源太郎のブログ

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「シモバシラ」

2008年11月24日 | 山行記

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「お坊山」、と聞いて、すぐその場所のイメージがわく人は少ないかも知れない。山と高原地図「大菩薩嶺」を見ても、主要な山は、乾徳山、笠取山、雲取山、そして勿論、大菩薩嶺だ。そんな有名な山々の陰に隠れて滝子山の西にひっそりと立つのが「お坊山」。中央線の甲斐大和駅から笹子峠、笹子雁ヶ腹摺山、米沢山、お坊山と縦走し、景徳院に下山する人が多い。

 晩秋の連休中日、その「お坊山」を訪ねた。朝、8時半過ぎ、笹子の駅に降立つと、もう雲ひとつない青空が待っていた。笹子川の下流に向かって暫く歩き、旧甲州街道沿いにある吉久保の集落を抜けると、下山に使うお坊山からの尾根が一望できる。地味だが朝日に輝く紅葉が何とも言えない。滝子山の寂ショウ尾根の入口を見て25分程歩くと「道証地蔵」のある、もう一つの滝子山の登山口に着く。一休みの後、大鹿峠への登山口へ向かう。指導標が比較的しっかりしている山梨の山としては登山口には珍しく何も無く、「大鹿峠」と記された古びた板が地面に転がっていただけだった。そこから、大鹿峠まで小一時間、落ち葉に覆われた歩き易い道が続き、峠の日差しの溢れたベンチで一休みするとお坊山の登りが始まる。

 幾つになっても「はすっぱ」な私、山道脇にテイッシュペーパーか何かが落ちている、と思いながら歩いていると、突然後方から『あっ、「シモバシラ」じゃない』とHさんの声がした。しゃがんでよくよく見ると、それは白い極細の絹糸を紡いだレースの様な氷の結晶だった。何と繊細で美しいことか! 後で調べてみると「シモバシラ」はシソ科の多年草。学名は Keiskea japonica、本草学者の伊藤圭介に因む。関東地方以西に分布し草丈40cm~90cmの目立たない植物だ。目立たないが、この地味な植物が本領を発揮するのは実は、枯れた後。もう一度、花を咲かせるのだ。美しいガラス細工のような「氷の花」を。秋に、「シモバシラ」が枯れた後も地中の根は活動を続け水分を茎に送り続けていると言う。急激に冷え込んだ朝、その水分が凍り、茎を裂き、外へと成長し、神秘的な造形美の競演を見せる。しかも、茎が裂けると同じ事は二度と起こらない為、一年に一度限りの貴重な現象なのだ。その形は、その時々の条件により、千差万別に見える。「シモバシラ」の花が出来る条件は「超」厳しいと言われる。地中が凍らず水分があり、地上が氷点下、風が無風に近く、雨や雪が降っていない、等だ。その上、せっかく出来ても、日の光に当り気温が上がれば、うたかたの様に消えてしまう。必然的に、目にする機会は少ない。

 こう言うものは、見たいと願って見られるものでは無く、まさしく「プレゼント」以外の何物でもない。一年に一度、ほんの一瞬、偶々全ての条件が揃ったその日、その辺りは、「シモバシラ」の花が我々の歓声と共にびっくりするほどずっと長く続いていた。

 昼過ぎ、滝子山を正面に臨む頂きのベンチで昼食を取ると、すぐ近くのお坊山に向かった。頂上からは「南アルプス」のパノラマが広がり、雪を被った北岳が殊更、光り輝いて見えた。


☆☆☆ 高尾山

2008年11月20日 | 山行記

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昨年に続き高尾山を訪れた。高尾山のみを目的としたツアー登山等皆無に違いない。が、今回は、敢て「新ルート」と銘打ち、一味違う「高尾山」にした。四通八達した、高尾山で、何を今更「新ルート」等と思う向きもあるかも知れないが、歩いて歩けない所は少なくはない。

 JR高尾駅北口に9時に集合、登山口の「日陰」に向かう。「日陰」の登山口は、「いろはの森」を抜けて、日影沢沿いに高尾山に至る道の一つ。平日だと言うのに、次から次へと、ザックを背負った人達が来る。ドピンカンの天気に、その日、思い立って来た人も多いに違いない。我々は、沢沿いに登る人達を尻目に、頂上から南西に延びる尾根に取りつく。いきなりの急登。「高尾山」と言う、イメージで来た方には、「ちょっと話が違うわ」と思ったかもしれない。人が歩く事を想定していない道は、倒木や深く積もった落ち葉、蜘蛛の巣等で歩き難い。30分程で林道に出る。一休みした後、20分程林道を東に辿り、尾根を乗り換える。そこからが、本格的な「急登」となる。アキレス腱が目一杯伸びる。巨木の自然林が続く。見上げれば、快晴の青空だが、見ている余裕はない。

