源太郎のブログ

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「シンプル・ライフ」

2011年03月31日 | インポート
 「それは君に能力がないからだよ!」。ガ~~ン。私がサラリーマン一年生だった頃、私が思わずつぶやいた「忙しい」の一言に先輩が噛みついた。それからは、「忙しい」は私にとって禁句になってしまった。が、実の所、ここ数年、「忙しい」日々が続いている。何しろ、私の仕事には終りが無い。一つ終われば、次、又次、と際限なく続く。余り間際にバタバタしたくないと、先、先、先と追いかける、もうこの辺で、となったら、今度は準備を掘り下げる。今度は、下へ下へ下へ、となる。だから、際限が無い。おまけに、私の仕事部屋は寝室も兼ねているから、真夜中、フッと目が覚めて眠れない時、起きだしてベッドの隣のデスクで仕事を始める、と言うような事もある。ここ数年、一瞬たりとも仕事をする時間が無かったのはたった1日だけ。

 それが、突然「時間」が降って来たのだ。「震災」以降、3月から4月にかけて日程をキャンセルした為、「ミニ失業」状態に陥ったのだ。「忙しさ」と「暇」のギャップ。戸惑ってしまった。そのギャップはブログの更新頻度に如実に表れている事でお気付きかもしれない。だがしかし、人には常々やりたいと思っていて出来ない事がある。私にも沢山ある。前から買いたかった自転車を買って、運動不足解消の為、遠出をする、長年、撮りためた、数万枚のアナログ写真のデジタル化等々、手を付け始める事が出来た。まだまだ、その他にもやりたい事はごまんとあるので、「暇」は嬉しい、と言えなくもない。

 今夏に予想される「計画停電」、皆、昨年の「猛暑」を覚えているから戦々恐々の態だ。あの、暑さを冷房なしで過す事を考えただけでも、もう駄目、と多くの人は感じるに違いない。今回の「計画停電」、本来、計画的に行おうとすれば、年単位の準備と広報が必要な出来ごとなのだが、今回は11日の金曜日に地震が起こって、土日を挟んで、月曜日から、突然始まった。電気を消される我々も突然で戸惑ったが、消す方も、大慌てだったに違いない。だから、準備不足は否めない。あちこちから、不平不満の声が渦巻く。責任の所在はともかく、突然の停電による大混乱回避の為に急ごしらえの「計画停電」も、やるしかなかったのだ。私個人で言えば、家の中にエアコンはないし、私が一日の大半を過ごす、仕事部屋兼寝室にはここ数年、暖房も無い。昨年は暖房のある居間に何度か逃げ込んだが、今年はとうとうそんな事も無かった。真夏、西日を受ける部屋の暑さは筆舌に尽くしがたい。おまけに、熱気は上階の私の部屋に、必然的に集まって来るのだ。荷物の配送を受け取る時、慌てて人前に出られるような姿になるには暫く時間が掛ってしまう。涼しい山との往復がなければ、生きてはいないかもしれない。もし、日長、ずっと自分の部屋にいなければならなかったとすれば・・・、う~~ん、考えるだけでも恐ろしい。

 「計画停電」、もとはと言えば、原発の事故で需要に供給が追い付かない状態になってしまった為。だから「節電」と言う訳だ。この夏に向けてどれだけ「節電」が出来て、「供給」の回復が見込めるのか、現時点では夏の「計画停電」は不可避、との予想が出ている。が、私はやや楽観的だ。ひやひやするものの、多分、それ程の大騒動にはならないだろう。世界中の国民の中で、日本人は、その気になれば、一定の「節電」など一致してやってしまう事が一番得意な国民だからだ。自ら改革する事が不得手な日本人は「停電」と言う、外圧をテコにして、今までの生活を見直す良い機会が来たとも言えるのではないだろうか。


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「気散じ」

2011年03月21日 | エッセイ
 「今日はすいているみたいで、嬉しい」と鎌倉駅の改札口の外で、「鎌倉見物」に来たらしい女の人がつぶやいていた。なぜ「すいている」のか、訳を考えれば喜んでばかりいられないのではと、私は思った。

