アメリカの宿命

2024年06月10日 23時13分16秒 | 沼田利根の言いたい放題

戦争を続けるアメリカは、まさにある種の<宿命>を負っている。

日本との太平洋戦争。

つづく、朝鮮戦争、ベトナム戦争。

湾岸戦争。

最近では、イスラエルに対して、武器を供与しているのだ。

思うに、アメリカ国民は、いずれの戦争において、自国が戦地になっていないのだ。

つまり、アメリカ国民は戦争の悲惨で残酷な実相を肌で感じることがない。

戦争は、正義の尺度に照らさせば、バランスである。

アメリカの自国民の死者数と戦地における民衆の死者数の比較である。

もしも、同じ数の米国の民衆が死んでいたなら、戦争に対してアメリカ国民の多くが戦争は<絶対ノー>と叫んでいただろう。

米国民にとっての戦争は、遠い異国の出来事に過ぎないのではないだろうか?

東京裁判は、勝利国が敗戦国を裁いたのだが、最大の戦争犯罪とも言及すべき、広島・長崎への原爆投下や東京大空襲は不問のままとなったのだ。

 

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「太平洋戦争はアジア解放のための戦いだった」説は本当か?

2024年06月10日 22時44分36秒 | 社会・文化・政治・経済

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

今年は日本の敗戦から75年を迎える。20年前ごろから、一般書籍や雑誌などで、特に右派系のオピニオンリーダーから、「太平洋戦争(―彼らは大東亜戦争と呼称する)はアジア解放のための戦いであった」とする主張が乱舞するようになり、近年ではこの「先の戦争における日本の大義―アジア解放」を正当化する書籍等が跋扈している。
戦後のいわゆる「東京裁判史観」を否定する右派は、長年この「大東亜戦争はアジア解放のための聖戦であった」説を用いたが、これを一般大衆に書籍として広めたのは漫画家の小林よしのり氏による『戦争論』(1998年)がその端緒であることは言うまでもない。

 以後、「太平洋戦争はアジア解放のための戦いであった」という主張は、右派の狭隘な界隈を飛び越えて一般書籍や雑誌の中でも登場し、いまや一定の支持を得るにまで至っている。

しかし、この「太平洋戦争はアジア解放のための戦いであった」という主張は本当に正しい歴史認識なのだろうか。敗戦75年という節目を契機に、いまや書店で跳梁跋扈するこの説の正当性を検証してみる必要があるだろう。

・すべての侵略戦争にあった「大義名分」

ナチスとイタリアの戦争大義(筆者制作)
ナチスとイタリアの戦争大義(筆者制作)

 あらゆる戦争は、その侵略的性格の濃淡を問わず、必ず戦争開始の大義名分が付与される。ナチスドイツが1939年9月、ポーランドに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発した際、その戦争大義は「ドイツ固有の領土・ダンツィヒの奪還(およびドイツ人の東方生存圏の拡大)」であった。第一次世界大戦に敗れて敗戦国になったドイツは、東プロイセンの港湾都市ダンツィヒを自由都市として認めざるを得なかったが(そのため、東プロイセンは飛び地になった)、この街はもともとドイツに属する都市であった。そこでヒトラーはポーランドに対しダンツィヒの割譲を迫った。ポーランドは当然これを拒否した。よって戦争が始まる。これがナチスの戦争大義である。

 他方、独裁者ムッソリーニ率いるイタリアは、第二次大戦の前後、アルバニアやギリシャに侵攻したが、この時の戦争大義は「未回収のイタリアの奪還」であった。イタリアはドイツとは対照的に第一次大戦では戦勝国であったが、特にアドリア海沿岸のイタリア語圏の諸地域についてイタリアの納得できるような領土支配は認められなかった。ムッソリーニは「イタリア語がイタリア語で聞こえる範囲」を「未回収のイタリア」と呼び、この地域における領土的請求権を欲した。つまり「未回収のイタリアは、イタリア固有の領土である」という戦争大義である。

 一方日本は、1941年12月8日の真珠湾攻撃に際し、対連合国開戦の戦争大義として1)「自存自衛」と2「アジア解放」を掲げた。自存自衛とは、主に米英からの経済圧迫に対し自力で対抗する必要に迫られたこと。アジア解放とは、第二次大戦当時にタイ王国を除くほとんどすべての地域が欧米列強の植民地か自治領であったので、有色人種である日本が、この欧米人における植民地支配からアジアを開放する―、という名目である。

 当時日本は、日独伊三国同盟に加盟し、1940年にフランスがドイツに屈服したことから、親独的中立政府であるヴィシー政権(南仏)と協定を結んで、フランス領インドシナ(仏印=現在のベトナム、ラオス、カンボジア等)に進駐した(1940年北部仏印、1941年南部仏印進駐)。これにより、アメリカは日本が太平洋方面に領土的野心を持つとことさら警戒し、くず鉄や原油の輸出等に厳重な規制を設けた。当時、鉄や原油のほぼすべてをアメリカからの輸入に頼っていた日本にとって、アメリカの経済制裁は死活問題であった。しかし、「アメリカの経済制裁が気にくわないから」という理由だけでは対米開戦としての大義は弱いので、日本は対米開戦にあたり「アジア解放(大東亜戦争)」をスローガンに掲げたのである。

 実際、日本軍による「アジア解放」は1941年12月8日の真珠湾奇襲と同時に、当時英領マレーのコタバルに奇襲上陸することによって開始された。これを南方作戦という。しかし南方作戦の目的は、特にアメリカと持久戦になった場合、アメリカやイギリスからの資源輸入が完全に断絶することを念頭に置いた資源地帯の確保であった。南方地帯には、大規模で良質な油田(パレンバン、バリクパパン=蘭印=現インドネシア)があり、さらに航空機や戦車の生産に欠かせないゴムやボーキサイト等の天然資源があった。

「アジア解放」の真の目的とは、これら資源地帯の制圧であり、これらの地帯から算出される重要資源を日本にピストン輸送して生産力を増強し、対米持久戦に備える(―実際にはアメリカ軍潜水艦等の通商破壊によって瓦解した)という、実際には日本の利益だけを考えた作戦行動であった。しかし「対米決戦のための資源の確保」では大義名分として弱いから、日本の戦争大義はあくまで「アジア解放のための戦い」をスローガンとした。このスローガンを真に受けたのが、先に述べた「太平洋戦争(―彼らは大東亜戦争と呼称する)はアジア解放のための戦いであった」とする戦後右派の主張である。

・「アジア解放」のお寒い実態

アジア解放の実態・筆者制作
アジア解放の実態・筆者制作

 では、実際に日本の「アジア解放」の実態はどのようであったのかというと、その作戦行動は大本営の予想をはるかに上回る短期間で大成功を収めた。日本軍は、英領マレーを嚆矢として、蘭印、フィリピン、ビルマ等を次々といとも簡単に制圧した。これらの地域は、例外を除いて実践経験のない現地植民地軍が駐屯しており、1937年の日中戦争から実戦を積んだ日本陸軍の部隊の前に簡単に降伏してしまった。特にイギリスの圧政に苦しんだビルマでは、当初日本軍は植民地支配からの解放軍として迎えられた側面があることは事実である。

 しかし実を言うと、当時アメリカの自治国であったフィリピン(フィリピン・コモンウェルス=フィリピン独立準備政府)はアメリカ議会からすでに1945年の独立(フィリピン・コモンウェルス成立から十年後)を約束されており、日本軍の侵攻による「アジア解放」というスローガンは全く無意味として映った。よって南方作戦で日本軍に占領されたフィリピンでは、そもそも日本の戦争大義が受け入れられず、またアメリカの庇護下のもと自由と民主主義、そして部分的には日本より高い国民所得を謳歌していたフィリピン人は、日本の占領統治に懐疑的で、すぐさまゲリラ的抵抗や抗日活動が起こった。これは華僑の多いシンガポール(日本は同地を占領後、昭南島と改名)でも同様で、日本の戦争スローガンに同意せず、激しい地下抵抗運動が盛り上がった。オランダに数世紀にわたって植民地支配されていた蘭印(インドネシア)でも、その実態は島嶼や地域ごとに強固な部族社会が形成されており、日本軍の占領統治に懐疑的な地域も多く存在したこともまた事実である。

 とはいえ、日本は戦争大義を「欧米からのアジア解放」と定めたので、これらの占領地域を野放しにしておくわけにはいかない。そこで占領期間中、ビルマやフィリピンを形式的に独立させ、1943年11月には日本の戦局が怪しくなる中、これらの国々(中国による日本の傀儡である汪兆銘政権や満州国を含む)の代表を東京に招聘していわゆる「大東亜会議」が開催され、日本の戦争大義である「アジア解放」がいかに正しいのかが内外に喧伝されることになった。ところが、これはあくまで日本を頂点とした傀儡国家の野合に過ぎず、実際には日本は、資源地帯の要であるインドネシア、マレーについては最後まで独立を許すことはなかった。なぜかといえば、前述したとおりこれらの地域では、石油やゴム、ボーキサイトなどの戦略上重要物資が産出されるためで、勝手に独立されては資源を意のままに採掘することができないため、最後まで日本はこの地域の独立を認めなかったのである。

