源太郎のブログ

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三毳山

2010年03月25日 | 山行記

万葉集に「しもつけぬ みかもの山の こならのす まくわしころは たかけかもたむ」(下野の三鴨の山に生えている小楢の木のように、かわいらしい娘は 一体、誰の妻になるのだろうか)と言う歌がある。 3月の下旬、のどかな春の一日、その三毳山(三鴨の山)を歩いた。最寄駅は群馬県と栃木県を東西に繋ぐ両毛線の「佐野駅」。朝、10時少し前、「佐野駅」に着くと、改札口の外に、「カタクリの里」を初めとする近隣の観光スポットを紹介するパンフレットがテーブルの上に並べられ、妙齢のご婦人が立っていた。無料のバスも「カタクリの里」まで出ていると言う。どおりでハイキング姿が目立つ。我々の今日の行程は、南の登山口にある「三毳神社」から縦走して北側の「カタクリの里」まで歩こう、と言う趣向だ。早速タクシーに分乗して15分程の所にある神社に向かう。「三毳神社」は星の神「天香香背男命」(アメノカカセオノミコト)を祀る古い神社だ。「毳」は「柔らかい毛」を意味する漢字らしい。なだらかで優しい姿の峰が三つ並んだ様を「三毳(みかも)」と称したのだろう。登山口での何時もの「儀式」を終えると歩き始めた。冷たい風がひんやり感じていたのも束の間、急な階段状の登りに汗ばむ。30分程の所にある日本武尊の足跡石と呼ばれる足型の石のある辺りでは、もう息が上がっている。相当な急登だ。奥宮までは登山口から小一時間、我々が到着した時はお昼のお弁当を食べる一団で溢れていた。我々も早速その仲間に加わる事にした。

 腹ごしらえを済ますと北に向かう。15分程で今日最初の小さなピーク、中岳(210m)に着く。流石連休の最終日、人が溢れている。暫く行くと峠の車道に下りた。そこは、ちょっと変なネーミングだが「山頂広場」と呼ばれ、東屋やトイレ等がある。そこで用を済ませると先に進む。10分程で再び車道を渡るとすぐ山道の分岐に着く。ここはその昔

「三毳ノ関」があった、と言われている所だ。が、今はひっそりと石の祠が立つのみで何もない。「関」は7世紀の奈良時代、近江の国府(滋賀県大津)から陸奥の国府(青森)を結んだ「東山道」に設けられたと言う古の「関所」跡だ。そこから暫く進むと「花籠岩」の脇を通り、広い平坦な山道となって、正面の木々を通して青空をバックに「三毳山」のシルエットが浮かぶ。殊更急ぐ訳の無い行程、山道の脇に座って休憩を取る事にした。

 低山とは言っても「三毳山」の登りに掛ると急登が続く。10分程だが、長く感じる。午後2時前、この日の目的の山「三毳山」229mに着いた。頂上からは雪を頂いた「男体山」を初めとする日光連山や赤城山等も見えている。どうやら「三毳山」とは山域の総称で頂上には「青竜ヶ岳」と229mの山とは思えない「豪壮」な名前が書いてあった。思わず「青竜ヶ岳」3229mに着きました!と言ってしまった程だ。

 頂上を出て15分、尾根を東に分ける分岐に出た。指導標には東の方向に「カタクリ群生地」とある。皆、躊躇なく東の道を取る。そこから5分、「カタクリの群生地」に着いた。満開の「カタクリ」が一面に群生している。この「カタクリの群生」だけを目当てに多くの人がカメラを向けていた。「カタクリの群生」に加えて「イチゲ」の白も目立つ。管理人の人に聞いたら7~8月に下草を刈る位で肥料はもとより手入れなどせず、自然のままだと言う。5月下旬、実が弾けて2~30のタネが落ちる。生き残ったタネが翌年、針の様な新芽を出す。翌年はそれが小さな葉になる。毎年少しずつ成長して7~8年、ようやく花を咲かせるのだ。花の命は短い、が花をつけるまで、何と長い事か。

 園地を抜け、そろそろ「気もそぞろ」になってきた頃、最後の「びっくり」が待っていた。「ミズバショウ」の群落が突然現れたのだ。思わず、大歓声が上がった。意外だったからだ。そして、春の息吹を堪能した余韻に浸りながら我々の一日は終りを告げたのだった。

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エアライン ④

2010年03月16日 | エッセイ

 1903年、ライト兄弟の初飛行以来、飛行機の進化は著しい。座席の数は、より多く、スピードは、より早く、航続距離は、より長く、と進化を続けた。まだ未就航だが、今最大の座席数を誇る飛行機はフランスの航空会社がエアバス社に発注したA380機の840席と言われている。その多さを「おぞましい」と感じるのは私だけだろうか? 航続距離はどうだろうか。飛行機を製造する会社は新しい飛行機が出来ると性能テストの為長距離飛行に挑戦する。ボーイング777-200LRは香港~ロンドンを東から回って約21、600㌔を所用時間22時間42分で飛んだ。東に飛んだのは偏西風を利用する為であったし、勿論「空身」のフライトだった。それにしても凄い。太平洋と大西洋を一気に飛んでしまったのだから。現在商業飛行で一番の長距離便は香港~ニューヨーク間のフライトで13、000㌔、所要時間15時間30分だ。因みに、私が旅客機で飛んだ最も短い距離・時間はジャンボジェットで東京都内の某空港から羽田までの約10分間であった。

