作家オルコット

2024年06月20日 10時21分17秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

オルコット14歳の日記「自分を磨きたいと思う。そして母に心配をかけたり悲しませませるではなく、助け安心させてあげたい」と記している。

貧困生活を耐え忍びながらも、どこかにエネルギーのはけ口を求めていたオルコット。

そんな彼女の憧れの存在となったのが、父と交流があったエマソンであり、哲学者ソローだった。

特に自宅の書斎でゲーテやシェークスピアの影響は大きく、オルコットは「アメリカ・ルネサンス」の息吹の中で文才を伸ばしていく。

22歳になった直後には、かつてエマソンの娘のために書いた「妖精物語」が、初の著作として出版された。

その本をクリスマスプレゼントとして母にささげたのである。

その後も妹の病死など悲哀に悲哀見舞われた。

だが、オルコットは「大きな悲しみがどんな牧師より多くのことを教えてくれた」

「絶望感に襲われてからは、以前よりも勇敢で快活になった気がする」と苦難に負けず前進の歩みを貫いた。

「たとえどんな不幸にあっても、くじけてはいけません。明るく朗らかにして自分の仕事にはげんでいけば、人から愛され、友だちは集まり、いつの間にか幸福が訪れものです」と作品の一節にある。

オルコットは困難にぶつかっても、志の半ばで逃げることを嫌った。

何事であれ、執念をもって、最後までやり通すことが、肝要だ。

戦い抜くこと自体が即、勝利なのである。

オルコットは家族のために多くの仕事をこなしながら、合間を縫って筆をとり続けた。

周囲から「君は作家になれない。他の仕事を続けるべきだ」と言われたこともあったという。

それでも、彼女の情熱の炎が消えることはなかった。

苦労や失敗を成長の糧にして、作家として力を付けていた。

「教師や執筆や針仕事のほかに、講演や本や立派な人たちから、できるかぎりのものを吸収し、毎日大忙し。わたしは人生そのものが大学。立派に卒業し、優等の学位が得られますよいに!」と日記に書く。

「出版でききないかもしれないけれど、それでも書きあげないではいられなかった。新しい体験をすれば、それだけ心が豊かになる」

「落胆もきっといい薬になるだろう。失望から多くのものが得られると思う」

「自分のことは、あまり気にしない。苦痛はあっても、休息ととれば、天にのぼる心地になれるから。でも、もしわたしが倒れたら、家族のみんなが途方にくれてしまうだろう」

そして一家の負債は「若草物語」などの売り上げで全て返済することができた。

「若草物語」は苦難に負けない登場人物、とりわけ次女ジョーの強さと明るさが印象深い。

それを生み出す源泉となったのは「わたしはまだまだ向上する余地があったし、いまもある。これから先もいつもあるだろう」という、オルコットの人生そのものであった。

先駆者の一人は、オルコットに光を当てることで、若い女性たちに、夢物語や庇護された人生ではなく、自らの力と強さを発揮して本物を人生を生きることの大切さを教える。

「高い理想」に生き抜いていれば、どんな苦しい体験も、辛い思いでも、すべてが自身のかけがいのない財産になる。そして、人々を勇気づける道しるべとして生かしていくことができる。

自身の困難な人生の軌跡を小説へと昇華し、他の女性たちのために「勇気と希望の道」を開いていったオルコット。

その気高い姿には、人間としての真の輝きがある。

「失望が重なり、絶えず<運命>に叩かれることは、リンゴなら完熟するための成熟過程になる」と日記にオルコットは記した。

青春は、悩みの連続だ。

社会も揺れ動いている。

仕事の壁にぶつかることもあるだろう。

時には体調を崩すことだったある。

人間関係も難しい。

人が羨ましく見えることもある。

悔し涙をこらえる日もある・・・

苦しん時は苦しいまま、一念を定めて自分の可能性を確信する。

いずれ道は開かれるものだ。

自分だけの小さな悩みに振り回されて、わびしく過ぎ去ってしまう青春も多い。

しかし、「高い理想」に走る青春は、大きく悩んだ分だけ、大きく成長できるだろう。

オルコットは、いかなる困難にぶっかっても、志しの半ばで恐れをなして逃げることを嫌った。

「戦いが終わらないうち逃げるだすのは卑怯」と20代の日記に記している。

何事であれ、執念をもって、最後までやり通すことが、肝要だ。

戦い抜くこと自体が即、若き命の勲章であり、勝利なのだ。

希望をもちつづけ、闘いつづければ、崇高な勝利は手中にできるだろう。

 

