根源の師である釈迦を信奉せずに、阿弥陀仏や大日如来を信奉する衆生たち

2024年06月02日 09時00分43秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼今、自分にできることから始めることだ。

小さな挑戦を、根気強く繰り返す。

それが、自分自身をを飾るお黄金譜となる。

▼困難にも勇敢に挑戦し、不可能をも可能にと智慧を尽くすこと。

それが「勇猛」である。

▼余事を交えず、ただ一筋に進むのが「精進」である。

瞬時も弛むことはない。

今だに懲りない。

覚悟をしなければならない。

勇気と忍耐をもつのだ。

脅されても、微動だにしない。

▼根源の師である釈迦を信奉せずに、阿弥陀仏や大日如来を信奉する衆生たち。

「本来、従うべき師」を違えてしまった鎌倉時代の人々。

師の教えの通り実践し、現実社会の人々を救う。

衆生の心に<成仏の種>を植え、仏性を呼び覚ます―それが「生命尊厳」「万人尊敬」哲学に基づく対話である。

 

 

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女の子たちの風評爆弾をつくる

2024年06月02日 08時44分31秒 | 社会・文化・政治・経済

<picture>女の子たち風船爆弾をつくる</picture>

太平洋戦争末期、女学生たちは秘密の兵器を製造するため、東京宝塚劇場に集められ…。

意図せぬまま戦争の当事者とされていく少女たちの青春を、膨大な資料や取材を基に描き出す。

『文學界』連載を書籍化。【「TRC MARC」の商品解説】

日露戦争30周年に日本が沸いた春、その女の子たちは小学校に上がった。

できたばかりの東京宝塚劇場の、華やかな少女歌劇団の公演に、彼女たちは夢中になった。

彼女たちはウールのフリル付きの大きすぎるワンピースを着る、市電の走る大通りをスキップでわたる、家族でクリスマスのお祝いをする。

しかし、少しずつ、でも確実に聞こえ始めたのは戦争の足音。

冬のある日、軍服に軍刀と銃を持った兵隊が学校にやってきて、反乱軍が街を占拠したことを告げる。

やがて、戦争が始まり、彼女たちの生活は少しずつ変わっていく。

来るはずのオリンピックは来ず、憧れていた制服は国民服に取ってかわられ、夏休みには勤労奉仕をすることになった。

それでも毎年、春は来て、彼女たちはひとつ大人になる。
ある時、彼女たちは東京宝塚劇場に集められる。

いや、ここはもはや劇場ではない、中外火工品株式会社日比谷第一工場だ。

彼女たちは今日からここで、「ふ」、すなわち風船爆の製造に従事する……。

膨大な記録や取材から掬い上げた無数の「彼女たちの声」を、ポエティックな長篇に織り上げた意欲作。

戦後はもうすぐ80年になる。

この小説の「わたし」たちは96・7歳となる。

「女の子たち」の戦争を小説として描いのである。


【商品解説】

著者紹介

小林 エリカ

略歴
〈小林エリカ〉東京都生まれ。著書に「マダム・キュリーと朝食を」など。

担当編集者より

小説家であり、漫画家であり、アーティストでもある小林エリカさんは、目に見えないもの、時間や歴史、家族や記憶、場所の痕跡を着想の源として活動してきました。
『親愛なるキティーたちへ』ではアンネ・フランクの生に寄り添い、『マダム・キュリーと朝食を』では震災と放射線をテーマに据えるなど、時にそれは近代社会が蓋をして見ないようにしてきた歪みへの鋭敏な眼差しとなって作品に現れます。そんな著者の到達点とも言えるのが本作です。
春が来る。
桜の花が咲いて散る。
小説のなかで無数に繰り返される、印象的なこのフレーズの数だけ、”少女たち”は春を重ね、戦前を戦中を戦後を生きて行きます――風船爆弾の記憶から決して解放されることなく。
この事実を多くの方に知ってほしい、との著者の強い思いから、巻末には膨大な資料も付録しています。

風船爆弾で何人が死亡しましたか?
 
