源太郎のブログ

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フォトエッセイ

2018年05月27日 | 写真
東京の伝通院は徳川家康の生母於大の方の菩提寺です。
そして、浄土宗の東十八檀林(学僧の教育機関)の筆頭でした。

ここに、元和4年(1618年)澤蔵司(たくぞうす)と名乗る
僧が浄土教の修学をしたいと入門しました。 大変優秀で僅か
3年余りで浄土教の奥義を修得し、元和6年5月7日の夜、
方丈廓山和尚と学寮長極山和尚の夢枕に立って

 「そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神
なるが浄土の法味を受け多年の大望ここに達せり。今より元の神に
帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有縁の衆生を救い、
諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし。」

と残し暁の雲に隠れたそうです。

 その為、元和6年(1620年)澤蔵司稲荷が建立され、慈眼院が
別当寺となり現在まで続いています。 この澤蔵司が傳通院で修行中、
傳通院の門前に蕎麦を商う店が有り、よく蕎麦を食べに行っていた
そうです。澤蔵司がひいきにしていた蕎麦屋では、澤蔵司が現れた日、
銭に必ず木の葉が混じるので怪しみ、ある晩店の男は蕎麦を買った
澤蔵司をつけて行くと、森の中に蕎麦を包んだ皮が散らばっていたと
いう。また、この出来事から店の男が澤蔵司は狐だと感づき、それが
原因で澤蔵司は上人に自分が狐であることを打ち明けたと言います。

 この蕎麦屋が、「稲荷蕎麦『萬盛』」です。 こうした伝説が
残されているのですから、事実とすれば、「稲荷蕎麦 萬盛」の
創業は江戸時代の初めで、創業以来約400年はたっていること
になります。

 また、当時の「稲荷蕎麦『萬盛』」の主人は、澤蔵司稲荷として
祀られてから社前に蕎麦を献じていたと記されていて、江戸中期、
後期の縁起、略縁起にもまだ蕎麦の奉納が続いていると記され、
明治や昭和初期の記録にも奉納が続いていると書かれているそうです。

 現在でもその日の初茹で(初釜)のお蕎麦が朱塗りの箱に収められ
澤蔵司稲荷奉納されています。 翌日にそれをさげにいくそうです。 
この奉納する蕎麦が、「稲荷箱そば」です。 そばとともに甘く
煮たあぶらあげが添えられているのが特徴です。

そんな、お伽話のような話が、東京のど真ん中で、今でも、毎日続いて
いるとは、驚きです。そして、先日、「木の葉」で支払いをした人が
いたと、ご主人が言っていました。 澤蔵司だったのでしょうか?












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