ルイーザ・メイ・オルコット(ルイザ[4]、オールコット[5]との表記もあり、英: Louisa May Alcott [ˈɔːlkɒt, ˈɔːlkət][6][7]、1832年11月29日 - 1888年3月6日)は、アメリカの小説家。家庭小説・少女小説の作家[8]として人気を誇り、高く評価され、『若草物語(Little Women)』(1868年)と第二部(1869年)、その続編(1871年、1886年)の著者として最もよく知られている[9] 。大人向けの短編小説、扇情小説(英語版)の作家でもある[10]。

オルコットは、超絶主義者で教育者のエイモス・ブロンソン・オルコット(英語版)とソーシャルワーカー(民生委員)のアビゲイル・メイ・オルコット(英語版)の娘であり、現在のペンシルベニア州フィラデルフィアの一部であるジャーマンタウン(英語版)に生まれた。一家は1844年にボストンへ移住し、そこで彼女の父は実験的な学校を設立した[11]。

父は理想主義的な哲学の実践者・教育者であったが、家族に対して超然と接し、支配的であり、生活力がなく、経済的にも家庭を守っていたのは母だった[12][13]。

父の理想の追求は妻と娘たちの様々な犠牲の上に成り立っており、一家は父の挑戦と挫折に従い、また生活苦から転居を繰り返し(30年間で22回)、オルコットは経済的にも精神的にも不安定な境遇で育った[14]。

彼女は生涯、生活力皆無の父に代わって家族を支えるという強烈な決意と義務感を抱いており[14]、若い頃から家計のために働きながら、執筆の仕事を試み続け、1860年代に作家として成功を収めるようになった。彼女はキャリアの早い段階で、A・M・バーナードなどのペンネームを使用し、その名でスリラー短編や、情熱と復讐に焦点を当てた大衆向けの扇情小説を書いていた[15]。この事実は20世紀半ばまでほとんど知られていなかったが[16]、現在では「素朴で真実味のある」小説や、彼女自身が「スリリングな小説」という意味で「スリラー小説」、「血と雷の物語」と呼んだ「ぞっとするような」物語を執筆するといった多彩なスタイルを持つ小説家だったことが分かっている[17][18]。30冊以上の本、300篇を超える作品を残した[19][20]。

1868年に発表された『若草物語』第一部は、南北戦争時代のアメリカ北部に暮らした4人姉妹、長女メグ、次女ジョー、三女ベス、四女エイミーの1年間を描いた物語で、マサチューセッツ州コンコードにあるオルコットと家族の家、オーチャード・ハウスを舞台にし、彼女の三人の姉妹、アンナ・オルコット・プラット(英語版)、エリザベス・スウォール・オルコット(英語版)とアビゲイル・メイ・オルコット・ニアーリカー(英語版)との子ども時代の経験に基づいている。第二部では、仕事や恋愛、結婚生活に奮闘する、若くして死去するベスを除く姉妹のその後を描いた。この小説は当時好評で、今でも子供から大人まで人気があり、150年以上にわたり非常に愛され続けている。舞台、映画、テレビに何度も上演され、映像化されている。

作家として成功したオルコットは一家の稼ぎ頭として家族を支え、『若草物語』の印税で家の借金を返し、両親の面倒をみ、夫を亡くした姉アンナの家族を支え、妹メイのヨーロッパ絵画留学の費用を捻出し、メイ亡き後は残された姪を引き取って育てた[17]。