「アジア解放」と謳っておきながら、最も重要な地域は独立させず、最後まで日本の直轄地域とするというのは完全な矛盾であるが、このような矛盾を見ない事にして、日本の戦争大義「アジア解放」は展開されたのであった。これが日本の掲げた戦争大義の偽らざる実相である。

・「アジア解放」の一方でアジアを侵略中

 日本による「アジア解放のための戦い」という大義名分は、実のところ1941年12月8日の真珠湾攻撃をきっかけとする対米開戦以前から大きな矛盾を抱えていた。日本は1931年に満州事変を起こすと、関東軍を主体として満州(中国東北部)一帯を軍事占領し、清王朝最期の皇帝溥儀(ふぎ)を奉って満州国を建国した。満州国は「五族協和=日本人、満州人、モンゴル人、朝鮮人、漢民族」による理想の独立国とされたが、実態には完全な日本の傀儡国家で、国際社会からは承認されず、よって日本はこれを不服として1933年に国際連盟から脱退した。

 つづく1937年、盧溝橋事件を端緒として日中戦争が勃発すると、日本軍は中華民国(蒋介石の国民党)の首都である南京を占領した。これにより蒋介石が首都を捨てて奥地の重慶に撤退すると、日本軍は陸上からの重慶攻略の先鞭として、同市に徹底的な戦略爆撃を行った(重慶爆撃)。この爆撃は日本軍の精密爆撃技術が未熟だったこともあり、多数の民間人が巻き添えを食らった。この重慶爆撃と日本の中国侵略に猛烈な反対声明を出したのは、何を隠そう、当時英領インド帝国でガンジーと共に独立運動を展開していたネルー(のちのインド初代首相)で、その要旨は「同じアジア人である日本が、同じアジア人(中国)を侵略し爆撃するのは反対」という、至極まっとうな見解であった。

 つまり日本は、アメリカとの戦争の際「アジア解放」を掲げていたが、それよりさらに前の段階で、同じアジア人に対し攻撃を加えていたのであった。よって多くのアジア地域では日本の戦争大義「アジア解放」は、美辞麗句で空疎なものと映った。満州事変と日中戦争の延長線上に太平洋戦争があるわけだが、日本は対米開戦の時点で「アジア解放」とは真逆のことを平然と行っていたのである。

「アジア解放」を謳いながら、片方で同じアジア人である中国を侵略するのは完全な矛盾である。しかし戦後の右派、さらに冒頭に述べた「太平洋戦争(―彼らは大東亜戦争と呼称する)はアジア解放のための戦いであった」という主張を支持する右派は、この日本帝国の自己矛盾をどう解決したのだろうか。答えは簡単で、「日中戦争はコミンテルンの謀略であり、日本は戦争に引き込まれた被害者である」というものである。これは筆者の別稿に詳しいが、総じてこれを「コミンテルン陰謀史観」という。要するに日本における中国侵略は、コミンテルン(共産主義者組織)によって画策された謀略であって、日本は断じて中国を侵略していない―、という理屈をこしらえたのである。

 当たり前のことだが、繰り返すように日本による戦争大義「アジア解放」と、日本による中国侵略は真っ向から矛盾する。よって「アジア解放」という日本の大義を正当化するならば、日米戦争以前に行われていた日本による「同じアジア人への侵略行為」をも正当化しなければならない。これによって創造されたのが「コミンテルン陰謀史観」だが、実際にはこのような事実は存在せず、満州事変以降の日本による中国侵略は、日本の権益確保と国益のために行われた(―この辺りは、秦郁彦著『陰謀史観』新潮社、に詳しい)。

 よって土台、1941年12月8日以降の太平洋戦争における「アジア解放」という戦争大義は、それ以前から重大な自己矛盾を内包しており、当時のアジアにおける独立運動家からも日本の中国大陸侵略は「アジア解放とは真逆のもの」として批判の対象になっていたのである。この事実を、戦後の右派は全く無視している。これは歴史修正主義と言わなければならない。冒頭に記述した小林よしのり氏の大ヒット作『戦争論』にも、太平洋戦争における日本軍の欧米植民地の「解放」の成果ばかりが強調されているが、その前段階から行われていた日本の中国侵略についての記述は希薄である。当たり前のことだが、片方で「アジア解放」と謳っておきながら、片方で同じアジア人を侵略しているという事実から目を背けないと、「日本のアジア解放という大義」の理屈は成立しえないからである。

・アジア諸国独立における日本の功績はあったのか

インパールの戦争博物館の前に立つ筆者(2017年)。展示にはチャンドラボースの功績は讃えられているが、日本軍の功績の類の記載はない。
インパールの戦争博物館の前に立つ筆者(2017年)。展示にはチャンドラボースの功績は讃えられているが、日本軍の功績の類の記載はない。

 確かに第二次大戦後、アジアの欧米植民地は次々と独立を果たした。この一点を以て、戦後の日本の右派も、現在それを支持する保守界隈やネット右翼も、「太平洋戦争(―彼らは大東亜戦争と呼称する)はアジア解放のための戦いであった」と主張している。しかし実際に、短期間であるとはいえ日本軍の東アジア一帯の制圧(南方作戦)が成功したことは事実だが、それがのちのアジア諸国の独立とダイレクトに結びついたかどうかは疑わしい。

 日本が進駐し占領した仏印(インドシナ)は、戦後フランス軍が戻ったが、現地人が独立軍を結成し、フランスからの独立戦争を戦った末、インドシナの独立が確定した。フィリピンは前述のとおり、すでに日本軍侵攻の前の段階でアメリカ議会から独立が約束されていたので自然にそれを達成した。蘭印(インドネシア)については、現地の残留日本軍兵士が戦後戻ってきたオランダ軍との独立戦争に加わった事実はあるが、あくまで独立戦争の主体はインドネシア人であった。そしてインドの独立運動家、チャンドラ・ボースを対イギリス戦争のためのシンボルとして祭り上げた日本であったが、ボースは終戦直後、台湾で航空機事故死したために、インドの独立にはほとんど関与しないまま世を去った。何よりインドの独立運動は、日本軍がビルマやインパールに侵攻するはるか前からガンジーらによって続けられており、日本軍による関与がインドの独立につながったとする評価は、現地でもほぼ皆無である。

 しかしこうした事実を述べると、「日本軍のアジア解放は、結果として失敗したが、敗戦後、現地人の独立精神に影響を与えた」という日本の右派による二の矢、三の矢が用意されている。前述小林よしのり氏の『戦争論』の結論がまさにそれである。もちろん、南方作戦における日本軍の一時的な作戦成功が、現地人に宗主国への独立の可能性を抱かせた側面はゼロとは言えない。だが、第一次大戦後、そして第二次大戦後、世界中でポスト・コロニアル(脱植民地化)の動きが起こり、戦争の戦勝国であったイギリスやフランスの植民地が次々と独立した。アフリカ諸国の独立はこのような流れの中で行われた。まさかナイジェリアやアルジェリアの独立が「日本によるアジア解放の影響を受けた」とする人間はおるまい。日本軍が関与する、しないに関わらず、第二次大戦後世界中で植民地独立の流れが起こったのである。これは当時の世界の潮流であった。

 事程左様に、「太平洋戦争(―彼らは大東亜戦争と呼称する)はアジア解放のための戦いであった」とする主張は、戦後の日本の右派が勝手に作り上げた日本側に都合の良い歴史解釈であり、事実を正確に照合していない。実際に安倍晋三首相による戦後70年談話(2015年)には以下の様にある。

(第一次大戦後)当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

出典:戦後70年談話・強調筆者

 史実はこの談話のとおりで、「日本はアジアの解放の一翼を担った」とか、「日本は敗れたけれどアジア解放という大義名分は正しかった」などとは一言も書かれていない。いい加減、日本の右派は、「太平洋戦争(―彼らは大東亜戦争と呼称する)はアジア解放のための戦いであった」という与太話を捨て、戦後75年という契機に、もう一度先の戦争における日本の大義の脆弱さ、矛盾、うさん臭さを内省すべきではないか。

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作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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日本の自虐史観

2024年06月10日 22時23分33秒 | 社会・文化・政治・経済

自虐史観(じぎゃくしかん)とは、太平洋戦争大東亜戦争)後の日本の社会や歴史学界、教育界における特定の歴史観批判・否定的に評価する概念である。

この言葉を使用する論者が何らかの歴史に関する記述が日本の歴史の負の部分をことさらに強調して日本を貶めていると批判する際に用いられる。

ほぼ同種の造語として、日本悪玉史観東京裁判史観がある。

また、「自虐史観の病理」の著者である藤岡信勝は自虐史観の対義語として「自由主義史観」を提唱した。

概要

戦後の歴史観を「自虐史観」と批判する論者からは以下のような主張がなされている。

日本が太平洋戦争で敗戦した後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領政策中に、極東国際軍事裁判(東京裁判)によって敗戦国のみが裁かれた事実やGHQの民政局が台本を書きNHKに放送させたラジオ番組「眞相はかうだ」、戦争に協力したと見なされた人物を裁判にかけることなく行った公職追放を通じて「日本は悪である」との考え方を押し付けられたと批判する。

また、日本社会や歴史学界、教育界の一部(日本教職員組合など)が、占領政策を支えGHQに迎合するかたちで、戦前の日本国民が共有していた価値観が否定されたと主張し、マルクス主義の影響を強く受けた歴史研究(唯物史観自己批判)が主流となったことや、いわゆる墨塗り教科書が使用されたことを批判する。