 「大震災」から一週間程たって、私の生活リズムはすっかり狂ってしまった。なぜか集中力がわかないのだ。もっぱらテレビに見入り、パソコン画面に見入る時間が多くなった。月内の殆どの予定をキャンセルし、家に引きこもった状態になってしまったのだ。突然降ってわいた「長期休暇」も喜んではいられない。何も心配する事がなければ、近場の海外にでもぶらっと、出て見たい所だがそうは行かない。鬱々とした気分を散じる為、1人、山を歩いてみよう、と思った。体力の低下も防止できるし、常々調べたいと思っていた鎌倉アルプスの枝道や踏み跡をしらみつぶしに歩こう、と思ったのだ。それに、こんな時、山に人は出ているのだろうか、と言う興味もあった。晴れてそれ程寒さも感じない、連休初日と言うお日柄の鎌倉、普通だったら人で溢れているはずなのだ。

 最寄りの駅から電車に乗ると、お墓参りにでも行くのだろうか、何事もなかったように、沢山の人が乗っている。それでも、普段のより多いのか、少ないのかは判らない。とにかく、皆、何事も無かったような風情だ。普段なら、三日にあげず歩いている我が身にとって、一週間も歩かないと、もう体がなまった感じがする。体力も、わずかだが落ちているのだろう。やはり、山の体力は山で維持する以外ない。

 鎌倉の駅前、やはり普段の「喧噪」とは違う。人は沢山いるが、普段はこんなものではない。でも、「霊園」に向かう私の乗ったバスは墓参に行くらしい人々で満員だった。目的のバス停で降りるとすぐに歩き始める。予め、解明したい枝道や踏み跡は決めてある。それにしても、普段、余り一人で歩く事は少ない。同行者がいる時、未知の枝道や踏み跡を見つけると、そこに入って見たい衝動にかられる。獲物を前にした「猟犬」の気持だ。そんな時は、踏み跡の状況を「記録」して、後日再訪する事もある。何故、それほどの衝動にかられるのか、自分にも判らないが、その道が何処に通じているのかを、知りたいと言う大いなる「好奇心」に違いない。出掛けたのが遅かったので、登山口から歩き始めて15分程、最初の分岐で、もうお昼にした。その間、目の前を通る人を観察していたら10人程の人が通過した。ほんの10数分の間だから多いな~と、その時は感じた。昼食の後、お目当ての枝道に着いて躊躇なくそこに入る。初めて歩く道は、私をわくわくさせる。早く歩けばそれだけ沢山見られる、と思っている為か、とても速足だ。だが、全ての分岐では必ず状況を記録し写真を撮ると言う作業を繰り返す。程なくしてT字分岐に着いた。大体の方向感覚で右へ行く。3分程で又T字。ここも右に行く。数分歩いてすぐに既知の分岐になったので戻る事にする。今度は最初のT字分岐に戻り左の踏み跡を下る。すぐ小さな尾根が二手に分かれる。左手の尾根を下り、すぐ右の尾根に乗換える。急な下りの後踏み跡はトラバース道となり進む。踏み跡はやがて沢に下り水流に沿って行く。最初の分岐からここまで約30分、やがて沢は本流に合流し過去に歩いた事のある一般道に出た。私が下水の様な所を歩いているのを一般道を歩いている人が見たらびっくりするに違いない。そこから、又、天園へ向け登り返した。自分にとって未知の道の発見は大きな喜びだ。今日は大きな収穫があった。

 私の「枝道探検」は何時もこんな具合だ。が、殆どは徒労に終わる。今回のような「発見」はまれなのだ。天園に戻ると、行きつけの茶屋のおばさんにインタビュー。人出は、「お日柄」にしては、ちょっと少なめ、との事だった。それでも、茶店には10人程のお客さんが居た。北鎌倉に着くまで何人ものハイカーとすれ違ったが、ちょっと驚いたのはこんな時でもトレイル・ランナーが沢山走っている事だった。

 帰り、私は「屋台」を引いてはいなかったが横浜駅に隣接した「デパ地下」に寄った。ものすごい数の人出で溢れていた。入口を入ってすぐにあるケーキ売り場には黒山の人だかりだ。地震の被災地の窮状と比べ、何と言うコントラストかと思い、私は愕然としてしまった。



