源太郎のブログ

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岩手山

2009年09月21日 | 山行記

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 この夏、まだ登っていなかった百名山の一つ、岩手山に登った。岩手山の登路は数多い。噴火の可能性から東側からのルートに限られていたのも、5年前には全面解禁になった。私が登ったのは一番距離が短い「馬返し」からだ。「一番距離が短い」とは言ってもコースタイムで約7時間半、だから関東から日帰り、と言う訳には行かない。

 早朝、東京駅から新幹線に乗る。盛岡に着いたのは東京駅を出てから約3時間。ローカル線に乗換える間に早めの昼食を済ませる。盛岡から登山口の「馬返し」の最寄駅、滝沢まではIGR岩手銀河鉄道が走っている。リストラによってJRから別れた第3セクターが盛岡と青森の三戸までの82㌔を走っている。ものの15分程で滝沢に着くと、予約しておいたタクシーが待っていた。「お客さん、今日はどちらから?」「横浜です」「ハァー」、ヘー、そんな遠くから、と言う感じで話が始まった。近くに大学が二つもある事や、小岩井農場・温泉の話をしてくれた。登山口まで、ほんの15分位。大きな駐車場には車が一杯だ。ナンバープレートで日本中から来ている事が判る。駐車場に車が多いのは「百名山」の特徴かも知れない。高速道路、千円で益々多くなったのかも知れない。

 明るい日差しの中、登山口を歩き始めたのは正午少し前。素敵な森の中を進む。暫く行くと、一人、また一人と下山の先陣が下りてくる。途中、「改め所」と言う所を通過した。この山の長い歴史を物語る古風な名前だが、昔はそこに神官がいて、登山の可否を改めた場所と言う。30分程で「0.5合目」の指導標が現れて新道と旧道の分岐となっていた。新道をとる。それにしても「0.5合目」とは随分と細かい。七合目まで新道と旧道はほぼ並行していて、各所に連絡道が設けられている。そこから40分程で「2.5合目」が現れY字分岐になっていた。はて、どちらを行こうか?と考えていたら、上から人が降りてきた。「旧道と新道、どちらが良いんでしょうか?」聞いてみた。「そりゃ新道だよ、殆どの人が行くからね」。それで、新道を行く事にした。所々溶岩流のちょっとした岩場を除いて、大粒の火山灰の土の上を歩く。火山の特徴でぬかるみは無いが、パチンコ玉に様な火山灰の粒に、時折足をとられる。登りながら時折振り返ると去年登った「姫神山」のやや尖った姿が終始見え隠れしていた。

平年より5度も気温が低いと言うその日も私はユニフォーム(白のTシャツ)で歩いた。上から来る人が一様に「寒い、寒い」と言いながら下りてくる。幾分か風も強そうだ。登山口を出て3時間余り、新旧の道が交わる七合目に着いた。確かに、ガスも出て来て、風も強い。一休みして、先を急ぐ。10分もすると、今日の「宿」八合目の避難小屋が現れる。4時間程と見積もった予定が、大分早く3時間ちょっとで着いてしまった。時間はあるが、今日は早朝からの行動だから、この辺で予定通り止めておこう。今日は小屋番の人も居ないと聞いていたが、誰か先客は居るだろうか?辺りはガスに覆われ、相変わらず風が吹きすさんでいた。

 木の引き戸をガラリと中に入ると意外にも、少なからず人の居る気配がする。薄暗闇に目が慣れて来ると、人が居た。それも一人二人ではない。居ないはずの小屋番の人も居た。それでも、小屋の広さに比べたらガラガラと言って良いほどだった。這う様に奥に進み、居心地の良さそうな角っこに場所を占める。空気マット、シラフ、シラフカバーをセットしてもぐり込む。夜、眠りに着くまで、一人、長い時間を何すること無く過ごさなければならなかった。夜中、寝返りを打つ度に目覚め、ずっと吹き止まぬビュービューと言う風と雨音に気持ちは落ち着かなかった。

 朝5時過ぎ、窓から入る光が少し明るくなって、起きる事にした。身支度を整えると、大き目のりんごを一つほうばった。雨具を着て小屋の外に出る。幸い雨は止んでいるものの、小屋を包むガスと強風は変わらない。小屋番のおじさんも出て来て、無言で頂上の方を指さす。「行くのか?」と聞いているのだ。私も無言でうなずく。