オルコットは「一生を父親への強い愛憎のなかで過ごしたといってもいいほどに父の存在が大きかった」と言われ[21]、伝記作家たちは、オルコットの進歩的な考えと独立心が、先進的な理想を持つ父ブロンソンによって育まれたと考え、彼女の珍しい成功は父の影響によると考えてきた[22]。

近年では、母アッバの困難で献身的な結婚生活と自由への夢、母娘の関係性が、オルコットの知的・感情的世界の形成に大きな影響を与えたと注目されている[23]。

一家は奴隷制廃止運動に関わり、母は女性の権利の活動家であり、娘たちに自活の大切さを教えた[24][25]。

オルコットは奴隷制廃止論者、フェミニストであり、一生独身で通した。

彼女は生涯を通じて、禁酒運動や女性参政権などの改革運動に積極的に取り組んだ[26]。

女性の権利と教育改革は、彼女の小説の主要なテーマであった[22]。アメリカ文学史に埋もれていたが、フェミニストとしてのオルコット研究が進み、近年では、彼女の小説は女性の自立を描いたものであるという評価もされるようになった[8]。現在では、19世紀中葉の文学の収穫期アメリカン・ルネッサンス(英語版)の一員として位置付けられており[27]、主に女性文学研究の枠組みで研究が進められている[14]。

彼女は、父の死の2日後、1888年3月6日にボストンで亡くなった。

(以下、邦訳のない作品タイトルはすべて仮訳である。定まった日本語タイトルのない作品は、原題に近い訳を用いた。)

人生
両親
父は超絶主義者で教育者のエイモス・ブロンソン・オルコット、母はニューイングランドの由緒ある家柄出身のアビゲイル・メイ・オルコット(愛称アッバ)であり、ルイーザ・メイ・オルコットは四人姉妹の次女である[28]。

父ブロンソンはコネチカット州ウォルコット(英語版)で、ジョセフ・チャットフィールド・アルコックスとアンナ・ブロンソンの農家の夫婦の元に、8人きょうだいの長男として生まれた[24]。

さほどしっかりした教育を受けなかったが、読書が好きで、天の都市を目指すクリスチャンの旅を描くジョン・バニヤンの寓話物語『天路歴程』(原題:この世から来るべき世に向かう巡礼者の旅路―夢の中の物語)に決定的な影響を受け、生涯を通して繰り返し読み直して内面化し、生き方の指針にし、後には徳の重要さ、すばらしさを娘たちに伝えるためにいつも読んで聞かせた[24][29][30]。

13歳の時に学校に行ったが、他の生徒に行儀の素朴さをからかわれ、1か月で辞めている[24][31]。

その後、農業、時計製造、宗教的な小冊子の訪問販売など様々な仕事に就いたが、何よりも教師になりたいと思い、19歳の時、エイモス・ブロンソン・オルコットと名乗り(元々の姓はアルコックス)、南部で教師になろうとバージニア州ノーフォークに向かった[24][31]。

しかし、教師の職は見つからず、故郷に戻るのも嫌で、当時の多くのニューングランドの青年たちと同様に行商人になり、バージニア州とノースカロライナ州で5年間働いた[24][31]。

行商では、黒人奴隷を所有するプランテーションのオーナーの家や奴隷の宿舎に泊まることもあり、奴隷制の現実に身近に触れていたが、この時点では奴隷制反対にはならなかった[31]。

クェーカー教徒と接して「内なる光」の教義に影響を受け、それは神と直接対話するという彼の信念の萌芽となった[24]。行商で最初は利益を出したが、すぐに借金を作り、行商の仕事は自分の魂を駄目にすると考え、帰郷した[31]。1823年から1828年まで教師として働き、進歩的な教育法が注目を集め、彼に感銘を受けたユニテリアンで奴隷制度廃止論者の牧師サミュエル・J・メイ(英語版)が、ボストンのチャリティーの幼児学校に彼のポストを用意し、牧師の妹だったアッバと出会った[24]。

アッバはニューイングランドの名家であるクインシー家(英語版)とスウォール家の血を引いており、アッバの生家であるメイ家はアメリカ独立戦争でイギリス軍に抵抗した先祖の血を引く一族で、ボストンでは慈善活動と奴隷制廃止運動に熱心なことで知られていた[32]。

