃げる訓練。そうして地区住民一人残らず高台に逃げること。毎年実施し反省して、一人残らずに無限に近づける。それが避難訓練ではなかったのか?役所の役割は一カ所に集まって訓練する事ではなく全地区に分散して住民の避難(訓練)を幇助し参加者の統計を取り時間を計り問題点を持ち寄る事ではなかったのか?
宮古市の津波に対する避難訓練は、目的、政策、義務、伝統、矜持、情熱、…どこから見ても量も質も落ちていたのでは?と思った。そうであったら今回の大災害へのマイナス影響ははかり知れない。上にたつ人の責任は重い。
以上は結果論ではない。去年から今年にかけて見、聞き、分かっていた事を書いた。