ただし批判側も一枚岩ではなく、米国について親米派と反米派で解釈に違いがあり、親米派はGHQの政策(あるいは日米開戦自体)は共産主義の同調者やスパイによるもので日米開戦のみ悪とし、反米派は日米開戦も当然とし、GHQ以後も反日であるとする。韓国についても、親日的な右派を肯定する立場、右派を含めて否定する立場、統一教会に親しい立場などがある。

沿革

秦郁彦は、1970年代に入った頃に、まず「東京裁判史観」という造語が語義がやや不分明のままに論壇で流通し始めたとしている[1]

冷戦終結後の1990年代から、日本において日中戦争太平洋戦争/大東亜戦争などの歴史を再評価する流れが表れ、自由主義史観を提唱した教育学者藤岡信勝などによって「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動が活発となった。「つくる会」は、主に近現代史における歴史認識について「自虐史観」であるとし、いわゆる戦後民主主義教育は日本の歴史の負の面ばかりを強調し戦勝国側の立場に偏った歴史観を日本国民に植え付け、その結果「自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」、「日本は反省謝罪を」という意識が生まれたと批判した。

秦は「自虐史観」も「東京裁判批判」も語義は曖昧であるとし、こうした主張の主力を占めるのは、渡部昇一(英語学)、西尾幹二(ドイツ文学)、江藤淳小堀桂一郎(国文学)、藤原正彦(数学)、田母神俊雄(自衛隊幹部)といった歴史学以外の分野の専門家や非専門家の論客であり、「歴史の専門家」は少ないと主張している[1]

2014年平成26年)1月には自由民主党が運動方針案に「自虐史観に陥ることなく日本の歴史と伝統文化に誇りを持てるよう、教科書編集検定・採択で必要措置を講ずる」と明記した[2]。 

世代論

ポスト団塊世代の右派系論客の津上俊哉は、近い世代の左派系論客の小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』を引用して、全共闘世代には、日本の「加害」を強調する自虐を好む者が多いと論じ、「国家」や「民族」を「抑圧する所与の体制」とする戦争における天皇や国家に連なるイメージ全てを拒絶する条件反射だけが残った思想的空洞と「騒擾」以外に何を遺したのかと批判する。

南京虐殺完全否定派ではない津上だが全共闘世代に多い「被害国への御注進」や「被害者の煽動」を行う一部の自虐的日本人については、「私的な生業」にしているとの疑念が自身の中でも大きくなっていると述べている。

自虐史観批判が日本の世論の中で力を得てきた背景について、見たくない、聞きたくないことを見せられる、聞かされること」に対する不快の表明というエゴの問題にとどまらず、運動を行っている人たちの動機や志操に直感的な疑念が沸くようになってきたからではないかと分析している[3]

統一教会信者への影響

鈴木エイトによると、統一教会は日本人を「人間的に考えれば赦ゆるすことのできない民族」とし、「エバ国家としてアダム国家である韓国へ自分を顧みずすべてを惜しみなく与えなさい」「日本は韓国に尽くす義務がある」と自虐史観的な刷り込みを行っている。このような背景にあるために統一教会の資金源の7割は日本人信者からとなっており、日本人信者にのみ霊感商法したり、多額の献金をさせている

乾正人小林よしのりは、戦後の日本において、朝日新聞などマスメディア、日教組など教育関係者による自虐史観教育や報道で、過度な贖罪意識を持った日本人が育ったとし、これらは統一教会による日韓併合の韓国への贖罪のために日本人のみ徹底的に貢がなければならないという反日的教義を受け入れる下地となり、統一教会信者となる日本人が発生した原因になったと述べている[5][6]。小林よしのりは、統一協会の教義を信じた日本人が何故発生したのかについて、「韓国に悪いことをしました」「日韓併合は悪いことでした」「日本は罪を負っています」という自虐史観が原因であり、この歴史観を全国の日本人は幼少期から刷り込まれてきたと述べている。小林は「なぜ統一協会の教義に容易に信じた日本人がいたのか」という問への答えとなる、戦後に刷り込まれた歴史観(自虐史観)が統一協会の教義そのままであるという肝心な部分を、「自虐史観自体は支持するマスコミが曖昧にして隠している」として、「マスコミは統一協会の共犯者」であると批判している[6]

在韓ライターの立花志音は、「統一教会の合同結婚式で韓国人に嫁いで韓国で暮らしている日本人の女性信者たち」の思想は「基本的に反日的自虐史観に染まっている」と述べている。彼女たちは、自分たち日本人は「「韓国を不法に侵略した」日本政府の代わりに韓国が納得するまで謝罪しなければならず、日本の統一教会も贖罪のため韓国と世界に対して献金を続けるべき」という「反日左翼思想のようなモノ」に染まっている。しかし、単なる「反日左翼思想」とは異なり、軍事安全保障的話題になると、共産主義に対しては日米韓3国が一体になって戦うべきと考えている者もいるいるため、立花は統一教会について「矛盾に満ちた、宗教団体」と述べている[7]

脚注

20世紀のアジアとの関係だけをとらえ、「罪」の意識ばかりに

「自虐史観」という言葉が使われるようになったのは、90年代後半に「新しい歴史教科書をつくる会」が活動を起こし、中学校の検定教科書の発行を企てた時からです(その後継の教科書が、沖縄の八重山地区で問題の発端となった「育鵬社版」教科書です)。

「日本はあの戦争において徹頭徹尾『悪』であり、ずっと謝りつづけなければならない」という意識を固定させたことが日本国民としての誇りを失わせた、だから考えを改め、日本人は誇りを取り戻すべきだ、という主張が、その根底にあるようです。

また、さらに深い淵源として、1945年(敗戦)から1952年(サンフランシスコ平和条約の発効)まで、日本がアメリカを中心とするGHQ(連合国軍総司令部)の支配下に置かれたこと、極東国際軍事裁判(東京裁判)で日本の「戦争犯罪」が、戦勝国側の論理で裁かれたことなどが、考えられます。

かつて、日本が国力の活路を海外に求めたことは事実です。

それは18世紀末から訪れたロシア、イギリス、アメリカなどの強国の求めによって開国し、当時の帝国主義=植民地主義の国際社会に加わらざるを得なかったことにはじまります。

この「起点」からの経緯を系統立てて教えることなく、20世紀のアジアとの関係だけをとらえ、「罪」の意識ばかりに浸ることが「自虐史観」なるものだとすれば、それは戦後の学校教育の大きな問題だったかもしれません。

自国の歴史、ありようをきちんと理解し、誇りを持つことができてこそ、グローバルな世の中で活躍することができるはずです。

「自虐史観」的な思想からは脱却し、「教育」が目指すべき姿は?

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競輪界は“復権”の2024年に S級S班返り咲きの平原・郡司と、ピンチ迎える現S班/G1直前賞金状況

2024年06月10日 18時03分27秒 | 未来予測研究会の掲示板

6/10(月) 11:50配信 netkeirin

伝統のダービーを制し獲得賞金1億円を突破している平原康多(撮影:北山宏一)

 2024年の競輪界は、まさに“復権”の年となっている。すでに終わっている二つのGIは、昨年S班から陥落した郡司浩平と平原康多が優勝。“赤パン返り咲き”を決めた。S班はすでに2名の入れ替わりが決まり、賞金争いもダービーを終え本格化。まもなく開幕するGI「高松宮記念杯競輪」を前に、S班9名と獲得賞金上位陣の序盤戦の戦いを振り返りたい。(※賞金は6月5日時点)

平原康多が「涙の復権」
関東勢に胴上げされ、吉田拓矢と握手する平原康多(撮影:北山宏一)

 5月に行われたGI最高峰「日本選手権競輪(通称ダービー)」では、昨年末に10年在籍したS班から陥落した平原康多が悲願の“ダービー王”に輝いた。

 これで平原は年末のKEIRINグランプリへの出場権を手にし、“赤パン返り咲き”を決めた。昨年の度重なる落車負傷から復活しての「涙の復権」、競輪史にまたひとつ感動のドラマが生まれた。

 11日から、前半戦最後のGI「高松宮記念杯競輪」が開催される。直前の賞金状況は、平原のみが獲得賞金1億円を超えトップを独走している状況だ。

前半戦大活躍で賞金4位につける岩本俊介(撮影:北山宏一)

 すでにグランプリ出場を決めているのは、GIタイトルを獲得した郡司浩平(5位)と平原康多(1位)。S班以外で上位に入っているのは、ダービー準優勝で賞金を大きく積み増した岩本俊介(4位)など。岩本は3月から4月にかけて驚愕の11連勝を挙げ好調が際立っていたが、GIダービーでも活躍。決勝は単騎で2着となった。

 ダービー前は5位につけていた北井佑季は7位に順位を落とした。GI全日本選抜、GIIウィナーズカップとビッグレースで立て続けに決勝に進み、次期タイトルホルダー最右翼として迎えたダービーではまさかの二次予選敗退。それでもダービーは白星締めし、グランプリ出場圏内を守っている。

ダービーで優出した吉田拓矢(撮影:北山宏一)

