源太郎のブログ

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大旅籠

2009年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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 目覚めると、街道に面したべんがら色の千本格子の障子一杯に朝日が広がっていた。300年前と違わぬ朝の光。ここは東海道は赤坂宿の旅籠大橋屋。東海道筋で唯一営業を続けている旅籠は創業が慶安2年(1649年)、現在の建物が建てられたのも正徳6年(1716年)と古い。かの松尾芭蕉も安藤広重も泊まった事があると言う。

 いかに古い建物を維持し旅籠を続けていくのが難しい事か。地震や火事、天皇が来る、と言えば休息の為だけに上段の間を無理して作った事もあると言う。戦時中には焼け出された人の為に間貸しもしたと19代目のご主人。「もう止めよう、と放り出したくなった事はないですか?」の問いに、「私の時代に止める事はないでしょう」とご本人も江戸時代の人かと見まごうばかりのご主人は言う。赤坂宿の旅籠の中でも規模の大きな「大旅籠」と言われ、最盛期には間口9間(幅16m)、奥行き63間(115m)もの規模を誇っていた旅籠も今では間口は変わらないものの奥行きは23間(40m)と大分小さくなってしまった。20代目の息子さんは後を継ぐべく他で修業をしている。

 江戸時代は身分社会だから、身分によって泊まる場所が違った。宿場の本陣は大名・旗本・幕府の役人・勅使・宮・門跡等に用いられ補助的に脇本陣があった。一般庶民は「旅籠」に泊まった。「旅籠」とは元は馬の飼料を入れる籠の意味であり、馬で旅をする人には必需品であった。それが旅人の食糧や日用品を入れる為の入れ物も「旅籠」と呼ぶようになり、転じて、そうした物を提供してくれる宿も「旅籠」と呼ぶようになった。「旅籠」は食事を提供する事を原則としていたのに対し「木賃宿」は自炊が原則の素泊まりであった。調理や暖房の為の薪(木)の代金を払う事から「木賃宿」と呼ばれる様になった、と言うからさしずめ「キッチン宿」なのかもしれない。

 「大橋屋」程の歴史的価値のある建物は「重要文化財」であってもおかしくはないと思うのだが、実際は町の有形文化財に指定されているだけである。だからこそ、今でも我々が泊まる事が可能なのだが、「重要文化財」に指定されると数々の制約が加わり、宿屋としての営業を続けるのは難しく、敢えて指定を受けないのだとご主人はちょっと複雑そうな顔をしながら話していた。

「古き良きもの」は有形無形に関わらず常に消滅する危機に瀕している。「建物」に関しても「石の文化」に対し「木の文化」は特にその傾向が強い。「人」の保護もままならない昨今、「建物」の保護など二の次、三の次になりかねない。だから、国は「貧」してはならないのだと思うのだが・・・。