ととじブログ

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とりかえばや物語

2020-01-21 04:37:54 | 本/文学
母親が異なるけれど容姿がとても似ている兄妹がいた。
兄は女の子のような性格で、妹は男の子のような性格。
そのため、兄は女として、妹は男として生活し、成長する。
そして、そのまま兄は女として、妹は男として仕事にも就き、大人になる。
しかし、様々な問題や障害が生じたため、途中からお互いに良く似ている事を利用し、立場を入れ替えて、もともとの体の性の通り、兄は男として、妹は女として生きていった。
と、簡単に説明すると、このような物語である。

LGBT的ではあるが、どうなんだろう?
ある程度成長してからは、兄の方は恋愛感情や性欲が女性に向かっていて、妹の方は多少あいまいなものの少なくとも女性に恋愛感情や性欲は感じていないように読み取れる。
また、心の性の問題で、兄の方は「自分の心は女」、妹の方は「自分の心は男」と自覚していたのかというと、そのあたりはよくわからない。

いや、そもそも心の性とは何だろうか?
例えば私の場合、体は男性で、恋愛感情や性欲は女性に向かう、だから心は男性だと思う。
しかし、体は男性で、恋愛感情や性欲は女性に向かう、でも心は女性だというケースもあるのだろうか?
それって、つまりどういう事なんだ?
わからない。

この『とりかえばや物語』は平安期に成立した物語なので、LGBT問題を論じているわけではない。
けれども、けっこうきわどく切り込んでくる部分がある。
妹(男の姿)の友人のかなり女好きの男がいて、こいつが兄(女の姿)に恋しているのだが、相手にされない。
報われない日々が続く。
恋焦がれ、とうとう思い余って「男だけど似てるからいいや」と妹(男の姿)に襲いかかる。
すると、今まで男だとばかり思っていたのに、思いもかけず女であった。
これ幸い、とそのままやってしまう。
この男がBisexual(バイセクシュアル、両性愛者)かというとちょっと違う気がするし、Transgender(トランスジェンダー)でもないだろう。

この時代の偉い人達は、男女とも相手をとっかえひっかえやりまくりで、ゆるすぎじゃないのか?
と、ある古典に詳しい人に話したら、
他にやる事がないからね、今でいう、カフェでお茶するみたいな感覚よ。
と言われた。

そうか、カフェでお茶ね。
好きな子がいて何度も誘ってるんだけど断られて、しょうがないから、兄貴をお茶に誘う。
気も紛れるし、その子の話でも聞かせてもらえるかも知れないし。
それで、誘って、兄貴とお茶してたら実は兄貴じゃなくて姉貴だとわかった!
顔もそっくりだし、うれしいなぁ~。
と、なるほど。
それならありそうな気がする。
カフェでお茶ならね。

ゆるゆるの性行為にも、親子や両親が同じ兄妹、姉弟は交わらない、交わるべきではないといった一定のルールはあったそうだ。
同性愛の類はどうだったんだろう?
戦国時代の武将が少年好きだったという話は多く残っている。
森蘭丸は織田信長の寵童として有名だし、少年時代は前田利家が信長の相手をしていたとも言われている。
だが、織田信長がゲイだったかというと、たぶん違う。

…話が広がって収拾がつかなくなってきた。
まとまらないので、この辺でブツ切りする。

とりかえばや物語
訳者:中村真一郎
発行所:筑摩書房
ちくま文庫
1992年1月22日 第一刷発行


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