 綾線の先の木々の間に広がる空が、みるみる大きくなると、ようやくなだらかな道になり、ホッとする。間もなく、木漏れ日に溢れた小ピークでランチ。ここまで、誰にも会わなかった。30分程のランチを済ませ、乾いた落ち葉を踏みながら暫く歩くと、一般道に合流。ここからは、別世界が始まる。丁度、そこを歩いていた人達は、突然、来るはずのない所から現れた我々に、「何事!」と不審そうな目を向けた。ここからは、歩を進めるごとに人は増える。まさに、祭礼の夜店状態。そして、頂上。ジャーーン、そこは満員電車。頂上の広場が人で埋まっている。富士山の見える「展望台」には、カメラの砲列。我々もそれに加わったのは言うまでもない。

 昨年、「Voyager Pratique Japon」と言う本がフランスのミシェランから発売された。日本版旅行ガイドである。4人の担当者が日本各地を2ヶ月ずつ、くまなく訪ね歩き、書き上げたと言う。そこで「高尾山」は三つ星に「輝いた」。三つ星は「必ず訪れるべき観光地」を意味する。三つ星の数に限れば東京の9つは京都の16に次いで、2位だ。そして、国内外の「観光客」が押し寄せた。昨年の秋、多い日で1日3万人。春夏秋冬、平均して1日7千人、年間250万人だそうだ。我々が訪ねた日、空はどこまでも青く、高く、房総半島までが見渡せる空気の澄んだ日、紅葉も真っ盛りなら「満員電車」もうなずける。下山のロープウェーの列は30分待ち。年間250万人訪れる山は、日本一だろう。それは、取りも直さず「世界一」でもある。

 下山、我々は最初から、余り歩かれていない道を辿ると、決めていた。高尾山の北東の外れに「金比羅台」と言う場所がある。そこから「落合」へ、密やかな道が続いている。その道に一歩踏み入れると、誰もいない。このコントラストは一体何なのだろうか? そんな事を思いながら30分程歩くと下山口に着いた。そこから、高尾の駅まで、それ程、遠く感じる事はなかった。


ヘラートにて

2008年11月10日 | エッセイ

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 銃を持った男が私の方に足早に近づいてくるのが見えた。白い民族衣装シャルワール・カミースを着ている。じたばたするよりはと、腹をくくって成行きにまかせた。

 アフガニスタン。テロとの戦いの主戦場だと言う。もう、随分長い間、戦いは続いている。アフガニスタンの歴史は古い。紀元前四世紀、アレキサンダー大王東征の折築いたと言われる都市、ヘラート・カンダハール・バルフ等が今に残る。紀元前から攻防を繰り返してきた。1880年、第二次アフガン戦争ではイギリスに敗れ、保護国となった。1919年、3度目の戦いでイギリスに勝ち、独立を勝ち取った。そして、1979年のソ連侵攻、2001年のアメリカと続く。数限りない「戦」の果て、それは今も続く。パシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人等、多民族国家故の宿命であったのかも知れない。イラン、パキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン等多くの国とも国境を接し、東部のワハーン回廊では中国とも、僅かだが国境を接している。誇り高いこの国の人々は、外国人の「侵略」を決して許さない。そのしたたかさは紀元前からの歴史が物語っている。「戦い」はそう簡単には終わらないであろう。

 私がアフガニスタンに入ったのはイランの「聖なる殉教地」マシャドから、ボロボロのワゴン車に乗って丸一日。ワゴン車が庶民の主な交通手段になっている所は、世界の辺境の地では、どこも同じだ。現地の人が被っている、元々は白かったターバンは手拭いでもあり、時には「鼻紙」にもなったりする。今は無いユーゴスラビアの首都、ベオグラードの中央駅で偶然出会い、パキスタンまで旅の友となったSさんと私以外は、煮しめたようなターバンを被った現地人がすし詰め状態で窮屈な席を埋めていた。距離は300キロ程度、が入国の手続きや悪路と時折現れる「関所」で一日がかりのバスの旅だった。

 ヘラートに着くと、まず最初に目についた「ホテル」の看板を目指す。タバコ一箱程度の宿賃。部屋には埃だらけのベッド以外は何も無い。標高が高いせいか、寒い。ストーブにくべる薪を買いに出る。ホテルの部屋は「空間」だけ、寝る以外の事は全て、自分で賄わなくてはいけない。そして、街の探訪と徘徊が始まる。

目の前に現れた銃を持った髭面の男は、有無を言わせず、見せろ!と言う。ヘラート城の城壁の土手を歩きながら、落ちている、とても綺麗なペルシャン・ブルーの陶器片を拾っている時の事。遠くで見ていた男は、見知らぬ東洋人が拾った「何か」を確かめたかったのだろう。指を拡げて握っていた物を見せると、一瞥して、「がらくた」だと判った様だった。男は踵を返すと身の丈程の銃を片手に、何事も無かった様に私の前から立ち去った。