「お坊山」、と聞いて、すぐその場所のイメージがわく人は少ないかも知れない。山と高原地図「大菩薩嶺」を見ても、主要な山は、乾徳山、笠取山、雲取山、そして勿論、大菩薩嶺だ。そんな有名な山々の陰に隠れて滝子山の西にひっそりと立つのが「お坊山」。中央線の甲斐大和駅から笹子峠、笹子雁ヶ腹摺山、米沢山、お坊山と縦走し、景徳院に下山する人が多い。
晩秋の連休中日、その「お坊山」を訪ねた。朝、8時半過ぎ、笹子の駅に降立つと、もう雲ひとつない青空が待っていた。笹子川の下流に向かって暫く歩き、旧甲州街道沿いにある吉久保の集落を抜けると、下山に使うお坊山からの尾根が一望できる。地味だが朝日に輝く紅葉が何とも言えない。滝子山の寂ショウ尾根の入口を見て25分程歩くと「道証地蔵」のある、もう一つの滝子山の登山口に着く。一休みの後、大鹿峠への登山口へ向かう。指導標が比較的しっかりしている山梨の山としては登山口には珍しく何も無く、「大鹿峠」と記された古びた板が地面に転がっていただけだった。そこから、大鹿峠まで小一時間、落ち葉に覆われた歩き易い道が続き、峠の日差しの溢れたベンチで一休みするとお坊山の登りが始まる。
幾つになっても「はすっぱ」な私、山道脇にテイッシュペーパーか何かが落ちている、と思いながら歩いていると、突然後方から『あっ、「シモバシラ」じゃない』とHさんの声がした。しゃがんでよくよく見ると、それは白い極細の絹糸を紡いだレースの様な氷の結晶だった。何と繊細で美しいことか! 後で調べてみると「シモバシラ」はシソ科の多年草。学名は Keiskea japonica、本草学者の伊藤圭介に因む。関東地方以西に分布し草丈40cm~90cmの目立たない植物だ。目立たないが、この地味な植物が本領を発揮するのは実は、枯れた後。もう一度、花を咲かせるのだ。美しいガラス細工のような「氷の花」を。秋に、「シモバシラ」が枯れた後も地中の根は活動を続け水分を茎に送り続けていると言う。急激に冷え込んだ朝、その水分が凍り、茎を裂き、外へと成長し、神秘的な造形美の競演を見せる。しかも、茎が裂けると同じ事は二度と起こらない為、一年に一度限りの貴重な現象なのだ。その形は、その時々の条件により、千差万別に見える。「シモバシラ」の花が出来る条件は「超」厳しいと言われる。地中が凍らず水分があり、地上が氷点下、風が無風に近く、雨や雪が降っていない、等だ。その上、せっかく出来ても、日の光に当り気温が上がれば、うたかたの様に消えてしまう。必然的に、目にする機会は少ない。
こう言うものは、見たいと願って見られるものでは無く、まさしく「プレゼント」以外の何物でもない。一年に一度、ほんの一瞬、偶々全ての条件が揃ったその日、その辺りは、「シモバシラ」の花が我々の歓声と共にびっくりするほどずっと長く続いていた。
昼過ぎ、滝子山を正面に臨む頂きのベンチで昼食を取ると、すぐ近くのお坊山に向かった。頂上からは「南アルプス」のパノラマが広がり、雪を被った北岳が殊更、光り輝いて見えた。