源太郎のブログ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「島旅」

2010年05月19日 | インポート

 人も島も「歴史」によってその性格が彩られる。沖縄本島を除けば日本で一番大きな島、佐渡もその「歴史」に翻弄され続けた島の一つだ。「島には何でも遅れてやって来ます。『不況』も今頃来てるんです」、とタクシーの女性運転手さんが自嘲気味に話す。島は遠い、と先入観は教える。が、新潟駅からタクシーで10分の距離にある港から高速船に乗れば島まで1時間の距離だ。船が両津港に入る頃、自衛隊のレーダーを頂く、佐渡の最高峰、金北山が雪に埋もれて聳え立つ。何度も歩いた金北山からの縦走路に今年は雪が多そうだ。

  島の形が「双葉」に例えられる佐渡。北に「大佐渡」、南に「小佐渡」の山々が連なる。そして、その間を繋ぐのが「国仲」と言われる平野だ。その「国仲」、佐渡を特徴づけて「国仲の公家文化」と言われ、「相川の武家文化」「小木の町人文化」と比べられている。その「文化」一つ一つが他では見られない「島」独特の性格を形作っている。

「公家文化」は島が長い間「流人」の島だったからだろう。佐渡には8世紀の奈良時代、既に流人が送られていたと言う。為政者にとって、首をはねてしまえば済む事を、「流罪」とは何と「優雅」に見える罪だろうか。遠くの島に送ることすら命懸けの仕事であったに違いない。そうして、島送りになった数多の貴人の中に順徳天皇、日蓮上人、世阿弥、日野資朝がいた。能や浄瑠璃が今に残り、「能舞台」の数は全国一の密度を誇り、何とも「優雅」な島なのだ。

 金山の開発も佐渡には大きな出来事であった。「関ヶ原」の直後に金が発見され、佐渡は幕府の直轄地「天領」となり、幕府の財政を支えた。佐渡の金が無かったら、徳川幕府の「歴史」も変っていたに違いない。採掘は江戸時代から始まり今から十数年前まで400年も続いた。「江戸」に直結した佐渡に「武家文化」が花開いたのも不思議な事ではない。

 もう一つの文化、「町人文化」は島の南西に位置する「小木(おぎ)」の港に由来する。佐渡でも数少ない天然の良港であった小木に目を付けたのは初代の佐渡奉行・大久保長安であった。港は江戸と島を結ぶ拠点となり北前船の寄港地でもあった為、関西との「商業」の接点ともなった。その小木の港の西に「宿根木」と呼ばれる集落がある。今から300年前の元禄の頃、海岸段丘の狭い入江に造られた集落は戸数70戸と言われ今の100戸余りと殆ど変りが無い。江戸時代、船主や船大工が多く住んでいたと言うその場所は「船」にまつわる商いで一世を風靡した所でもある。宿根木は「佐渡の富の三分の一を集めた」と土地の人から何度も耳にした。狭隘な集落の中に入ると総二階建て、杉板を使った質素な外観の建物が軒を連ねて密集している。街路は狭く人一人通るのが精一杯と言う所も多い。「船大工」が多く住んでいたと言う集落の伝統か、和船を造る技術で作られたに違いない家が多い。三角形の土地には三角形の家が建ち、まるで船だ。街路に敷かれた敷石は皿の様にすり減り、文字通り人の足跡を物語る。そこは、我々を江戸時代にタイムスリップさせてくれる場所でもある。ここは新潟では唯一「重要伝統的建造物群保存地区」になって保存に力が入れられている。

 島とは言いながら貴人の「流刑地」として「雅」の地と繋がり、「金」の採掘で江戸の「武家」と繋がり、北前船で関西・北海道と繋がり、佐渡は多くの「異文化」に晒され樽に詰られたワインのごとく熟成を続けたのだ。

C0155474_23464190 10_054a Syukunegi_01_a