  飛行機に乗る為の搭乗橋(ボーディング・ブリッジ)はとても便利な物だ。「沖止め」と呼ばれるターミナルから遠い駐機場では雨風の強い時には不便だ。搭乗橋はその欠点を補う。だが搭乗橋の操作は難しい。スピードを出し過ぎると、勢い余って飛行機に衝突、と言う事もある。飛行機の機体は「弱い」から、穴が開いてしまう。そうなると、飛行機は修理が済むまで暫く使えないので大損害である。乗客の搭乗が終わると、機体から離して止める。遅れてやってきた乗客が、飛行機に乗りたい一心の乗客、航空会社の社員の制止を振り切って搭乗橋を走って飛行機に突進。飛行機から既に離れていた搭乗橋の端から地上に真っ逆さま、という事も起こる。

 飛行機を満席にするのは意外に難しい事だ。飛行機の座席が300席だったとして、300人分の予約を取って、300人が予定通り空港に現れれば、必然的に飛行機は満席になる。が、現実はそれ程簡単ではない。例えば、上海から成田に来て飛行機を乗り継ぐ場合、上海~成田の便が何らかの事情で遅れた場合、乗り継ぎが出来ない場合が生じる。それが50人だったとすれば50席空いてしまう、と言う訳だ。飛行機を満席に出来ない最大の理由は、予約したお客さんが予約通りに現れない事だ。「現れない」理由は数多い。ただ単に予定が変わったのに、予約を変更しなかった。最初から、二股を掛けて、他の航空会社で飛んでしまった。空港までの交通機関が遅れて出発時間に間に合わなかった、空港に来たら旅券を家に忘れていた、渡航先の査証を持っていなかった、等々多岐に渡る。ホテルの部屋も同じだが、空席で飛んだ飛行機の座席は2度と戻らず損失となる。そのリスクを避ける一つの方法が所謂、オーバーブッキングだ。予約して飛行機に乗らない人の数を予想して、その数だけ多く予約を取る事だ。だが、どの位「多く」か、を判断するのは難しい。何時も、予約して現れない人の数が一定ではないからだ。一昔前、「リコンファーム」等と言う習慣があった時は余り起こらなかった問題が航空会社を悩ませている。最近では国内線でも、ゲートで後続の便に振り替えても良い人を探すアナウンスをしている。満席にするもう一つの方法は「空席待ち」だ。一定の数だけ、空港のカウンターで待たせ、空席が出たら乗せる、と言う事だ。国際線では便によって、多い時には100人以上、予約したのに現れない事もあるから、エアラインも辛い商売だとも言える。

 予約を取り過ぎて席が溢れる、と言う以外に、ファーストクラス、ビジネスクラスを予約したけれど、予約したクラスが一杯になってしまう、と言う事も起こる。せっかく大枚払ってビジネスクラスを予約して、空港に来たら、エコノミークラス、と言われたら、如何思うだろうか。勿論、差額の払い戻しはあるが、気分は悪いだろう。

 ある時、ニューヨーク・フィルの指揮者が日本での公演を終え、日本のプロモーターと一緒に成田に来た。勿論ファーストクラス。だが、予約した飛行機は「機材繰り」の為、欠航になってしまった。選択肢は二つ、翌日のファーストクラスか、その日の他社のエコノミークラス。青くなったのは指揮者本人よりプロモーターの方だった。翌日、リハーサルを控えていた指揮者の選択肢は「エコノミークラス」で行く以外は無かった。ファーストクラスで、常々習慣的に旅行している身にとって、ニューヨークまでエコノミーの長時間フライトは辛かったに違いない。

 自動車のエンジンからオイル漏れがあるように、飛行機のエンジンからもオイルは漏れる。だが、飛行機はオイル漏れに構わず飛ぶ事がある。オイルが漏れていて、飛ぶ、とは信じられないかもしれないが、そう言う事もあるのだ。一定時間に漏れるオイルの量が許容範囲なら、そのまま飛んでしまう。勿論安全に支障はない。経験に裏打ちされた「プロ」の処置、と言える。機体に「穴」が開いてしまったら「テープ」で塞いで飛ぶ、事もある。勿論、「穴」と言っても大きさや場所による。飛行にさし障りのない場所なら「テープ」で済ます事もあるのだ。但し、ただの「テープ」ではない。金属製の特殊なテープを張ってしのぐ。勿論、応急措置だ。

 旅客機が飛び立って、目的地の空港に到着できない理由は多い。例えば、天候不良・飛行中の機体の不具合・急病人・目的地の空港の閉鎖・燃料切れ・ハイジャック等々である。そんな事は、かなり頻繁に起こっている事だ。ある時こんな事があった。ソウル~成田便がソウルを飛び立って間もなく、成田の天気が悪い。目的地を変更して飛行機が向かったのは関西空港。そこで成田の天候の回復を待つ。やっと天候が回復、と言う事で関空を飛び立つ。所が再び天候が悪化、飛行機は羽田に着陸、そして、その便は時間切れで打ち切り。だが、乗客は降りられず、機内に缶詰。「国内線専用」だった羽田には税関・入管・検疫官が居なかったのだ。係り官が大挙して、陸路成田から羽田に着くまでの数時間、乗客は一歩も機外に出られず、食べるものも無く、長い一日を過ごす羽目となってしまったのだった。