週五日記

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二十一世紀の資本主義論

2015-01-12 10:12:25 | Weblog

岩井克人先生の本。文庫本(筑摩書房)でお買い得。

骨太すぎて、タイトルだけで、買ったものの、買ったことを忘れるほど

逃げていたが、YOUTUBEばかりみていると、頭と体によくないと思い、読書。

資本主義とか、貨幣とか、グローバル経済について、根源的に考えてしまう

良書。ピケティもいいが、岩井先生の本は、全部読まないといけないと思うが、

日常業務でてんてこまい。

 

以下、気になったフレーズ。

 

(1)「投機」とは、これから見ていくように、市場経済にとってもっとも本質的な活動である。

市場経済のなかでは、モノを生産することも、モノを消費することも、必然的に投機の要素をはらんでいる。(P21)

 

(2)すなわち、市場経済の効率化と不安定化とは、おなじ金貨の両面にすぎないのである。

金融市場の媒介によって生産活動や消費活動が効率化すればするほど、市場における価格の不安定性が

増していくという根源的な「二律背反」がここにある。(P37)

 

これは、考えていたようで、ここまで哲学したことはなかったなあ、と。確か、この本の他のところにあったが、

「実物経済」と「金融」のような言葉を並列に語ったりするが、これは、「分業」されたものなので、

いい悪いはないのではないか?金融の暴走の一部だけをとらえて、金融資本主義ということばで、

金融を悪く言いすぎるのも問題だということであろうか?

 

(3)そして、さらに重要なことは、市場経済のなかでは、だれもが一般的交換手段としての貨幣をもたなければ

経済生活を営むことができないということである。それは生産者も消費者も、そして投機家もなんら変わるところはない。

すなわち、市場経済においては、すべての人間は本質的に「投機家」として生きていかざるをえない。そして、

そのなかでひとびとが貨幣を媒介としてモノを売り買いするとき、意識するにせよしないにせよ、それは貨幣という

投機商品を「投機家」としておたがい同士で売り買いしていることにもなるのである。

市場経済とは、たんに「投機」と切り離しえないだけではない。それはまさに「投機」そのものの上に成立しているのである。(P53~P54)

 

(4)貨幣の発行者が貨幣の発行によって手に入れるこの利益のことを、一般に「シニョレッジ(seigniorage)」という。

それは、貨幣が貨幣であるかぎり、その発行に必然的にともなう利益である。(P67)

 

(5)わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国家も、多くはすでに

遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。

そして、いかに危機に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。

自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。

資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、

そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった

地域を市場化し、それまで分断化されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。(P85)

 

人生の大きな指針のような文章でもあるし、経済のグローバル化の意味合いを考えさせられる。

個人的レベルで言えば、「英語」と「中国語」が必要だということか?

 

 

 

 

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