 ダービーで順位を上げたのは2022年のS班・吉田拓矢。平原のダービー制覇に貢献し、自身も決勝4着に入った。ダービーでは関東勢の活躍が光り、決勝に進んだ武藤龍生と小林泰正、4日目優秀競走「ゴールデンレーサー賞」を制した坂井洋も獲得賞金は3000万円を超え、上位に入っている。

S班5名が依然グランプリ出場圏外
武雄記念を制した深谷知広(写真提供:チャリ・ロト)

 すでに終了したGI2大会をS班ではない選手が制したことで、すでに今年はS班2名の入れ替わりが決まっている。“復権”の裏で、現S班は厳しい状況に置かれている。

 現S班の獲得賞金状況は、年始から好調を維持している古性優作(2位)が8000万円台、清水裕友(3位)は7000万円台。ビッグレースでも安定感が光っており、獲得賞金でも後続に大きく差をつけている。

 脇本雄太は高額賞金のダービーを欠場したものの、3月のGIIウィナーズカップの優勝があるため6位に留まった。深谷知広はGIでは決勝進出を逃しているが、5月の武雄GIIIを優勝。賞金9位でグランプリ出場ボーダーラインにつけている。

負傷の影響で松浦悠士は賞金ランキング17位(撮影:北山宏一)

 賞金ランキング10位以下でKEIRINグランプリ出場圏外に位置しているS班は5名。獲得賞金は3000万円に届いていない。

 このなかには昨年のグランプリ覇者・松浦悠士も含まれる。松浦は3月のGIIウィナーズカップ準決勝で落車負傷。この影響でほかの選手よりも出走数が少なくなっている。ダービーで復帰を迎え準決勝5着で敗退したが、調子が戻るのはこれからだろう。

特選シードのないGI高松宮記念杯
(撮影:北山宏一)

 競輪界唯一の東西戦であるGI高松宮記念杯競輪。一次予選はポイント制で行われ、予選のシードレースがない。

 賞金で厳しい立場におかれている選手は、まずは決勝進出できるかが大きな鍵になる。着実にポイントを稼ぎ、準決勝フリーパスとなる「青龍賞・白虎賞」の権利を勝ち取りたいところだ。

 ダービーが終わり、KEIRINグランプリに向けた賞金争いはすでに本格化している。ここまでの賞金状況や今年の戦績も参考に、GI高松宮記念杯競輪を楽しんでほしい。

 

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東京裁判に批判の声

2024年06月10日 16時15分02秒 | 社会・文化・政治・経済

独立国家日本の「もう一つの戦後史」

終戦50周年国民委員会 ※佐藤和男・青山学院大学名誉教授監修『世界がさばく東京裁判』(明成社)「第6章」より転載。

「文明の裁き」と称して鳴り物入りで始められた東京裁判は実に2年6カ月もの時間を費やし、開廷423回、総計費27億円をかけて1948年(昭和23年)11月に判決を下した。我が国の指導者7人に絞首刑を宣告したこの判決は、これまでに紹介したように、弁護団ばかりでなく、少数意見を提出した判事たちや連合国の政治家たちからも厳しい批判を浴びた。

いくら国際法に基づいた公正な裁判だったと宣伝しても、真実は隠せない。「いかさまな法手続き」で行なわれた「政治権力の道具」に過ぎなかった東京裁判を強行したことで、GHQ(占領軍総司令部)及びアメリカ政府の権威は低下することとなった。判決が出された翌年の1949年(昭和24年)1月11日、アメリカのワシントン・ポスト紙は論説に次のように記した。

《米国の声望はもとより、正義の声望までも……東京において危うくされたことが、次第に明白になりつつある。》(『勝者の裁き』p.187.)

GHQは東條元首相らを処刑した1948年(昭和23年)12月23日の翌日、準A級戦犯容疑者19名を一度も裁判にかけることなく巣鴨拘置所からそそくさと解放し、以後、法廷は二度と開かれることはなかった。なお、連合国極東委員会は翌1949年2月24日、「国際軍事裁判はこれ以上行なわない」と決定した。

この東京裁判を、戦後独立を果たした我が国の政治家及び国民が、どのように受け止めてきたかについては、ほとんど知られていない。このため、我が国は「東京裁判」を受け入れることで国際社会に復帰したという誤解が流布されてしまっている。しかし、真実はそうではなかった。

そこで、独立国家として東京裁判を正面から批判してきた「もう一つの戦後史」を、ここに紹介したい。

■講和会議で東京裁判を批判したメキシコ大使

国際法においては通常、講和条約(平和条約)の締結・発効によって戦争が正式に終結するものとされる。それまでは法的には「戦争状態」の継続と見なされるので、いわゆるA級戦犯を裁いた東京裁判や、アジア太平洋の各地で開廷されたB・C級戦犯裁判も、連合国軍による軍事行動(戦争行為)の一種と理解されている。しかし、軍事行動は講和条約の発効と共に終結する。

つまり、昭和27年(1952年)4月28日のサンフランシスコ対日講和条約の発効とともに、国際法的には日本と連合国の間に継続していた「戦争状態」は終焉し、独立を回復した日本政府は、講和に伴う「国際法上の大赦」を規定する国際慣習法に従って、戦争裁判判決の失効を確認した上で、連合国が戦犯として拘禁していた人々をすべて釈放することができたはずなのである。
ところが、そうはならなかった。
そもそもこの講和条約を起草したのはサンフランシスコ講和会議であるが、この会議で署名された条約草案は、アメリカ、イギリス、日本の3カ国間交渉で起草され、最終案文は、会議の始まる僅か1カ月前に発表され、それ以外の49の参加国は、基本的にはそれを承認するために招請されたわけである。その講和条約第11条には、

《日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。……極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限[赦免し、減刑し、及び仮出獄させる]は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。》

と規定されていた。

本来ならば、日本政府は講和条約の発効とともに、戦犯として拘禁されていた者を釈放していいはずだが、「(アメリカの)審判と慈悲に絶対的に従う」政権の樹立を目的として東京裁判を含む占領政策を遂行してきたアメリカは、講和独立後も、アメリカの「審判」に従った刑の執行を日本政府に要求したのである。
1951年(昭和26年)9月5日、サンフランシスコ講和会議が開かれた。この会議で、スリランカ代表のJ・R・ジャヤワルダナ蔵相(のち首相、大統領)が「私は、前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである」として、日本の独立回復を強く支持する格調高い演説をしたことは有名である。
この会議の席で、日本に対して懲罰的な講和条約第11条がやはり問題となった。ラファエル・デ・ラ・コリナ駐米メキシコ大使はメキシコ代表として

《われわれは、できることなら、本条項[講和条約第11条]が、連合国の戦争犯罪裁判の結果を正当化しつづけることを避けたかった。あの裁判の結果は、法の諸原則と必ずしも調和せず、特に法なければ罪なく、法なければ罰なしという近代文明の最も重要な原則、世界の全文明諸国の刑法典に採用されている原則と調和しないと、われわれは信ずる。》(『各法領域における戦後改革』p.89.)

と発言、アルゼンチン代表のイポリト・ヘスス・パス駐米アルゼンチン大使も

《わが政府は、日本国民に彼等の主権を回復させるこの条約に賛意を表せざるを得ないのであります。……この文書の条文は、大体において受諾し得るものではありますが、2、3の点に関し、わが代表団がいかなる解釈をもつて調印するかという点、及びこの事が議事録に記載される事を要求する旨を明確に述べたいのであります。……本条約第11条に述べられた法廷[東京裁判]に関しては、わが国の憲法は、何人といえども正当な法律上の手続きをふまずに処罰されない事を規定しています。》(外務省編『サン・フランシスコ会議議事録』p.299.)

と語り、「正当な法手続きを踏まずに日本人指導者を処罰した東京裁判は、アルゼンチン憲法の精神に反している」として、東京裁判を間接的に批判したのである。しかし、メキシコ、アルゼンチン両代表の発言は記録にとどめられただけで、条約草案はそのまま条約本文となった。

■4000万人を越えた「戦犯」釈放署名

かくして1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコにおいて日本を含む416カ国が対日講和条約に調印し、翌1952年(昭和27年)4月 28日に発効。日本は晴れて独立を回復したが、講和条約第十一条に、関係国の同意なくして日本政府は勝手に戦争受刑者(戦犯)を釈放してはならないと規定されていたため、講和条約の恩恵を受けることなく、巣鴨、モンテンルパ(フィリピン)、マヌス島(オーストラリア)で引き続き1224名もの日本人および戦時中日本国籍を有していた朝鮮人・台湾人がA級及びB・C級戦犯として服役しなければならなかった。

それを知った国民は驚いた。講和条約が発効したのに何故敵国に裁かれた同胞たちは釈放されないのか。連合国が戦時の軍事行動の一環として行なった戦争裁判の効力は失われ、戦争受刑者も全員釈放されるのが国際慣例ではなかったのか―。そのような疑問から、戦争裁判に対する国民の関心は一気に高まった。

実は、朝鮮戦争の勃発に伴いアメリカの対日政策が変更されたため、軍事占領も後期になると日本国民の言論の自由もかなり容認されるようになり、占領中の昭和 25年(1950年)4月、「国づくりは戦争の後始末から」を合言葉に引揚問題や戦争受刑者問題に取り組んできた「日本健青会」のメンバーが中心となって「海外抑留同胞救出国民運動」(総本部長は衆議院議長)が発足し、戦争受刑者釈放運動が取り組まれていた。