「その時、山が、左右に、ユラユラと、ゆれた」

2011年03月12日 | エッセイ
芦ノ湖の西岸。地図では「好展望」と書かれた所に「箒ヶ鼻」と呼ばれる小さな岬が湖に突き出ている。その岬を過ぎて暫く行くと、かつてあった地震災害の慰霊碑がある。昭和5年(1930年)11月26日早朝、丹那盆地を震源としたマグニチュード7.3の内陸直下型地震が発生し土砂崩れ・陥没・地割れ等を引き起こした。「慰霊碑」のあった所には御料局の造林作業に従事する人達の宿舎があり地震で芦ノ湖に押し流され8名の人達が亡くなったと言う。へ~、そんな事があったんだ~、と思う我々が、数時間後、もっと大きな地震に襲われるとは、その時夢にも思わなかったのは言うまでもない。

 芦ノ湖の西岸を半周する、と言う企画は数日前に降った雪の影響で11日に延期となっていた。当日は、ちょっと風が冷たかったものの朝から願ってもない青空快晴の日和。箱根湯本に集合してバスで関所に向かう。箱根の坂を登り、バスが高度を上げるに従い道路脇に寄せられた残雪が顔を出し始める。そして、バスが湖畔に下ると、雪の跡も所々に散在する程度になっていた。準備体操もそこそこに歩き始めたのが11時前。暫く歩いた旧街道に別れを告げて進むと「畑引山」のある「やすらぎの森」へ続く山道の分岐が現れる。今回は、「畑引山」を歩くのも目的の一つだから指導標のある山道に入る。暫く、数センチの残雪が所々に現れる。「畑引山」は標高776mの山だが登山口からの標高差は約40mだけ。あっと言う間に通過して残雪を踏みながら下山。西岸周遊路に出る手前で早々と昼休みをとる。

 昼食後、所々薄っすらと雪の残った林道風の道を行く。間もなく車止めのあるゲートを過ぎると「白浜」と言われる所を通過。そこから30分程で、くだんの慰霊碑のある場所に着く。周遊道は湖岸に沿い造られ、遠望する雪を頂いた駒ケ岳が美しい。道は「百貫ノ鼻」へと続き「真田浜」では湖岸の小さなビーチに降りて小さな波の打ち寄せる音を耳にし、対岸に見える権現神社の大きな赤鳥居などの景色を楽しんだ。

深浦水門から「立岩」と呼ばれる所を過ぎ「小杉の鼻」と呼ばれる岬を過ぎた辺りでやや道が狭くなり、残雪が圧雪され、やや滑りやすい下りがあった。道の右斜面は湖面に向かって急角度で落ちている。雪が無ければ何と言う事もない所だが安全策を取ってロープを張る事にした。ロープを張りながら現場を行きつ、戻りつしていると、突然誰かが叫ぶ。「先生、地震ですよ!」ふと見上げると山が右に左にゆっくりと大きく揺れているのが見えた。私には何も音が聞こえず、ただ景色が揺れている事だけが判った。だが、我々に出来る事はその危険地帯を一刻も早く立ち去る事だけだ。揺れが収まると短い距離だが、ロープと木に掴まりながら下山を開始した。ネットで地震情報を見ながら湖尻水門を通過した後、5時前、桃源台に着くと丁度小田原行きのバスが出る所だった。

 最初はスムーズに流れていた道路も宮城野を過ぎる辺りから交通渋滞で遅々として進まなくなってしまった。地震で皆一斉に帰路を急ぐ人が増えたのに加え、高速道路の閉鎖で一般道路がパンク状態になってしまったのだ。登山鉄道が動いている事を知って、我々は急遽宮の下でバスを下車。その時既に運行が止まっていた新幹線・東海道線・小田急線が再開する事を期待して登山電車で湯本から小田原へ出る事にした。午後7時半、桃源台を出てから2時間、ようやく小田原駅に到着。改札口の外は人で溢れかえっていた。東海道線だけが問題ならその日の内に復旧する可能性はあるが、JR東日本全体の問題なので、東に向かう電車の運転再開は無さそうだ、との判断で、小田原で一夜を明かす事にした。駅で小田原市が避難所を提供している事を知り、全員そこへ向かう事にした。ぞろぞろと、人の群れに従い、10分程歩いた所にある中学校に到着。外も中も人で溢れていた。登山靴を脱ぐとすぐ毛布を配る列に並ぶ。市役所の職員とボランティアの青年が箱から毛布を取りだし配っている。毛布を受け取ると、既に満杯の一階から2階の体育館に誘導され毛布を敷いて寝場所を確保。我々の後からも続々と毛布を手にした「帰宅困難者」が続く。後で聞いたら、中学校の避難所には約1000人が一夜を明かした、と言う。でも、我々は、取敢えず今晩の寝場所を確保して一安心した。随時、ネットで情報を収集、携帯で連絡が必要な人に電話で安否を知らせる。ひと段落するとお腹の事がようやく気になり始める。全員の食料を出して「夕食」をとった。同時に、小田原市の職員が「乾パン」の夕食を配り、暫時新幹線・東海道線・小田急線の運行状況が連絡される。9時過ぎからぼつぼつ寝始めるが照明の明るさと「騒音」で寝るどころではない。深夜、12時少し前、小田急線が12時頃から復旧するとの情報が入る。12時過ぎに電車に乗っても町田・新宿は午前1時・2時の話だしその先の交通手段も不明では行く事は出来ない。

