大川(隅田川)に掛る永代橋のたもとで味噌を商う「乳熊屋(ちくまや)」の主人、竹口作兵衛は、その朝の出来事に「驚愕」したに違いない。驚いたのは、血飛沫(ちしぶき)に染まった火事装束の武士の一団の中に居た、共に俳人「其角」門下で旧知の「大高源吾」から手短に事の次第を聞かされたからだ。
江戸開府から90年ほど経った元禄の初め、伊勢国乳熊(ちくま)郷から作兵衛は出て江戸で「味噌屋」を始めた。それが「乳熊屋」の始まりであった。元禄14年12月15日の朝は、繁盛していた店の増築の為の棟上げ式の日であったと言う。朝から、その準備に追われていた。事の次第を聞いた作兵衛は「四十七士」を招じ入れると棟上げ式の為に準備していた「甘酒」を振る舞い労をねぎらった。打ち入りで本懐をとげた浪士達は吉良邸近くの回向院に断られ、ならばと、浅野家の菩提寺、泉岳寺に向かう事にした。途中、船で大川を下ろうとしたが船宿にも断られてしまったと言う。見ず知らずの、血飛沫を浴びた、異様な風体の一団を見れば、船宿が「断る」のも道理だろう。寒かったと言うその日、作兵衛からふるまわれた「甘酒」は、殊更「暖く」浪士達の腹にしみ「本懐」を遂げた喜びが湧いた瞬間だったのかもしれない。
12月14日、その「赤穂浪士」の辿った道を「吉良邸跡」から「泉岳寺」まで歩こう、と言う、些か「浮世」離れの企画が行われた。両国駅に集合した我々は、早速そこから10分程の距離にある「吉良邸跡」に向かった。「本所松坂町」と言えば「吉良邸」の代名詞の様な地名だ。「吉良家」は事件の後御取り潰しとなり屋敷も明け渡しとなった。そんな忌まわしい後地に住む「武士」はいない。2500坪の広さの土地は「町家」に変えられ、町人の住む町、「松坂町」となったのであろう。今は10坪ほどの狭い空間だが「本所松坂町公園」として昔のよすがを偲ぶ場所となっている。我々がその場所に着くと、地元の人達が、多分、毎年の恒例の行事なのだろう、椅子等を並べ準備をしている所だった。ここが、まさしく、その日の我々の出発点になるべき場所であった。
雨模様だった空も、我々が歩きだす頃には雨も上がり傘の必要も無くなった。8時過ぎ、「吉良邸跡」から回向院の前を通って永代橋を渡り霊岸島、八丁堀、鉄砲洲、築地、新橋を経由して泉岳寺に着いたのは午後2時を少し回った頃の事であった。泉岳寺が近付くと急に人通りが多くなり、5万人とも言われる、参拝客は門前から溢れていた。元禄15年12月15日の当日、「浪士」が泉岳寺に着いた事が知れ渡ると、門前は、その姿を一目見ようと多くの江戸市民で埋まった、と言う。当時の川柳にも「昨日まで誰も知らない寺だった」と言われた位、一躍、江戸で一番名の知れた寺になり、そのにぎわいは300年後の今日まで続いているのだ。毎年、恒例の行事「義士祭」が今年も行われた。「四十七士」に扮した面々がお定まりの「装束」に身を固め泉岳寺までの道を練り歩くのだ。「浪士達」の行動は江戸庶民には「美談」「義挙」と称えられたが「忠義」とは何か、「武士道」「法」とは何か、江戸時代を通し、今でもその論争は続いている。
「甘酒を飲んで行きなさい」、と我々一行が永代橋に差し掛かる、丁度その時、声が掛った。そこは事件の309年後の今でも同じ場所で17代目「作兵衛」が「味噌屋」を営む「ちくま味噌」の店の前であった。殊更寒かったその日の朝、ふるまわれた「甘酒」は冷え切った我々の体と心を温めた事は言うまでもない。
江戸開府から90年ほど経った元禄の初め、伊勢国乳熊(ちくま)郷から作兵衛は出て江戸で「味噌屋」を始めた。それが「乳熊屋」の始まりであった。元禄14年12月15日の朝は、繁盛していた店の増築の為の棟上げ式の日であったと言う。朝から、その準備に追われていた。事の次第を聞いた作兵衛は「四十七士」を招じ入れると棟上げ式の為に準備していた「甘酒」を振る舞い労をねぎらった。打ち入りで本懐をとげた浪士達は吉良邸近くの回向院に断られ、ならばと、浅野家の菩提寺、泉岳寺に向かう事にした。途中、船で大川を下ろうとしたが船宿にも断られてしまったと言う。見ず知らずの、血飛沫を浴びた、異様な風体の一団を見れば、船宿が「断る」のも道理だろう。寒かったと言うその日、作兵衛からふるまわれた「甘酒」は、殊更「暖く」浪士達の腹にしみ「本懐」を遂げた喜びが湧いた瞬間だったのかもしれない。
12月14日、その「赤穂浪士」の辿った道を「吉良邸跡」から「泉岳寺」まで歩こう、と言う、些か「浮世」離れの企画が行われた。両国駅に集合した我々は、早速そこから10分程の距離にある「吉良邸跡」に向かった。「本所松坂町」と言えば「吉良邸」の代名詞の様な地名だ。「吉良家」は事件の後御取り潰しとなり屋敷も明け渡しとなった。そんな忌まわしい後地に住む「武士」はいない。2500坪の広さの土地は「町家」に変えられ、町人の住む町、「松坂町」となったのであろう。今は10坪ほどの狭い空間だが「本所松坂町公園」として昔のよすがを偲ぶ場所となっている。我々がその場所に着くと、地元の人達が、多分、毎年の恒例の行事なのだろう、椅子等を並べ準備をしている所だった。ここが、まさしく、その日の我々の出発点になるべき場所であった。
雨模様だった空も、我々が歩きだす頃には雨も上がり傘の必要も無くなった。8時過ぎ、「吉良邸跡」から回向院の前を通って永代橋を渡り霊岸島、八丁堀、鉄砲洲、築地、新橋を経由して泉岳寺に着いたのは午後2時を少し回った頃の事であった。泉岳寺が近付くと急に人通りが多くなり、5万人とも言われる、参拝客は門前から溢れていた。元禄15年12月15日の当日、「浪士」が泉岳寺に着いた事が知れ渡ると、門前は、その姿を一目見ようと多くの江戸市民で埋まった、と言う。当時の川柳にも「昨日まで誰も知らない寺だった」と言われた位、一躍、江戸で一番名の知れた寺になり、そのにぎわいは300年後の今日まで続いているのだ。毎年、恒例の行事「義士祭」が今年も行われた。「四十七士」に扮した面々がお定まりの「装束」に身を固め泉岳寺までの道を練り歩くのだ。「浪士達」の行動は江戸庶民には「美談」「義挙」と称えられたが「忠義」とは何か、「武士道」「法」とは何か、江戸時代を通し、今でもその論争は続いている。
「甘酒を飲んで行きなさい」、と我々一行が永代橋に差し掛かる、丁度その時、声が掛った。そこは事件の309年後の今でも同じ場所で17代目「作兵衛」が「味噌屋」を営む「ちくま味噌」の店の前であった。殊更寒かったその日の朝、ふるまわれた「甘酒」は冷え切った我々の体と心を温めた事は言うまでもない。