源太郎のブログ

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「一人旅」

2012年02月08日 | エッセイ
 奈良・明日香村、甘樫の丘と石舞台古墳のほぼ中間。役場のある通りを東に向かい、T字で右折すると、岡の集落の古い屋並みが続く通りに出る。古びた黒い瓦屋根の家々は古からの時間に洗われ古風な佇まいを見せている。通りを抜けると石舞台古墳は近い。古墳への入口をやり過ごして上居へ向かう道に入る。年も押し迫ったこの日、曇りがちで風も冷たい。舗装の道はうねりながら標高を上げる。上居の集会所を過ぎて間もなく、二手に分かれた道に、「ん?」となった。左の道はなだらかに下り、道の先は左にカーブして見えない。右の道は登りで真直ぐに舗装道は続く。はて、どちらに行ったものか?考える間もなく、私の足は左の道に向かっていた。ほんの20m程で高台の広い敷地に建つ建物が見えた。おや、民家か?このままでは人の家の庭に出てしまう。間違えた。踵を返すと、もと来た道を戻った。先程の分岐が見えた時、人が下りてきた。民家の住人だと判った。2人は目を合わせると、一瞬動きを止めた。明らかに、不審の目で私の事を見ている。私もこれはまずい、と思った。自分の家に帰ろうとしたら、自分の家の方から見知らぬ男が現れたのだ。逆のシーンなら問題はない、が実際はそうではなかった。まずいと思いながらも、咄嗟に「道」を聞く事にした。事実、道が判らくなっていたからだ。「談山神社」に行く道はどっちですか?」。長い髪の、いかにも陶芸家然としたその人は私が思っていた以上に親切に道を教えてくれた。そして最後に、頭の先からつま先まで私を「品定め」すると、こう付け加えた。「貴方の足なら1時間、いや1時間半位で行けますよ」。彼が言い直したのが気になったが礼を言うと歩き始めた。暫く舗装道が続いた後、「陶芸家氏」が教えてくれた通り、土道が始まった。沢沿いの湿った道だ。20分程登ると石の道標の建つ分岐に出た。「万葉展望台」へはそこから一登りで行ける。生憎の曇り空だったが「展望台」からの景色は素晴らしかった。西に「金剛山」、目の前には「大和三山」、そして北に目をやると遠くに奈良の市街も見えた。先程の分岐に戻ると「談山神社」へ向かう山路を東へ向かった。それにしても「空気」が冷たい。20分程歩くと舗装された林道に合流した。引き続き東へ道を取る。20分程歩くと、大きく「増賀上人墓(そうがしょうにん)、念誦崛(ねずき)」と書かれた「案内板」が目に入った。増賀上人は平安時代の僧、西暦1003年、87歳で没し、その入滅の様子は「今昔物語」にも記されていると言う。山路を登り、石段の先にある「念誦崛」は増賀上人が念仏三昧のまま入滅したと言う石を組み合わせた円墳だ。「念誦崛」を後にして更に東へ向かう。暫くすると人家が現れ金剛山も遠望できる。間もなく「西大門跡」だ。大きな石柱に「女人禁制」とある。ここから「談山神社」まではゆっくり歩いても15分程だ。飛鳥・法興寺の蹴鞠の会で出会った「中大兄皇子(後の天智天皇)」と「中臣鎌子(後の藤原鎌足)」が、藤の盛りの頃、神社裏山で秘密の談合をした、と言う。この談合により西暦645年、飛鳥板蓋宮で曽我入鹿を討ち中央統一国家・文治政治と言う歴史的偉業と言う、所謂「大化の改新」が成った。この地は「大化の改新談合の地」として伝承され「談山神社」の社号となったと言う。神社の境内にある十三重の塔は、678年に鎌足の長男により鎌足公の供養の為建てられたものである。


 谷あいの神社には日は差さず「冷気」が集まり、小雪もチラチラとし、寒さが一層増してきた。神社を出ると急な坂道を東大門へ向かう。途中、鎌倉時代の作と言う重文の「摩尼輪塔」がどっしりと、土中に突き刺さる様に建っている。花崗岩で造られた3m余の寺院などの聖域の入口に立てられている物だ。程なく、東大門が現れる。谷合の門は日陰で薄暗く寂しげに建っていた。


 さて、もう3時近い、戻ろう。石の道標のある分岐まで1時間ほどで戻ると、もう一度、古の都を見渡せる「万葉展望台」に行く事にした。幾分か回復した天気の下、雲間から差す光が大地を照らし神々しい。暫くベンチに座り、孤独と静寂と景色を楽しんだ後、分岐を東山に下った。


分岐から20分も歩けば人家が現れる。冬の夕方、日が落ちるのは早く辺りは少し薄暗くなりかけている頃、ブドウ畑で作業をしてる人が目に入って立ち話が始まった。展望台の事、ブドウ畑の事、横浜来た事等話し終えると聞かれた「今日はどこへ泊るんですか?」、「はい、岡のYさんの所ですよ」「ああ、Yさんの所ね」、この辺りは皆、知り合いの様だ。先を急ごう。日暮との競争だ。飛鳥神社から飛鳥寺。「水落遺跡」の前を通って「飛鳥板葺宮」近くのYさんの所まで来ると、もう夕闇が私を追い越していた。


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