このため講和条約発効後の1952年(昭和27年)6月5日から全国一斉に「戦争受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願」の署名運動が始められるや、戦争受刑者釈放運動は大いに盛り上がった。その様子を国学院大学の大原康男教授は次のように紹介している。

《まず日本弁護士連合会が口火を切り、27年6月7日「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に伝えた。これがきっかけとなって、戦犯釈放運動は瞬またたく間に全国的規模の一大国民運動となり、早くからこの運動に取り組んで来た日本健青会を始めとする各種団体や地方自治体は、政府は平和条約第11条に基づいて関係各国に対して赦免勧告を行なうよう続々と要請した。

署名運動も急速に広がり、共同通信の小沢武二記者の調査によれば、地方自治体によるもの約2000万、各種団体によるもの約2000千万、合計約4000万に達し、また各国代表部や国会・政府・政党などに対する陳情も夥おびただしい数にのぼっている。》(「“A級戦犯”はなぜ合祀されたか」p.112~113.、『靖国論集』)

こうした国民世論の後押しを受けて、政府は直ちに国内で服役中の戦犯の仮釈放および諸外国で服役中の戦犯を我が国に送還する措置について関係各国と折衝を開始した。7月11 日の閣議では、岡崎勝男外相が中心となって今後一層関係国の了解を求めるよう努力することを申し合わせた。七月下旬、政府の肝入りで日本健青会の末次一郎氏(現、安全保障問題研究会、新樹会代表)が訪米し、トルーマン大統領に戦争受刑者の釈放について次のような要請書を提出した。

《私は祖国日本の完全なる独立と真実の世界平和とを希求する青年の立場から、今次戦争における戦争犯罪人として今猶獄舎にある人々の全面的釈放の問題について、我々の強い要請を披瀝するものである。

今次戦争における所謂、戦争犯罪処断の目的は、1つには人類の世界から戦争を消滅させようとする人間の善意の祈りであろうが、然し1つには勝者の敗者に対する徴罰の1つの形式であったと思う。
従ってこの所謂、政治目的を背後に蔵した戦争裁判の結果は、或は全く無実の人々を多数苛酷な罪名の下に拘束し、或は裁判の行われたる時期によって罪の軽重甚だしく、或は文明と人道の名の下に敗者のみが一方的に裁かれるという数々の不当な事実が発生して来たのである。

この様な重大な問題が、講和条約におけるとりきめが甚だしく不備であったために、条約発効後数ケ月を閲けみしたる今日、猶未解決の儘まま放置されて居り、かえって連合軍占領期間中行われて居た仮出所の制度すらも、日本の管理に移されると共に之が停止を命ぜられるという逆現象さえ呈しているのである。このことは、講和成立と同時に戦争犯罪を全面解決した歴史上の先例から考えても、又上述した如き今次裁判の極めて特異な性格から見ても、講和成立と同時に当然全面釈放が行われるものと期待した我々日本国民に、甚しい失望と不満を与え、殊に無実の罪に拘束されている多くの人々に激しい憤りをさえ持たせるに至って居る。アメリカの良識を代表される閣下が、もしも現在巣鴨に拘置中の米国関係者427名に対して、全面釈放の措置を断行されるとすれば、我々日本人が最も心を痛めている、比島の死刑囚59名の助命、並びに同島にある111名の拘置者及び濠洲[オーストラリア]マヌス島にある206名の日本人の内地送還についても、必ず喜ぶべき結果が齎もたらされるであろうと確信する。

我々は、この戦争裁判の背後にある政治目的は完全に達せられたと確信するが故に、且又この現状が日米両国民の親善を阻害するのみならず、共産主義者たちに逆用の口実を与えることを虞おそれるが故に、猶又この問題は講和発効と同時に解決されるのが至当であって、個別審査によって事務的に減刑等を行なうという如き姑こ息そくなる手段によって解決すべきでないと信ずるが故に、更に日本国民は、この解決によって始めて真に平和的国家の建設に邁進し得ると確信するが故に、閣下が、米国関係の全戦犯者に対する即時釈放を断行されんことを、茲ここに強く要請するものである。》(末次一郎『「戦後」への挑戦』p.151~153.)

■「戦犯」釈放に立ち上がった日本政府

こうした世論の盛り上がりの中で、政府の対応は素早く、まず巣鴨在所者の処理について関係国の許容を得る可能性の多い仮出所の勧告を行う方針のもとに、昭和27年(1952年)8月11日までに232名の仮出所の勧告を行い、8月15日、今度は巣鴨刑務所に服役中のB・C級戦犯全員八百十九名の赦免を関係各国に要請する勧告を行なった。8月19日には新木駐米大使がアリソン米国務次官補を訪問し、B・C級日本人戦犯釈放問題で再びアメリカ政府の好意的配慮を要請。10月11日には、立太子礼を機会に、国内および海外に抑留されているA級を含む全戦犯の赦免・減刑を関係各国に要請したのである。

度重なる日本政府の要請に11月13日、アメリカ政府はワシントンの日本大使館に対して極東国際軍事裁判所で裁判を受けたA級戦犯に関する赦免、減刑、仮出所などの処置を協議するため、同軍事裁判に参加した連合国との間に近く話し合いを始める考えであることを通告した。

そこで、日本政府の後押しをすべく11月27日、自由党(吉田茂総裁)は総務会で、他国に抑留中の戦犯死刑囚の助命、有期刑者の内地送還ならびに内地抑留中の戦犯の釈放に関する決議案を今国会に提出することを決定し、12月9日、第十五回国会・衆議院において田子一民議員ほか58名提出、自由党、改進党(重光葵総裁)、左右両派社会党、無所属倶楽部の共同提案による、次のような「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が圧倒的多数で可決されたのである(労農党のみ反対)。

《独立後すでに半歳、しかも戦争による受刑者として内外に拘禁中の者はなお相当の数に上り、国民の感情に堪え難いものがあり、国際友好の上より遺憾とするところである。

よつて衆議院は、国民の期待に副い家族縁者の悲願を察し、フイリツピンにおいて死刑の宣告を受けた者の助命、同国及びオーストラリア等海外において拘禁中の者の内地送還について関係国の諒解を得るとともに、内地において拘禁中の者の赦免、減刑及び仮出獄の実施を促進するため、まずB級及びC級の戦争犯罪による受刑者に関し政府の適切且つ急速な措置を要望する。
右決議する。》(「官報号外」昭和27年12月9日)

この国会決議が東京裁判を否定する意図をもって行なわれたことは、この提案の趣旨説明に立った田子一民議員の次の趣旨説明で明らかだ。

《…… わが国は、平和条約の締結によつて独立国となつて、すでに半歳以上をけみしておるのであります。国民の大多数は、独立の喜びの中に、新生日本の再建に努力しております。この際、このとき、この喜びをともにわかつことができず、戦争犯罪者として、あるいは内地に、あるいは外地に、プリズンに、また拘置所に、希望なく日を送つておりますることは、ひとり国民感情において忍び得ざるのみならず、またさらに国際友好上きわめて遺憾に存ずるところであります。(拍手)……一般国民は、戦争の犠牲を戦犯者と称せらるる人々のみに負わすべきでなく、一般国民もともにその責めに任ずべきものであるとなし、戦犯者の助命、帰還、釈放の嘆願署名運動を街頭に展開いたしましたことは、これ国民感情の現われと見るべきものでございます。

およそ戦争犯罪の処罰につきましては、極東国際軍事裁判所インド代表パール判事によりまして有力な反対がなされ、また東京裁判の弁護人全員の名におきましてマツカーサー元帥に対し提出いたしました覚書を見ますれば、裁判は不公正である、その裁判は証拠に基かない、有罪は容疑の余地があるという以上には立証されなかつたとあります。……また外地における裁判について申し上げましても、裁判手続において十分な弁護権を行使し得なかつた関係もあり、また戦争当初と事件審判との間には幾多の時を費しまして、あるいは人違い、あるいは本人の全然関知しなかつた事件もあると聞いておるのであります。

英国のハンキー卿は、その著書において、この釈放につき一言触れておりますが、その中に、英米両国は大赦の日を協定し、一切の戦争犯罪者を赦免すべきである、かくして戦争裁判の失敗は永久にぬぐい去られるとき、ここに初めて平和に向つての決定的な一歩となるであろうと申しておるのであります。かかる意見は、今日における世界の良識であると申しても過言ではないと存じます。(拍手)

かくして、戦争犯罪者の釈放は、ひとり全国民大多数の要望であるばかりでなく、世界の良識の命ずるところであると存じます。もしそれ事態がいたずらに現状のままに推移いたしましたならば、処罰の実質に戦勝者の戦敗者に対する憎悪と復讐の念を満足する以外の何ものでもないとの非難を免のがれがたいのではないかと深く憂うるものであります。(拍手)》(「官報号外」昭和27年12月9日)

発言中に引用されたハンキー卿の著『戦犯裁判の錯誤』は長谷川才次訳、時事通信社刊として独立直後の昭和27年(1952年)10月に日本語訳が出版され、大きな反響を呼んでいた。