 殆ど眠れぬまま朝を迎えて5時過ぎに起床。7時過ぎには東海道線も動き出すとの情報が入っている。市役所の人が、カップラーメンのサービスがあると知らせている。早速、列に並びカップラーメンを貰う。戸外の大鍋でお湯を沸かしラーメンを作っている。寒い一夜を過ごした後の暖かい食べ物が嬉しい。親切で行き届いた市役所の職員の活動には頭が下がる思いだ。朝、7時過ぎ、小田原駅での運行状況確認の為避難所を出る。JRの改札内外には人が溢れしきりに職員がマイクで状況を説明している。7時から運行する筈の電車が出ないのだ。何の事か判らなかったが「番線の確認」の為との事。ただ待つよりはと改札口に戻って喫茶店でコーヒーを飲みながら待つ事にした。小一時間後、JRの改札口に戻ると状況に変化は無かった。即座に、東海道線を諦めて既に通常通り運行中の小田急線に変更。8時半頃、小田原を後にして長い「一日」を終り我々は帰路に就いた。

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「注意書き」

2011年03月09日 | エッセイ
 先日、街を歩いていたら、駐車場でこんな「注意書き」にお目にかかった。曰く「駐車場内での盗難・事故については責任を負いかねません」。うわ~、太っ腹! 駐車場で何か盗まれたり事故があったり時には「責任を負うかも知れません」、と言っているのだ。でも、真意は「駐車場で盗難があったり、事故があったりしても責任は負いません」と言いたいのだろう。それならば、「駐車場内での盗難・事故については責任を負いかねます」、と言わなくてはいけない。やはり、勉強は大事だな~。

 巷に溢れる「不思議な」注意書きやカンバン・表示は時として、我々を楽しませてくれる。日本国内で間違った「外国語表示」を収集している外国人も居ると聞く。「笑い」のタネにしよう、と言う訳だ。事実、「抱腹絶倒」の「間違い」も多い。サンフランシスコの空港、ある時変な「日本語の看板」が目についた。「ウドンハー」と書いてある。何のこっちゃ? と思ったが、後日、再度行った時にも同じだったが、その時は何の事だか判った。正しくは「ウドンバー」なのだ。「バー」が「ハー」になってしまっていた。多分、間違いと言うよりは、「バー」の点々が落ちてしまったのだろう。「ウドンバー」は「すしバー」と同じで「うどん屋」の事だった。

 ニュージーランドのある空港でトイレに行って立ったら、目の前にこう書いてあった。「Need to refill?  Check out our airport cafés and bars for something refreshing」。思わず、ニヤリとした。日本ではこんな「広告」はない。「出したもの、使った者、無くなったものを再び補給したり詰め替えたりする事が「refill」の意味だ。つまり、「ここが終わったら、私たちの店に来て、ビールかコーヒーでも飲んで出したものを補給してね」と言う訳だ。我々の感覚ではちょっと違和感のある「広告」だろう。

 トイレには数々の「個性的」な「注意書き」が多い。先日、こんな「注意書き」に御目にかかった。「お願い 男性の方も座ってご使用ください」とあった。え~、そんな事まで指示されるの~、と、ちょっとびっくり。へそ曲がりな私は「素直」に指示には従わなかったのは言うまでもない。

 こんな「注意書き」にも御目にかかった。これは、何度読み返しても未だに意味不明なのだが、曰く、「御客様各位 お願い 水の流れる反応が遅い場合がありますので、一度ボタンを押すか、センサーに触れて流れない時は、再度ボタンを押すか、センサーに触れて流していただきますようよろしくお願いいたします。駅長」。いやはや。


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