源太郎のブログ

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「甘酒」

2011年12月16日 | エッセイ
大川(隅田川)に掛る永代橋のたもとで味噌を商う「乳熊屋(ちくまや)」の主人、竹口作兵衛は、その朝の出来事に「驚愕」したに違いない。驚いたのは、血飛沫(ちしぶき)に染まった火事装束の武士の一団の中に居た、共に俳人「其角」門下で旧知の「大高源吾」から手短に事の次第を聞かされたからだ。


江戸開府から90年ほど経った元禄の初め、伊勢国乳熊(ちくま)郷から作兵衛は出て江戸で「味噌屋」を始めた。それが「乳熊屋」の始まりであった。元禄14年12月15日の朝は、繁盛していた店の増築の為の棟上げ式の日であったと言う。朝から、その準備に追われていた。事の次第を聞いた作兵衛は「四十七士」を招じ入れると棟上げ式の為に準備していた「甘酒」を振る舞い労をねぎらった。打ち入りで本懐をとげた浪士達は吉良邸近くの回向院に断られ、ならばと、浅野家の菩提寺、泉岳寺に向かう事にした。途中、船で大川を下ろうとしたが船宿にも断られてしまったと言う。見ず知らずの、血飛沫を浴びた、異様な風体の一団を見れば、船宿が「断る」のも道理だろう。寒かったと言うその日、作兵衛からふるまわれた「甘酒」は、殊更「暖く」浪士達の腹にしみ「本懐」を遂げた喜びが湧いた瞬間だったのかもしれない。


 12月14日、その「赤穂浪士」の辿った道を「吉良邸跡」から「泉岳寺」まで歩こう、と言う、些か「浮世」離れの企画が行われた。両国駅に集合した我々は、早速そこから10分程の距離にある「吉良邸跡」に向かった。「本所松坂町」と言えば「吉良邸」の代名詞の様な地名だ。「吉良家」は事件の後御取り潰しとなり屋敷も明け渡しとなった。そんな忌まわしい後地に住む「武士」はいない。2500坪の広さの土地は「町家」に変えられ、町人の住む町、「松坂町」となったのであろう。今は10坪ほどの狭い空間だが「本所松坂町公園」として昔のよすがを偲ぶ場所となっている。我々がその場所に着くと、地元の人達が、多分、毎年の恒例の行事なのだろう、椅子等を並べ準備をしている所だった。ここが、まさしく、その日の我々の出発点になるべき場所であった。


 雨模様だった空も、我々が歩きだす頃には雨も上がり傘の必要も無くなった。8時過ぎ、「吉良邸跡」から回向院の前を通って永代橋を渡り霊岸島、八丁堀、鉄砲洲、築地、新橋を経由して泉岳寺に着いたのは午後2時を少し回った頃の事であった。泉岳寺が近付くと急に人通りが多くなり、5万人とも言われる、参拝客は門前から溢れていた。元禄15年12月15日の当日、「浪士」が泉岳寺に着いた事が知れ渡ると、門前は、その姿を一目見ようと多くの江戸市民で埋まった、と言う。当時の川柳にも「昨日まで誰も知らない寺だった」と言われた位、一躍、江戸で一番名の知れた寺になり、そのにぎわいは300年後の今日まで続いているのだ。毎年、恒例の行事「義士祭」が今年も行われた。「四十七士」に扮した面々がお定まりの「装束」に身を固め泉岳寺までの道を練り歩くのだ。「浪士達」の行動は江戸庶民には「美談」「義挙」と称えられたが「忠義」とは何か、「武士道」「法」とは何か、江戸時代を通し、今でもその論争は続いている。


 「甘酒を飲んで行きなさい」、と我々一行が永代橋に差し掛かる、丁度その時、声が掛った。そこは事件の309年後の今でも同じ場所で17代目「作兵衛」が「味噌屋」を営む「ちくま味噌」の店の前であった。殊更寒かったその日の朝、ふるまわれた「甘酒」は冷え切った我々の体と心を温めた事は言うまでもない。