 小屋から20分程で頂上へ向かう分岐のある不動平に着く。ガスに包まれた誰も居ない分岐には指導標だけがひっそりと立っていた。ここからはお鉢のふちまでガラガラの登りが続く。上るに従い風はますます強さを増す。15分ほどでお鉢のふちに着き最後の頂上への登りとなる。頂上までは私を導くように多くの石仏が登山道の脇に立っていた。横風が強く、時折体が振られる。ガスに包まれ、猛烈な風の吹くふちを高みに向かって一人歩く。20分程歩くと頂上と思しき所が霧の中に浮かんだ。7時過ぎ、2038mの岩手山の山頂に立った。


エアライン ①

2009年09月07日 | エッセイ

Original_eight_3  英語の「steward は「執事・給仕」など、「仕える」事を意味する。男性はスチュワード、女性はスチュワーデスとなる。航空会社では最近、男女を分ける言葉は余り使わず、FA(フライト・アテンダント)とかCA(キャビン・アテンダント)と呼ぶことが多い。

 世界で初めてのスチュワーデスは1930年、アメリカのボーイング航空輸送(現在のユナイテッド航空の前身)が採用した8人だと言われている。最初の8人、と言う事で彼女達は「オリジナル・エイト」と呼ばれ、全員がミネソタ大学の看護科を卒業した看護師であった。これは私の推測だが、看護師を採用したのではなく、採用した人たちが、看護師であった、と言う事だったのだろう。看護師の資格を持っていて不都合は無いのだからその資格・経験が役に立った事は大いにあったに違いない。初飛行は1930年5月15日、シカゴとサンフランシスコ間、ボーイング80A複葉3発機であった。

 アメリカの航空会社では定年が無い会社が多く、「年功」が物を言う。スチュワーデスも何時、どの便を飛ぶかは各自の「入札」によって決められる。優先権は「年功」の長い者にある。だから、人気のある目的地・便には「高齢」のスチュワーデスが集中する事がある。70代のスチュワーデスともなれば頻繁に飛ぶお客さんの中にファンが居て、お客さんの方が仕事をあれこれ手伝ったりする事だってあるのだ。

 飛行機の離発着の際、手荷物は前の座席の下に収納し、座席の背もたれを元の位置に戻す様、繰り返しアナウンスされ客室乗務員がしつこい程点検に回る。何を気にしているのか?目的はただ一つ、非常時に席から脱出しやすい様に、との配慮だ。特に、奥の座席の人が通路に出る時、前の人の座席が倒れていたり、足元に荷物があったりしたら、脱出に手間取るからだ。極論すれば、緊急脱出をスムースに行う事が客室乗務員の最大の「仕事」だとも言える。

 飛行機が初めて世の中に現れた頃、それまで主役であった「船」の用語をそのまま使っていた。客室乗務員は「cabin attendant」だし、客室もズバリ「cabin」と呼んでいるが、「cabin」とは元々は「船室」の意味である。飛行機そのものも「ship」(船)と呼ぶ習慣もある。搭乗橋の着く飛行機の左側は 「port side」であり、反対側の右側を船と同じく「starboard side」と呼ぶ事がある。港に外国船が着いて、船員が上陸する場合、ビザが無くても3日間程度入国する事が出来る許可を「shore pass」と呼んでいるが、飛行機で到着した旅客の場合でも同じく条件が合えば「shore pass」が出される。「shore」とは海岸の意味だ。

 ジャンボが全盛だった頃、コックピット(操縦室・鳥小屋)はパイロット、コ・パイロットと航空機関士の3人態勢であった。最近の飛行機は、コストを下げる為、機関士は居ない。普通の人間が、時として病気になるように、パイロットも病気になる事がある。予定していたパイロットが来ないと、飛行機は飛ばない。そんな時、代りを見つける為「非番」のパイロット探しが始まる。条件が合ったパイロットをチェックして、まずは滞在先のホテルに連絡を取る。居なければ、メッセージを残す。後は、予想される「立ち回り」先に電話を入れる。運航に携わる社員は、普段からどの辺りがパイロット達の「遊び場」なのかを把握しておく事も必要なのだ。運良く、見つけても、お酒を飲んでいたらダメ、飲んでいなくても、断られたら、それで終わり。飛行機を飛ばすには、こんな舞台裏の苦労もあるのだ。