占領中は、GHQの検閲によって東京裁判批判は一切禁じられ、東京裁判を肯定する趣旨の本しか出版されていなかった。しかし、講和独立後、言論の自由を回復するや、東京裁判を日本人の立場から批判する書籍が相次いで出された。昭和27年(1952年)には、日本無罪を主張したパール判事の「判決書」に関する田中正明著『日本無罪論―真理の裁き』(太平洋出版)、同著『全訳 日本無罪論』(日本書房)、弁護人だった瀧川政次郎著『東京裁判を裁く 上下』(東和社)などが出版された。更に、B・C級戦犯として無実の罪に問われた遺書・手記が、『あすの朝の“九時”―大東亜戦争で戦争犯罪者として処刑された人々の遺書』(日本週報社編)、『祖国への遺書―戦犯死刑囚の手記』(塩尻公明編 毎日新聞社)、『死して祖国に生きん―四戦犯死刑囚の遺書』(杉松富士雄編 蒼樹社)、『モンテンルパ―比島幽囚の記録』(辻豊編著 朝日新聞社)として出版された。これらの著編書を通じて、GHQによって隠蔽されていた戦犯裁判の実像が世に知られるようになっていたのである。

こうした情況を踏まえ、改進党の山下春江議員も国会決議の趣旨説明のなかで、

《…… 占領中、戦犯裁判の実相は、ことさらに隠蔽されまして、その真相を報道したり、あるいはこれを批判することは、かたく禁ぜられて参りました。当時報道されましたものは、裁判がいかに公平に行われ、戦争犯罪者はいかに正義人道に反した不逞残虐の徒であり、正義人道の敵として憎むべきものであるかという、一方的の宣伝のみでございました。また外地におきまする戦犯裁判の模様などは、ほとんど内地には伝えられておりませんでした。国民の敗戦による虚脱状態に乗じまして、その宣伝は巧妙をきわめたものでありまして、今でも一部国民の中には、その宣伝から抜け切れないで、何だか戦犯者に対して割切れない気持を抱いている者が決して少くないのであります。

戦犯裁判は、正義と人道の名において、今回初めて行われたものであります。しかもそれは、勝つた者が負けた者をさばくという一方的な裁判として行われたのであります。(拍手)戦犯裁判の従来の国際法の諸原則に反して、しかもフランス革命以来人権保障の根本的要件であり、現在文明諸国の基本的刑法原理である罪刑法定主義を無視いたしまして、犯罪を事後において規定し、その上、勝者が敗者に対して一方的にこれを裁判したということは、たといそれが公正なる裁判であつたといたしましても、それは文明の逆転であり、法律の権威を失墜せしめた、ぬぐうべからざる文明の汚辱であると申さなければならないのであります。(拍手)……》(「官報号外」昭和27年12月9日)

と、東京裁判を「文明の汚辱」とまで非難しているのである。

晴れて独立を達成した以上、戦勝国から勝手に押し付けられた「勝者の裁き」を受け入れる必要はないではないか。何故いつまでも無法の裁判による判決に従って同胞が刑に服さなければならないのか―という、勝者の無法に対する憤りとともに、歴史の自己解釈権を取り戻そうとする独立国家としての一種の高揚感がこれらの発言からは伝わってくる。

占領軍が約7年間にわたって日本国民に贖罪意識を持たせるべく日本軍の残虐さを宣伝し、あたかも国際法に基づいているがごとく東京裁判やB・C級裁判を強行したが、それにもかかわらず、それらの敵国の宣伝を鵜呑みにせずに、当時の日本の政治家の多くは自国の正義を信じ続けるだけの見識を持ち合わせていたのである。

■社会党議員による「東京裁判」批判

東京裁判を批判したのは何も保守政治家だけに限らなかった。決議採択に際して日本社会党の田万廣文議員は、

《私は、日本社会党を代表いたしまして、ただいま上程されておりまする決議案に対して賛意を表明するものであります。……
私どもは、正義を愛し、平和を愛します。その意味から申しましても、この決議案に盛られた趣旨は正しいと考える。B級、C級の戦犯者こそは、すみやかに釈放せられるべき運命の星にあると私は考えるのであります。……》(「官報号外」昭和27年12月9日)

と訴えた。同じく日本社会党の古屋貞雄議員も、

《…… 戦争が残虐であるということを前提として考えますときに、はたして敗戦国の人々に対してのみ戦争の犯罪責任を追究するということ―言いかえまするならば、戦勝国におきましても戦争に対する犯罪責任があるはずであります。しかるに、敗戦国にのみ戦争犯罪の責任を追及するということは、正義の立場から考えましても、基本人権尊重の立場から考えましても、公平な観点から考えましても、私は断じて承服できないところであります。(拍手)……世界の残虐な歴史の中に、最も忘れることのできない歴史の一ページを創造いたしましたものは、すなわち広島における、あるいは長崎における、あの残虐な行為であつて、われわれはこれを忘れることはできません。(拍手)この世界人類の中で最も残虐であつた広島、長崎の残虐行為をよそにして、これに比較するならば問題にならぬような理由をもつて戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります。(拍手)

ことに、私ども、現に拘禁中のこれらの戦犯者の実情を調査いたしまするならば、これらの人々に対して与えられた弁明並びに権利の主張をないがしろにして下された判定でありますることは、ここに多言を要しないのでございます。しかも、これら戦犯者が長い間拘禁せられまして、そのために家族の人々が生活に困つておることはもちろんでありまするけれども、いつ釈放せられるかわからぬ現在のような状況に置かれますることは、われわれ同胞といたしましては、これら戦犯者に対する同情禁ずることあたわざるものがあるのであります。われわれ全国民は、これらの人々の即時釈放を要求してやまないのでございます。……》(「官報号外」昭和27年12月9日)

と切々と訴えた。

「敗戦国にのみ戦争犯罪の責任を追及するということは、正義の立場から考えましても、基本人権尊重の立場から考えましても、公平な観点から考えましても、私は断じて承服できない」―この正論は広く国民に受け入れられるものであった。革新を標榜していたとは言え、社会党代議士もまた、原爆投下という非人道的行為を敢えて犯しながら「文明」の名のもとに敗戦国を一方的に裁いた戦勝国の「正義」を唯々諾々と受け入れるほど、「卑屈」ではなかったのである。

この「戦犯釈放決議」は12月12日に今度は参議院でも可決された。

しかし連合国側が戦犯釈放になかなか同意せず、釈放の見通しも立たないまま1953年(昭和28年)に入り、緊喫の課題として、一家の主を失って困窮を極めている戦犯の遺族たちへの援助問題が浮上してきた。戦犯の遺族たちにも他の戦没者遺族と同じく弔慰金などの援助をするべきではないか、そのためには、戦争受刑者を犯罪者と見なすのではなく、公務で亡くなられた「公務死」と認定するべきではないかという議論が起こったのである。

7月21日、衆議院厚生委員会で、改進党の山下春江議員は、

《戦犯で処刑されました方々を公務死にいたしたいというのは、大体国会における全部の意見のように考えるのでありますが、政府はそれを公務死に扱うことは、いろいろ国際関係その他の情勢を勘案して、ただちに行うことはどうかというような答弁をかつてなさつたのでありますが、外務省はどういうお考えをお持ちになりますか。……国民としては、当然すでになくなられた方には上も下もなく同一に国家のために公務で死歿されたものと扱いたいのでありますが、そういうことに対する政府の見解をただしたいのであります。……》(第16回国会衆議院厚生委員会議事録第22号)

と質問した。これに対し翌22日、広瀬節男外務省参事官(大臣官房審議室付)が、

《[戦犯の刑死は公務死との考えに基づき]被処刑者の遺族の援護は、社会保障的見地から見ましてももつともなことだと思いますし、国際関係上から見ましても支障ないものと認めまして、外務省としては何らこれに異議はございません。こういうことを省議決定いたしましたことを御報告申し上げます。》(第16回国会衆議院厚生委員会議事録第23号)

と答弁している。現在の風潮から考えれば、政府・外務省が、連合国の軍事裁判において「侵攻戦争を行なった戦争犯罪人」と断罪された人々を犯罪者ではなく、公務で亡くなった人と認定しても「国際関係上から見ても支障ないと認める」と“省議決定” の上で断言したことはまさに驚くべきことだ。「東京裁判による刑死は実質的“戦死”である」という立場に、当時は政府も国民も立っていたのである。

遺族援護法改正に社会党は賛成した上にまた、熱心にこれを支持した。堤ツルヨ衆議院議員(右派社会党)は衆議院厚生委員会で、

《処刑されないで判決を受けて服役中の留守家族は、留守家族の対象になって保護されておるのに(注 既に成立している未帰還者留守家族援護法の適用を受けるの意)、早く殺されたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。しかもその英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日の遺族は非常に嘆いておられます。……遺族援護法の改正された中に、当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのが当然であると思います》(『靖国論集』p.114.)

