10月の中旬、「弥山(みせん)」巡りの旅に出た。日本には「弥山」と名のつく山は多い。「弥山」とは須弥山(しゅみせん)の事でサンスクリット語が語源だ。古代インドの世界観の中心にそびえる山を意味する。
最初に訪れた「弥山」は広島県福山市鞆の浦(とものうら)の対岸に浮かぶ「仙酔島」にある。島の周囲6km足らず。ホテルはあるがその島に住む人はいない。この辺りを含む一帯は1931年、「瀬戸内海国立公園」として日本で最初の国立公園に指定された。「国立公園」の指定を記念した切手の図柄に「仙酔島」の風景が選ばれているから、「仙酔島」はとりわけ代表的な景観だったのだろう。我々は砂浜に面したホテルに荷物を置くと、早速「弥山」に登る事にした。登山口はホテルの目の前、と言って良い所。なだらかな広い山道を登る事10分、小弥山への分岐が現れる。小弥山を往復して分岐に戻ると、今度は中弥山を目指す。登山口から約30分石の祠がたたずむ、誰も居ない中弥山で一休みして大弥山に向かう。歩き始めてから丁度1時間、やや急な登りを終えると大弥山、159mに着いた。頂上の東屋からは眼下に「鞆の港」が見える。
下山の途中から一般道を外れ、木々の鬱蒼とした小道を下った。始めは殆ど見えなかった景色も、木々の間から島々が見える頃になると下山も終わる。下山口の先には絵のように美しい砂浜が広がっていた。よく耳にする「山紫水明」と言う言葉は頼山陽が鞆の浦や仙酔島を指して使った言葉だと言うのも頷ける。波静かなその日、数センチとも思える小さな波の奏でる潮騒が耳をくすぐった。のどかな浜辺を進むと波打ち際から数メートルの所で船から箱メガネと銛を片手に漁師が漁をしているのが見えた。何が獲れるのだろうかと思う間もなく、猟師の動きが素早くなって何か海中から引き揚げた。我々も目の前の展開にワッとなって思わず何が獲れたのかを聞いたら「マダコだよー」と答えが帰って来た。「タコ」等、沖合で獲れるものと思っていたが波打ち際で獲れるとは。だれかが「美味しそうねー」と声を掛けると気風の良い漁師さんは「あげるよ」といいながら獲れたてのタコを袋に入れて投げてくれた。タコはホテルでお刺身と天ぷらに仕上げられ我々の夕食を飾り、その味は殊更美味しかったのは言うまでも無い。
翌日、我々は島の対岸にある「鞆の町」を歩いた。「鞆の町」のルーツは「鞆の浦」に面する「鞆の港」だ。古来、「潮待ち」の港として栄えた。満潮時、瀬戸内海に流れ込む海流は瀬戸内海のほぼ中央に位置する「鞆の浦」の沖合でぶつかり、干潮時には東西に分かれて流れ出して行く。「地乗り」と呼ばれる沿岸の陸地を目印として航海していた船は潮の流れを利用した。その潮の流れが変るのを待ったのが「鞆の港」であったのだ。「潮待ちの港」と言われた所以である。「魏志倭人伝」の「投馬国」の推定地の一つだと言うから、その歴史は古い。我々が最初に向かったのは「朝鮮通信使」の「迎賓館」とも言われる「対潮楼」だ。その昔、通信使が「日東第一形勝」と形容した景色の見える高台にある。「鞆の町」は、最近では、映画監督の宮崎 駿監督が滞在し、アニメ作品「崖の上のポニョ」の構想を練った場所としても知られている。この町の歴史に彩りを添える出来ごとと言えば「いろは丸」の事件だろう。慶応3年4月(1867年)坂本竜馬の乗る「いろは丸」が紀州藩の船「明光丸」と衝突、「いろは丸」が沈没した事件だ。沈没を免れた「明光丸」は竜馬を始めとする「いろは丸」の乗組員を乗せて「鞆港」に入港。「鞆の町」は竜馬による「損害賠償交渉」の舞台となったのである。「鞆の港」は江戸時代の港湾施設、雁木、常夜灯、波止場、船番所、焚場が唯一残る貴重な場所である。港は小さいが港の周りには江戸時代の蔵や建物が立ち並び風情ある街並みを形作っている。
鞆の町には「架橋問題」と言う長年の懸案がある。外部からの「観光客」の視点とそこで生活する人達の視点は自ずと違う。我々は、昔ながらの景観がなるべく多く、なるべく長く残って欲しい、と願うが、そこに住む人々は「不便」この上ないのだ。背後に迫る山と陸地に食い込んだ港との空間は狭い。その狭い、くびれた場所には古くからの、車等無かった時代に形成された街並みに狭い道が通っている。朝夕の時間には通勤や通学の車がひしめきあう。そんな問題を解決する為、港の入口をまたいで橋を掛ける話が持ち上がったのは今から30年程前の事だった。それからはお定まりの「論争」が始まった。推進派と反対派の対立だ。地元に住む「推進派」に対し、「反対派」には外部の所謂「有識者」等が加わって問題を一層複雑な物にした。2年前に、裁判所は港の「景観利益」を認めて免許の停止命令を出して膠着状態が続いている。先日テレビを見ていたら、家電を販売する会社のコマーシャルで「お客様のもっともっとにお応えして」と言うのがあった。「架橋問題」は「もっともっと」とは少し違う話だが、「エコロジー」、「震災」「節電」等を考えても「もっともっと」と言う時代は既に終わったのではないかと私は思うのだが・・・。続く
