源太郎のブログ

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キナバル山24 最終回

2018年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
熱帯の街で

 目の前にいる中年女性に発した私の突然の質問が琴線に触れたらしい。隣にいた、相棒の女性とマレー語の早口のスタッカートで喋り始めた。

 ボルネオのジャングルから戻った翌日、飛行機の出る夕方まで時間があって、コタキナバルの街を歩いた。見知らぬ街を一人巡り、歩き回る、私が20代の頃からずっと続けて来た事だ。

 街の中心地にある「センターポイント」と呼ばれる10階建位の大きな建物を訪ねてみる事にした。数百と言う個人商店が営業するデパートの様な所である。建物に入ると一階の一番目立つ所に携帯電話を売る小さな店が何十と無くひしめいていた。この「島」で今、何が人々の関心事であるのかを如実に物語っていた。今でこそ、携帯のお店の数は何十と言う単位だが、それは最初からそうだった訳ではなかったのだろう。ある時、最初の「携帯屋」さんが店を開く、すぐに人々の関心を集める、2軒目が開く、そして雨後の筍の様に「携帯屋」さんだらけになったにちがいない。人々の携帯を使う様子を見ても、どこかで見た風景と同じで違和感はなかった。

 建物の2階の奥まった所に「Foot Massage」のお店があった。店の外に掲げられたメニューを眺めていたら、中から中年の女性が飛び出して来て、是非おやりなさい、と勧める。丁度、足がくたくたになっていたので、早速やって貰う事にした。どんな商売でもそうだと思うが、長年同じ事をやっていると、経験から人には見えないものが見える事がある。多分、足をマッサージするだけで、その人の健康状態や生活、年齢等など、下手な占いなどよりはずっと色々な事が判る筈だと、足を揉まれながら、そんな事を考えていた。「足で私の歳が判ります?」、得たりやおう、とはこの事なのだろう。よく聞いてくれた、とは言わなかったが、突如饒舌になり、隣のご同業と喋り始めた。で、改めて聞いて見た。品定めするように足を揉み下ろして、ピシャピシャと私の足を叩くと、おもむろに顔を上げて「判らない」と言う。「なんで~」と言う私に向かって「足は20代だけど、顔が・・・」、思わず苦笑いしてしまった。良く、判っているのだ。

コタキナバルから帰りの機中、珍しく食欲が無かった私は食事を断ってぼんやりしていると、椅子の背もたれを戻してくれ、とアテンダントに言われた。後の席の西洋人が頼んだのだろう。背もたれが倒れていては確かに、食事はしにくい事がある。そう頼まれて、多分、多くの日本人がそうする様に、背もたれを反射的に戻した。その時、間髪を入れず、まったく突然に、通路を挟んだ反対側の席から物凄い剣幕の怒鳴り声が響いた。何を言ったのか、何語だったのかも、突然の事で判らなかったが、背もたれを戻す事を拒否したのだと、直ぐにわかった。その人の後に座っていた西洋人の当惑した顔が見えた。断ったのは風貌からして中国系の人間の様だった。「唯々諾々」と従った私は複雑な心境だった。こんな場合、我々の感覚で言えば、食事が済んだら、頼んだ相手に礼を言って、背もたれを再び倒す事を促すだろう。私は「相手が如何するか」窮屈な思いをしながらじっと待ったが最後まで何事も起こらなかった。世の中はやはり声の大きな者の言う通りになるのだろうか?譲らせた西洋人、譲らなかった中国人、譲った日本人、この出来事と最近の国際情勢が、私の中で様々に重なるのを感じた。

大旅籠

2009年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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 目覚めると、街道に面したべんがら色の千本格子の障子一杯に朝日が広がっていた。300年前と違わぬ朝の光。ここは東海道は赤坂宿の旅籠大橋屋。東海道筋で唯一営業を続けている旅籠は創業が慶安2年(1649年)、現在の建物が建てられたのも正徳6年(1716年)と古い。かの松尾芭蕉も安藤広重も泊まった事があると言う。

 いかに古い建物を維持し旅籠を続けていくのが難しい事か。地震や火事、天皇が来る、と言えば休息の為だけに上段の間を無理して作った事もあると言う。戦時中には焼け出された人の為に間貸しもしたと19代目のご主人。「もう止めよう、と放り出したくなった事はないですか?」の問いに、「私の時代に止める事はないでしょう」とご本人も江戸時代の人かと見まごうばかりのご主人は言う。赤坂宿の旅籠の中でも規模の大きな「大旅籠」と言われ、最盛期には間口9間(幅16m)、奥行き63間(115m)もの規模を誇っていた旅籠も今では間口は変わらないものの奥行きは23間(40m)と大分小さくなってしまった。20代目の息子さんは後を継ぐべく他で修業をしている。

 江戸時代は身分社会だから、身分によって泊まる場所が違った。宿場の本陣は大名・旗本・幕府の役人・勅使・宮・門跡等に用いられ補助的に脇本陣があった。一般庶民は「旅籠」に泊まった。「旅籠」とは元は馬の飼料を入れる籠の意味であり、馬で旅をする人には必需品であった。それが旅人の食糧や日用品を入れる為の入れ物も「旅籠」と呼ぶようになり、転じて、そうした物を提供してくれる宿も「旅籠」と呼ぶようになった。「旅籠」は食事を提供する事を原則としていたのに対し「木賃宿」は自炊が原則の素泊まりであった。調理や暖房の為の薪(木)の代金を払う事から「木賃宿」と呼ばれる様になった、と言うからさしずめ「キッチン宿」なのかもしれない。

 「大橋屋」程の歴史的価値のある建物は「重要文化財」であってもおかしくはないと思うのだが、実際は町の有形文化財に指定されているだけである。だからこそ、今でも我々が泊まる事が可能なのだが、「重要文化財」に指定されると数々の制約が加わり、宿屋としての営業を続けるのは難しく、敢えて指定を受けないのだとご主人はちょっと複雑そうな顔をしながら話していた。

「古き良きもの」は有形無形に関わらず常に消滅する危機に瀕している。「建物」に関しても「石の文化」に対し「木の文化」は特にその傾向が強い。「人」の保護もままならない昨今、「建物」の保護など二の次、三の次になりかねない。だから、国は「貧」してはならないのだと思うのだが・・・。