と述べているが、「戦犯であっても靖国神社には戦没者としてお祀りするべきだ」というこの意見の前提に、「東京裁判は間違った裁判だった」という認識があることは言うまでもない。

保守・革新を問わず、国際社会に復帰した日本がまず行なったことが、戦犯釈放要求・戦犯遺族への年金受給という形での戦争裁判への異議申し立てであったことは、戦後日本の政治を考える上で忘れてはならないことではないだろうか。

■可決された「戦争犯罪」否定の国会決議

かくして1953年(昭和28年)8月、自由党、改進党、右派・左派社会党による全会一致で、戦傷病者戦没者遺族等援護法の一部が改正され、困窮を極めている戦犯遺族に対しても遺族年金および弔慰金が支給されることになった。一方、日本政府の熱心な働きかけによって、戦争受刑者の釈放も徐々に進んでいた。かくなる上は1日も早く残りの戦争受刑者も釈放しようと、当時の国会議員たちは1953年(昭和28年)8月3日、昨年に引き続いて再び衆議院本会議で、次のような「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」を可決した。

《8月15日九度目の終戦記念日を迎えんとする今日、しかも独立後すでに15箇月を経過したが、国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは、もはや国民の感情に堪えがたいものがあり、国際友好の上より誠に遺憾とするところである。しかしながら、講和条約発効以来戦犯処理の推移を顧みるに、中国は昨年8月日華条約発効と同時に全員赦免を断行し、フランスは本年6月初め大減刑を実行してほとんど全員を釈放し、次いで今回フイリピン共和国はキリノ大統領の英断によつて、去る 22日朝横浜ふ頭に全員を迎え得たことは、同慶の至りである。且又、来る8月8日には濠州マヌス島より165名全部を迎えることは衷心欣快に堪えないと同時に、濠州政府に対して深甚の謝意を表するものである。

かくて戦犯問題解決の途上に横たわつていた最大の障害が完全に取り除かれ、事態は、最終段階に突入したものと認められる秋に際会したので、この機を逸することなく、この際有効適切な処置が講じられなければ、受刑者の心境は憂慮すべき事態に立ち至るやも計りがたきを憂えるものである。われわれは、この際関係各国に対して、わが国の完全独立のためにも、将又世界平和、国家親交のためにも、すみやかに問題の全面的解決を計るべきことを喫緊の要事と確信するものである。
よつて政府は、全面赦免の実施を促進するため、強力にして適切且つ急速な措置を要望する。
右決議する。》(「官報号外」昭和28年8月3日)

遠慮がちであった前年の国会決議に比して、この決議は独立国家としての自負心に溢れた、格段に力強いものになっている。提案趣旨説明に立った山下春江議員(改進党)は、

《…… 結局、戦犯裁判というものが常に降伏した者の上に加えられる災厄であるとするならば、連合国は法を引用したのでもなければ適用したのでもない、単にその権力を誇示したにすぎない、と喝破したパール博士の言はそのまま真理であり、今日巣鴨における拘禁継続の基礎はすでに崩壊していると考えざるを得ないのであります。(拍手)……「獄にしてわれ死ぬべしやみちのくに母はいますにわれ死ぬべしや」、このような悲痛な気持を抱いて、千名に近い人々が巣鴨に暮しているということを、何とて独立国家の面目にかけて放置しておくことができましよう。(拍手)機運はまさに熟しているのであります。》(「官報号外」昭和28年8月3日)

と切々と訴えた。「何とて独立国家の面目にかけて放置しておくことができましよう」の一節に、当時の日本人の思いが集約されているのではないだろうか。

平成5年(1993年)、細川護煕首相は「東京裁判の判決を受け入れることで日本は国際社会に復帰した」と述べたが、事実は全く違っていた。戦前・戦後の歴史を検証することなく行われた細川首相の答弁は、総理大臣としては恐ろしく無知にして無見識なものであった。

ともあれ、講和独立後の日本の政治家たちは、「勝者の裁き」を敢然と拒否することこそが「わが国の完全独立」と「世界平和」につながると信じた。勝者の裁きを否定して、連合国によって奪われた「歴史解釈権」を晴れて取り戻した「完全な独立国家」として国際親交に努めたい―これが紛れもなく戦後の日本政治の原点であったと言えよう。

なお、A級戦犯は昭和31年(1956年)3月31日までに関係各国の同意を得て全員出所したが、B・C級の最後の18名の仮出所が許され全員出所したのは昭和33年(1958年)5月30日のことであった。

■日本は「東京裁判」により法的に拘束されない

最後のB・C級戦犯が釈放された頃から、60年安保騒動に始まる反米親ソの革新勢力が台頭し、世の中は「革命前夜」の様相を呈してゆく。

このため、東京裁判否定の熱意を受け継ぐべき保守政治家たちは、米国との協調・友好を重視するあまり、米国の戦争責任追及=反米につながりかねない東京裁判否定論をトーンダウンさせた。一方、革新勢力は、ソ連・中国の歴史観に強い影響を受けながらマスコミや日教組と手を組み、“東京裁判史観”の普及に、これ努めることになったのである。

かくしてマスコミや革新勢力の支援の中で、GHQの協力を得て結成した日本教職員組合(日教組)が、GHQの「戦争犯罪周知宣伝計画」に基づいて作成された「歴史教科書」を使って行なう歴史授業によって、アメリカの「審判と慈悲に絶対的に従う」従属政権を樹立しようとするGHQの意図は、じわじわと日本の若い世代に浸透していくこととなった。

昭和57年(1982年)、歴史教科書の記述を文部省が検定で「侵略」から「進出」に書き換えさせたとして(これは後に誤報であることが判明した)、中・韓両国から大きな反発を招いた、いわゆる「教科書事件」が起こった。この時、近隣諸国から激しく批判された政府首脳、なかでも時の宮澤喜一官房長官(自民党)は、事実関係をろくに調べないまま、批判を全面的に受け入れた上、「わが国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判(韓国、中国からの批判)に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」という談話を発表するに至った。近隣諸国との友好のためには、東京裁判の判決に示された歴史観を受け入れるという、独立後の国会決議とまるで正反対の趣旨の談話が表明されたことになる。
以後今日に至るまで、残念ながらこの談話が追認される方向で進んでいるのである。

敵国によって“A級戦犯”とされた人々を靖國神社に合祀したことをめぐって再び近隣諸国を巻き込んだ形での問題が起こり、そのさなかの1985年(昭和 60年)11月8日 衆議院外務委員会で土井たか子議員(社会党)は「戦犯は日本も受けいれた東京裁判によって“平和に対する罪”で処刑されたのであり、戦没者とは違う。どうして戦犯を祀っている靖國に参拝するのか」と質問した。同じ社会党の先輩女性議員が、戦犯とされた人々が靖國神社にお祀りされていないことを嘆く遺族の人々の心情を代弁して、戦犯釈放運動を熱心に推進していたことなど、全く知りもしないのであろう。

この土井発言を補足するように、昭和61年(1986年)8月19日、衆議院内閣委員会で後藤田正晴官房長官(自民党)が、東京裁判について「サンフランシスコ対日平和条約第11条で国と国との関係において裁判を受諾している事実がある」と述べ、東京裁判の正当性を認めることが政府の統一見解であるとの考えを表明した。

この時期、サンフランシスコ講和会議でも問題とされた講和条約第11条に「裁判を受諾し」との一節があることから、日本政府は第11条のゆえに講和成立後も、東京裁判の「判決」中の「判決理由」の部分に示された、いわゆる「東京裁判史観」の正当性を認め続けるべき義務があると、一部学者たちが強硬に主張していた。その主張に、土井氏や後藤田官房長官は安易に飛びついたものと思われる。

日本はサンフランシスコ講和条約によって「東京裁判史観」を受け入れたのかどうか。国際法の専門家である佐藤和男教授は国際法学会でのやり取りも踏まえ、次のように指摘する。

《第 11条の規定は、日本政府による「刑の執行の停止」を阻止することを狙ったものに過ぎず、それ以上の何ものでもなかった。日本政府は第11条の故に講和成立後も、東京裁判の「判決」中の「判決理由」の部分に示されたいわゆる東京裁判史観(日本悪玉史観)の正当性を認め続けるべき義務があるという一部の人々の主張には、まったく根拠がない。

筆者は昭和61年8月にソウルで開催された世界的な国際法学会〔ILA・国際法協会〕に出席した際に、各国のすぐれた国際法学者たちとあらためて第11条の解釈について話し合ったが、アメリカのA・P・ルービン、カナダのE・コラス夫妻(夫人は裁判官)、オーストラリアのD・H・N・ジョンソン、西ドイツのG・レスなど当代一流の国際法学者たちが、いずれも上記のような筆者の第11条解釈に賛意を表明された。議論し得た限りのすべての外国人学者が、「日本政府は、東京裁判については、連合国に代わり刑を執行する責任を負っただけで、講和成立後も、東京裁判の判決理由によって拘束されるなどということはあり得ない」と語った。これが、世界の国際法学界の常識である。……

対日平和条約の発効により国際法上の戦争状態を終結させて独立を回復した日本の政府は、東京裁判の判決理由中に示された歴史観ないし歴史的事実認定―歴史の偽造(東京裁判のインド代表判事であったパール博士の言葉)として悪名が高い―を盲目的に受けいれる義務を負わず、いかなる批判や再評価をもその裁判や判決理由に下すことが自由であり、この自由こそが、講和を通じ代償を払って獲得した国家の「独立」の実質的意味なのである。》(『各法領域における戦後改革』p.100~101.)