最初に訪れた「弥山」は広島県福山市鞆の浦(とものうら)の対岸に浮かぶ「仙酔島」にある。島の周囲6km足らず。ホテルはあるがその島に住む人はいない。この辺りを含む一帯は1931年、「瀬戸内海国立公園」として日本で最初の国立公園に指定された。「国立公園」の指定を記念した切手の図柄に「仙酔島」の風景が選ばれているから、「仙酔島」はとりわけ代表的な景観だったのだろう。我々は砂浜に面したホテルに荷物を置くと、早速「弥山」に登る事にした。登山口はホテルの目の前、と言って良い所。なだらかな広い山道を登る事10分、小弥山への分岐が現れる。小弥山を往復して分岐に戻ると、今度は中弥山を目指す。登山口から約30分石の祠がたたずむ、誰も居ない中弥山で一休みして大弥山に向かう。歩き始めてから丁度1時間、やや急な登りを終えると大弥山、159mに着いた。頂上の東屋からは眼下に「鞆の港」が見える。
下山の途中から一般道を外れ、木々の鬱蒼とした小道を下った。始めは殆ど見えなかった景色も、木々の間から島々が見える頃になると下山も終わる。下山口の先には絵のように美しい砂浜が広がっていた。よく耳にする「山紫水明」と言う言葉は頼山陽が鞆の浦や仙酔島を指して使った言葉だと言うのも頷ける。波静かなその日、数センチとも思える小さな波の奏でる潮騒が耳をくすぐった。のどかな浜辺を進むと波打ち際から数メートルの所で船から箱メガネと銛を片手に漁師が漁をしているのが見えた。何が獲れるのだろうかと思う間もなく、猟師の動きが素早くなって何か海中から引き揚げた。我々も目の前の展開にワッとなって思わず何が獲れたのかを聞いたら「マダコだよー」と答えが帰って来た。「タコ」等、沖合で獲れるものと思っていたが波打ち際で獲れるとは。だれかが「美味しそうねー」と声を掛けると気風の良い漁師さんは「あげるよ」といいながら獲れたてのタコを袋に入れて投げてくれた。タコはホテルでお刺身と天ぷらに仕上げられ我々の夕食を飾り、その味は殊更美味しかったのは言うまでも無い。
翌日、我々は島の対岸にある「鞆の町」を歩いた。「鞆の町」のルーツは「鞆の浦」に面する「鞆の港」だ。古来、「潮待ち」の港として栄えた。満潮時、瀬戸内海に流れ込む海流は瀬戸内海のほぼ中央に位置する「鞆の浦」の沖合でぶつかり、干潮時には東西に分かれて流れ出して行く。「地乗り」と呼ばれる沿岸の陸地を目印として航海していた船は潮の流れを利用した。その潮の流れが変るのを待ったのが「鞆の港」であったのだ。「潮待ちの港」と言われた所以である。「魏志倭人伝」の「投馬国」の推定地の一つだと言うから、その歴史は古い。我々が最初に向かったのは「朝鮮通信使」の「迎賓館」とも言われる「対潮楼」だ。その昔、通信使が「日東第一形勝」と形容した景色の見える高台にある。「鞆の町」は、最近では、映画監督の宮崎 駿監督が滞在し、アニメ作品「崖の上のポニョ」の構想を練った場所としても知られている。この町の歴史に彩りを添える出来ごとと言えば「いろは丸」の事件だろう。慶応3年4月(1867年)坂本竜馬の乗る「いろは丸」が紀州藩の船「明光丸」と衝突、「いろは丸」が沈没した事件だ。沈没を免れた「明光丸」は竜馬を始めとする「いろは丸」の乗組員を乗せて「鞆港」に入港。「鞆の町」は竜馬による「損害賠償交渉」の舞台となったのである。「鞆の港」は江戸時代の港湾施設、雁木、常夜灯、波止場、船番所、焚場が唯一残る貴重な場所である。港は小さいが港の周りには江戸時代の蔵や建物が立ち並び風情ある街並みを形作っている。
鞆の町には「架橋問題」と言う長年の懸案がある。外部からの「観光客」の視点とそこで生活する人達の視点は自ずと違う。我々は、昔ながらの景観がなるべく多く、なるべく長く残って欲しい、と願うが、そこに住む人々は「不便」この上ないのだ。背後に迫る山と陸地に食い込んだ港との空間は狭い。その狭い、くびれた場所には古くからの、車等無かった時代に形成された街並みに狭い道が通っている。朝夕の時間には通勤や通学の車がひしめきあう。そんな問題を解決する為、港の入口をまたいで橋を掛ける話が持ち上がったのは今から30年程前の事だった。それからはお定まりの「論争」が始まった。推進派と反対派の対立だ。地元に住む「推進派」に対し、「反対派」には外部の所謂「有識者」等が加わって問題を一層複雑な物にした。2年前に、裁判所は港の「景観利益」を認めて免許の停止命令を出して膠着状態が続いている。先日テレビを見ていたら、家電を販売する会社のコマーシャルで「お客様のもっともっとにお応えして」と言うのがあった。「架橋問題」は「もっともっと」とは少し違う話だが、「エコロジー」、「震災」「節電」等を考えても「もっともっと」と言う時代は既に終わったのではないかと私は思うのだが・・・。続く