「風船爆弾」は戦況が悪化する中、旧日本軍がアメリカ本土を直接攻撃しようと開発した兵器で、3か所の基地から放たれたおよそ9000個のうち300個ほどがアメリカに到達し民間人が犠牲になったとされています
 

風船爆弾 北茨城にあった基地について旧厚生省が調査した資料

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太平洋戦争末期に旧日本軍が開発した「風船爆弾」の攻撃拠点となったいまの茨城県北茨城市にあった基地について、旧厚生省が調査した資料が残されていたことがわかりました。
基地の詳細な設置計画などのほか、戦後、基地があった土地の原状回復を求めて地元の住民らが国に陳情を行っていた経緯などが明らかになりました。

「風船爆弾」は戦況が悪化する中、旧日本軍がアメリカ本土を直接攻撃しようと開発した兵器で、3か所の基地から放たれたおよそ9000個のうち300個ほどがアメリカに到達し民間人が犠牲になったとされています。
作戦に関連する資料は終戦時に処分が命じられたため、詳細な記録は残されていないとされていましたが、明治学院大学国際平和研究所の松野誠也研究員が国立公文書館に保管されていた文書を調査したところ、茨城県のいまの北茨城市にあった大津基地について旧厚生省が調査した資料が見つかりました。
資料は基地があった土地がどのように使用されてきたかをまとめたもので、このうち基地の設置や撤収に関する資料には、1944年8月におよそ70人の土地所有者からおよそ27万坪の土地を借り上げた記録や風船を放つ20か所以上の「放球陣地」などが記された配置計画図の写しが含まれています。
また、戦後になって返還された土地をめぐり、終戦から10年がたっても基地の工作物などが放置され農地として利用できないとして、土地の所有者のほかに地元の市長も加わって国に原状回復するよう求めて提出した陳情書が残されていました。
さらに、「諸般の関係から不可能」という陳情書に対する旧厚生省の回答書も残されています。
松野研究員は「何度も陳情を行っても原状回復がされず、なんとかしてほしいと切実な思いが強まって市も動いて陳情したと考えられる。戦時中だけでなく戦後にかけても戦争に翻弄された地域の実情を示した資料ではないか」と話していました。

新たに見つかった「風船爆弾」に関する資料について日本の近現代史を研究している筑波大学の伊藤純郎名誉教授は「これまでは伝聞をもとに、基地の記憶が語られてきたが、今回の資料は基地内のどこにどういう施設があるのかなど詳細が書かれているので非常に大きな発見だ。

作戦の実態についてもう1回吟味する必要がある」と指摘しました。
また、戦後になって地元住民から土地の原状回復を求める陳情が出されていたことについては、「風船爆弾をアメリカに飛ばしたという意味では加害の歴史だが、地元の住民からすれば被害の歴史でもある。戦争遺構は複雑な側面を持っていて、単純に被害と加害ではなく、地元、アメリカ、国とそれぞれの立場から複眼的に見ていくことが大事なのではないか」と指摘しました。

今回見つかった資料では、1944年に陸軍が風船爆弾の攻撃拠点として基地を設置するために、当時の茨城県大津町のおよそ70人の土地所有者から田畑や山林などを借り上げたことが記録されています。
終戦後に土地は所有者に返還されましたが、それから10年あまりたった1957年に部隊が残した工作物が放置され農地として利用できないとして、基地があった土地の所有者や北茨城市長が土地の原状回復や費用負担などを国に求める陳情を出していました。
陳情の中では、返還された土地について「無慙にも荒廃と化して見る影もなく」などと記され、所有者らが国などに対して繰り返し土地の原状回復を求めたものの状況が改善されなかった経緯が記されています。
一方、陳情に対する旧厚生省の回答には、土地に現存する構築物などの撤去作業を行うことや、撤去にかかる費用を補助することは「諸般の事情から不可能」などと記されています。
基地の歴史を伝承する活動を行っている穂積建三さんは、「突然、基地として広大な土地が借り上げられ、戦後になったら全く責任を取らないで自分たちでやってくれと言われたというのは、当時の人たちからすれば非常に情けなかったと思う。当時の人たちからは自分たちで土地を掘り起こして耕地として使えるように苦労したと聞いてきたので、こうした歴史を伝えていってほしい」と話していました。

 

 
 
 

 

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