彼女は8人きょうだいの末っ子であり、一家は自分の周りの社会の改善と道徳的な行動に熱心な、信仰深い家庭であり、両親は愛情深い人たちだった。一家はアッバが生まれる前に、いくつかの困難に見舞われている[33]。

父のジョセフ・メイ大佐は、ビジネスパートナーが、ヤズーランド詐欺と呼ばれる有名な詐欺に多額の投資をしたため破産し、これにより、二度と物質的富を求めないことを決意し、投資の機会があっても拒否し、家族はつつましく暮らし、アッバは勉強、教育、執筆に熱心な、敬虔なユニテリアンに育った[33]。ジョセフは慈善事業によりボストンで立派な人物として名を知られており、富の追求が精神の幸福に有害だと考え、強い改革と慈善の精神をアッバに教えた[34][35]。

このような経済状況の変化は、『若草物語』でマーチ家の姉妹も経験したことであり、『若草物語』と同じく、アッバは裕福だった時代の父を知らないが、上の兄姉は覚えていた[33]。ジョセフは、義務を重んじ物質主義を軽蔑することで、この変化に対処しており、妻のドロシー・スウォール・メイ(セイラム魔女裁判の裁判長サミュエル・スウォール(英語版)の曾孫)の裕福な実家が、彼の理想を支えた[33]。

ドロシーは、アメリカ合衆国建国の父達の一人である政治家ジョン・ハンコックの妻のドロシー・クインシー(英語版)がおば(アッバにとっては大おば)で、大統領夫人のアビゲイル・アダムズが従姉妹というボストンの伝統的な上流階級(ボストン・バラモン)出身だった(ドロシー・クインシーはオルコットが生まれる前に死去しており、面識はないが、『若草物語』のマーチおばのモデルと言われる)[33][36][35]。また、アッバが生まれる前に5人を赤ん坊のうちに亡くしており、アッバが幼児だったころに、6歳の兄が事故で死去している[33]。この事件は一家に大きな影響を与え、アッバは四人姉妹と兄のサミュエル・J・メイと共に成長した[33]。このメイ家の5人は、『若草物語』の姉妹とローリーのインスピレーションになった[33]。

母ドロシーは、アッバと興味を共有し、彼女の改革への情熱を支えた[34]。ドロシーは、女性は男性より知的に劣ると一般的に信じられていた当時に、やや進歩的な考えを持っており、娘には「男性の伴侶としてふさわしい教育」を受けてほしいと考えていた[33]。

ドロシーが娘に望む教育レベルは穏当なものだったが、アッバは家庭での教育のレベルを超えた学問を望んでおり、メイ家の子孫で伝記作家のイブ・ラプラント(英語版)によれば、アッバは兄のサミュエルのような体験に憧れ、結婚を望んでおらず、歴史や文学を読み、ラテン語やギリシャ語を学び、兄がそうあれと望まれたように、自分の頭を使って世の中を良くしたいと願っていた[33][37]。

アッバは病弱で、病気によって教育を中断されることが多かったが、両親は10代の彼女に家庭教師をつけて「甘やかし」、進学したサミュエルは、アッバに彼が持っている本を読み、自分で考えるよう励まし、文通でジョン・ロックや人文科学について議論した[33]。

姉のルイーザも、手紙でアッバに文法や作文の指導を行っていた[33]。

アッバが17歳の頃、両親は夫を見つけようとしていたが、彼女自身は教師になろうと方法を模索しており、いとこからの求婚が取り下げられ(破談の理由は相手の不実)家庭内の緊張が高まると、一家の友人と共に勉強するために家を出て、父がもう結婚相手を紹介しないと約束するまで帰ってこなかった[33]。

姉のルイーザと実家で学校を開く計画を立てていたが、1821年にルイーザがプロポーズを受けたことで、この計画は頓挫し、さらに、姉が甥と幼い姪を残して死去し、アッバが世話をする必要があったため、教育者になるという夢は事実上終わってしまった[33]。