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「続き」

2011年12月06日 | 旅行記
 もう一つの「弥山」は広島市の南西に位置する廿日市市沖合の瀬戸内海に浮かぶ厳島(いつくしま)にある。人口約2千人の島へはフェリーで10分程度とすぐ目の前だ。島は安芸の宮島とも言われ、日本有数の歴史ある観光地でもある。島の広さは約30?だから杉並区や板橋区と同じ位の面積だ。島のシンボルで世界遺産でもある厳島神社の創建は6世紀にも遡ると言われ、現在の社殿は12世紀に平清盛によって建てられたものである。島自体が「御神体」であり信仰の対象となっている。松島、天橋立と並び、日本三景の一つで、風光明媚な事で知られている。その他、大阪の四天王寺と住吉大社の石舞台と並び、日本三舞台や日本三大鳥居、日本三弁天等々、「自慢」に事欠かない。だから、この島が日本では外国人に人気ナンバーワンの観光スポットだと言われているのも頷ける。2千人足らずの島の人口に対し、年間300万人の観光客が訪れると言うから凄まじい。我々が訪れた時も多くの「修学旅行生」で賑っていた。太平洋戦争の敗戦後、「神道」を敵視したGHQにより島全体が接収され、1954年にはマリリン・モンローが新婚旅行で訪れた事でも知られる。


 島の最高峰「弥山」535mへは幾つかの道が整備されている。ロープウェーも途中まで整備され、誰でも簡単に素晴らしい眺望が楽しめる。我々も、勿論?ロープウェーを利用した。二つのロープウェーを乗り継いで展望台のある「獅子岩駅」に着く。観光客は「獅子岩展望台」は向かうが、我々「アルピニスト」は、そんな所には目もくれない。主峰「弥山」を目指す。が、しかし、道はすぐ下りに。山を登っていて「下り」は辛い。下っただけ、登り返さなければならないからだ。「アルピニスト」になるのも辛いのだ。30分程のゆっくり歩きで「不消霊火堂(きえずのれいかどう」」に着く。平安時代の大同元年(806年)に弘法大師が炊いた護摩の火が、1200年後の今でも燃え続けている場所だ。「弥山」の頂上は、そこから10分程、花崗岩の間を登った所にある。頂上からの眺めは、流石素晴らしい。宰相、伊藤博文をして、「厳島の真価は弥山からの眺望にある」と言わしめただけの事はある。が、その素晴らしさを台無しにしているのが「展望台」だ。管理者の財政事情に依るのだろう。とにかく、ぼろぼろなのだ。「良い建物」ならば、古くなっても、それなりの「味わい」と言う物があるが、最初から「醜悪」な建物がボロボロになったのだから、どうしようもない。再建にも撤去にもお金が掛かり、現状維持しか方法がないのだろう。 下山は当初の予定を変更して「大聖院コース」を取り2時間ほどで神社の「宝物館」まで下った。流石、外国人に人気の島、次から次へと登って来るのは外国人ばかりであった。


 華やかな「外見」とは裏腹に、「厳島」の内実は「明るい」わけではない。島を去る日、島に3台しかない、と言うタクシーに乗った。この島も、日本の離島・地方都市の抱える「過疎化」という問題の例外ではない、と運転手さんが話してくれた。若者が、島を出て行くのはこの島だけの問題ではないのだ。人口2千人の島に年間300万人もの観光客が来れば、普通は「御の字」のはずだが、どうやら違うようだ。8年ほど前、100年以上も孤高を維持してきた町も、「財政」危機により、大論争を経て、対岸の廿日市市と合併することを余儀なくされた。

 
 島の長い歴史と島自体が「御神体」だと言う宿命の為か過去には多くの「禁忌」が存在した。「御神体」を汚さず守る、と言う観点から「出産」も禁じられ、女性は「出産」が近付くと島を出て出産後100日を経て島に戻ったと言う。生まれてしまった子供は母親と共に、即座に船に乗せられ島を離れた。「御神体」、即ち「土地」を傷つける事を嫌い、農耕すら禁じられていたと聞く。又、島が「女神の御神体内」と言う事で、女性の仕事の象徴であった「機織り」も禁忌の対象であった。「死」も又、穢れと見なし、死者で出ると、遺族は死者と共に対岸に渡り喪が明けるまで島に帰る事が許されなかったとのだ言う。だから、島には今でも「墓」が一つも無いのだ。その他にも、島に暮らす人しか知らない「風習」が今でも数多く残っているのではないかと想像される。「日本一軽いと思う地」に住む私から見ると、それは正しく、「別世界」の事としか思えてならない。

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