情熱的で寛大な心を持ち、世の不公平に敏感だったアッバは、ブロンソンに出会った時27歳で、当時としてはかなり適齢期を過ぎていた[38]。革新的な思想を持った背の高いハンサムな青年だったブロンソンに魅了され、助手の職に応募し、彼と婚約し、彼と恋人であるだけでなく、彼の生徒であり仲間であることを喜んだ[36][24][39]。

サミュエル・J・メイはブロンソンについて、「今まで出会った男性で、これほどすぐに心を奪われたことはなかった。彼は生まれながらの賢者か聖人のように思えた」と述べており、ブロンソンは、彼に会ったほとんどの人から、同じような反応を得ている[13]。非常に強い魅力を持つ人物だった[13]。

メイ家の面々は、家族を養うという考えがほとんどないブロンソンとアッバの結婚を危ぶんだが、アッバが押し切る形で1830年に結婚した[39][38]。ブロンソンは彼の生来の宗教であるカルヴァン主義から離れ、メイ家のユニテリアンの教えに魅了され、またアッバとメイ家の影響で奴隷制廃止運動に積極的に参加するようになった[24]。

ブロンソンはボストンで、ラルフ・ウォルド・エマーソンとヘンリー・デイヴィッド・ソローととも超絶クラブ(英語版)を創設した[40]。19世紀半ばのニューイングランドの知識人たちは、超絶クラブを端緒に始まった哲学の潮流、“個人”を絶対的に尊重し、自己修養や普遍的な兄弟愛を信じ、自然との融合を目指す超絶主義に魅了されていた[41][42][12]。エマーソンはブロンソンを常に支持し、オルコット家がお金に困ると経済的支援を行っており、その寄付が一家の家計を支える唯一の手段であったことも少なくない[13]。

ブロンソンは、超絶主義とスイスの教育改革者ヨハン・ペスタロッチの理論を組み合わせ、無政府主義、菜食主義、不淫、霊性といった系統を含む奇妙な哲学を作り上げた[41]。彼はエマーソンの親しい友人であり、理想を追い求める教育者で、詰め込み教育や学校内における体罰に反対しており、子供たちの学ぶ意欲を引き出す教育を目指していたが、経済的なことには疎く、学校経営はうまくいかなかった[28]。

ブロンソンは、宗教的宇宙観により理想生活を追求する超絶主義の実行者であり、生きるのに必要な金銭に頓着せず、どれほど非現実的でも妥協を許さず、理想に生きる浮世離れした人生観を持っていた[43][44]。食べるために生き物を殺してはならないとし、社会制度を人間の真の善を堕落させるものと見なし、金銭や商売は卑劣なものと考え、必要以上に金銭を蓄えてはならないとし、産業の仕事は魂を殺すものだと考えた[43][44]。奴隷制は罪であると考えたが、さらにほかの動物の労働力を搾取することも罪であるとみなした[44]。

オルコット一家は南北戦争前のヒッピーであると表現することもでき、1960年代のカウンターカルチャーと同様に、東洋の精神性、ホメオパシー、代替的なライフスタイル、人種、性別によらない社会的な平等に関心があった[45]。ブロンソンは理想化された過激な奴隷制廃止論であったが、人種差別主義者でもあり、その思想は矛盾を孕んでいた[46][47]。

ブロンソンはすべての人間は同胞であるため平等に働いて分かち合うべきであると考え、どんな人間の助けも拒まなかった[43]。よって一家は、現実離れしたライフスタイルを実践し、総出で助けを求める人に奉仕することになり、筆舌に尽くしがたい苦労と困窮を味わうこととなった[43][44]。オルコット家は文字通りパンと水だけで生きることもあったが、ブロンソンはその現実を無視することができ[20]、生活費を稼がないことも、他人に借金をすることも、妻子が苦労することも、あまり気にならなかった[48]。また彼は自分が罪を犯したことは一度もないと話しており、現代の研究者のひとりは、彼は自分の気まぐれの思いつきと神の啓示を混同していたと指摘している[41][49]。

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