講和独立後の日本の政治家たちは、「勝者の裁き」を敢然と拒否することこそが「わが国の完全独立」と「国際親交」につながると信じたが、それは「自己解釈権」を取り戻した独立国家として、極めて正当な行動であった。

こうした戦後政治の原点を踏まえ、私たちは、国際法上、敵国の軍事行動の一環であった「東京裁判」の判決に囚とらわれることなく、歴史の再検証と東京裁判の克服を堂々と世界に訴えていくべきなのである。そうすれば、いわゆる東京裁判史観を日本に強要したいと考えている中・韓両国などは猛然と反発するだろうが、その一方で本書で紹介したように世界の国際法学者や識者たちが、あるいは反東京裁判史観を奉じるインドを始めとするアジアの識者たちが、必ずや私たちの主張を断固支持・支援してくれるに違いない。

※終戦50周年国民委員会編、佐藤和男・青山学院大学名誉教授監修『世界がさばく東京裁判』「第6章」より転載。

なお、『世界がさばく東京裁判――85人の外国人識者が語る連合国批判』(定価1,600円+税、送料実費)は、日本会議でも取り扱っています。

[お問合せ先]
〒153-0042 東京都目黒区青葉台3-10-1-601
日本会議事業センター まで
メール= jc@nipponkaigi.org
FAX 03-5428-3724  TEL 03-5428-3723

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パ-ル判事: 東京裁判批判と絶対平和主義

2024年06月10日 16時02分35秒 | 社会・文化・政治・経済

中島 岳志 (著)

商品の説明

出版社からのコメント

 文庫本にして1400ページにもわたるレポートがある。
ある裁判に提出するため一人のインド人裁判官が東京で1948年に書き上げた文書だ。
 その裁判とは「極東国際軍事裁判」。いわゆる「東京裁判」だ。
ラーダービノード・パールは、11の国から派遣された裁判官のうち、唯一、この文書で被告人(A級戦犯)全員を無罪と宣した判事であった。
 「日本が無罪」ということではない。この裁判がいわゆる事後法に基づく
「遡及処分」=法律が未成立な状態での罪の裁定であり、近代法の原則を無視した戦勝国の一方的断罪の様相を呈するゆえに「法的に被告は無罪」ということなのだ。
 <戦いに勝てば、その戦争は防衛戦となり、正当化される。そして勝者は敗者を裁く権利をもつ>......これが慣習化されれば、どのような「侵略」戦争も「自国防衛」の名の下に正当化されることになるだろう。パールはその危惧
を、東京裁判を批判する意見書に託したのだ。
 パールは裁判の後も、日本を何度も訪ね、「世界連邦」の樹立と日本の再軍備反対・平和憲法の死守を訴え、発言した。「(原爆を)落とした者の手はまだ清められていない」「武装によって平和を守る、というような虚言に迷うな」
と......。
 
 
・パール判決、思想の再見
・その扱いへの懐疑
・東京裁判の見直し
・公正な史料検証と記述の困難
などの問題提起をしているようです。

パールへの批判的評価的視角をとらないという意味で著者の主観を抑止する一方で、パールの言説の選択に著者の意図が幾分反映しているのではないかという疑問もあります。
と言っても、対極で必死に頑張っている方がおられるようなので、バランスの問題ということにしておきましょう。
問題視されている9条護持、ガンジー主義≒9条は注目を集めるための戦略かと思える程、明らかに検証不足であり強引な解釈に見えます。
再軍備反対だけでは今ひとつインパクトに欠けるということでしょうか
 
 
 
昔、小林よしのり先生との論争で。
この本が。パール真論を買った時に、昔と違って読んでみようと思いました。
漫画からの孫引きだけで済ますと、本当の全体像が掴めないと思いました。
中島先生は、こっちも悪いところがあり、パール判事がそう思っていて当然だ。
だって我々は間違った戦争をしたんだから、という太い伝統的な線をもとに類推しており、国家主義者小林よしのりが怒るのは当然だと思いました。
で、あえてケンカを売り、売り上げに結びつけようとする。
商売人とはそうしたもので、それは文章を売る側にも当然必要で、それがなければ本を出さして貰えない。
ちなみに出版界に身を置くものはそうでなければ関われないので腐している訳ではありません。
(アタリマエです)で、小林よしのり先生の見解も、(都合のいいとこだけ抜き出している)概ね正しいと思いました。
しかしパール判事を取り巻く歴史的な整理はダイナミックにうまくいっていると思います。
この辺のパール判事の周辺は必読だと思います。
日本人は単に東京裁判で日本の立場に理解を示した判事とくらいしか知らないだろうし、戦争論で取り上げているのと別の角度から判事を分析しています。
完全に自虐史観ですが、大学の先生に接していて(自分は2005年くらいに)みんなだいたいそういう考えで、小林よしのり先生を敵視していた女の刑法の先生とかおりましたので、自虐史観でないと出世できない(今は知らない)と思うので仕方ないとも思います。
美味しんぼの、国を叩きのめし自分(山岡)だけが高みに実に楽しそうに軽く生きて幸せに。国家は最悪。という構図は自分が成功者なら心地よい歌だと思います。
(税金もいっぱいとられてムカつくし)しかし執拗に国家をかばうのも変なので、(少しは必要)パール真論だけでは少しバランスを損なうので、これも並べて読むと。小林先生の言いたいこともわかります。
きっちり真ん中、という部分もはっきり感じます、国は間違っているが左側のおかしい人とも思われたくないのでしょう。
 

パール判事が東京裁判に異を唱えたこと=大東亜共栄圏という大義をかざした戦争行為を正当化する ごときイメージを持っていた私としては大変勉強になった。『パールは、司法が政治に乗っ取られ、為政者の政治的意図に裁判が支配されることを厳しく非難する。
なぜならそれは「戦争に勝ちさえすれば、自分たちの思い通りに裁判を行うことができる」という誤ったメッセージを世界に敷衍し、その結果、「侵略戦争をしてはならない」という意識よりも「戦争に負けるとひどい目にあう」という意識だけを高めることになるからである。
…真に重要なことは、正式な法的手続きの遵守と「法の支配」の確立であると、パールは深く認識していた。』可能かどうかは別として正論と思わざるをえない。パールは東京裁判の罪刑法定主義からの逸脱を断罪した。
日本のアジア侵略を西洋諸国の植民地支配と同様に不当な行為と見做した上で…なるほどそいう意味なら納得できる。
 
 
 
前作「中村屋のボース」を読んで著者に興味をもち本書を手にとって見たが、説得力のある内容で一気に読みきった。
東京裁判の判決に関してほとんど知識のない私であるが、パール判決書が日本無罪論ではないこと、パールがガンジーの思想の影響を強く受けていることがよく分かった。
 
 
 
 戦後すぐの東京裁判で、唯ひとり「日本は無罪」と主張したインド選出のパール判事。その生い立ちから晩年までの半生を描いたドキュメント。貴重な歴史資料でもある。

 パール判事の下した決断はしばしば「日本無罪論」として右派論壇でも取り上げられ、実際そのような題名の書物さえある。

 しかし、この本の著者はそのような解釈に疑問を投げかける。
パール判事は「当時の法体系では日本に罪を問えない」としたまでのこと、というのが著者の解釈だ。

 私もそれは正しいと思う。なのに、都合のよい部分だけが日本無罪論=何も悪いことはしていない、みたいな形で取り上げられ、その風潮に一石を投じたかったというのが著者の執筆動機のようだ。
 

「パールは憲法九条をガンジー主義の宣言文と見ていた!」
と分析する著者の中島氏。

一方で「憲法九条とガンジー主義が全く違うことは知っている」
・・・・・そうも主張する、著者の中島氏。

つまりは「パール判事はガンジー主義への理解が不十分な人物であった」
「パール判事は憲法九条を誤解して、その護持を唱えてしまった」

中島氏の立場はこのどちらかになるはずです。
一体どちらなのでしょうか。

またパールの言葉をパッチワークして都合よく利用する人たちが居ると、仮想敵をしつらえた上で実は自分がパッチワークするという、高等テクニックも披露しています。

この本に溜飲を下げてもらったつもりの人たちは
是非、原物の史料に当たってその手法を目の当たりにしてみてください。
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欧米諸国 植民地支配 なぜ?

2024年06月10日 12時45分02秒 | その気になる言葉
ヨーロッパ諸国がアフリカや中南米、東南アジアを植民地とした理由は、原料供給地を確保したかったからです。
19世紀後半のヨーロッパでは、強大化した資本家(独占資本)が国家と結びついていました。
独占資本は、安価な原料調達先として植民地を確保するよう、国に対して働きかけます。
 

ヨーロッパ諸国による植民地支配

「植民地」とは、もともと「移民が住み着いあた土地」という意味でした。しかし、近代においては「他国から政治的支配を受ける地域」とされています。

まずは、ヨーロッパ諸国による新大陸への進出から始まった、植民地の歴史について見ていきましょう。

始まりはスペインとポルトガルの世界進出

植民地支配が始まったのは、16世紀にスペインとポルトガルが新大陸へ進出したことがきっかけです。当時、両国は「金銀財宝を増やすことで国を強くしよう」と考えていました。この政策を「重商主義」といいます。

国外進出にあたって両国は、現地の人々の意見は全く無視して、勝手に互いの進出範囲を決めてしまいました。1494年に、スペインとポルトガルの間で結ばれたこの約束事が「トルデシーリャス条約」といいます。

この条約にのっとって、スペインはアメリカ新大陸へ、ポルトガルはアフリカ・インド・東南アジアへと進出していったのです。

17世紀に入ると、一歩遅れて国外進出に乗り出したオランダ・イギリス・フランスが、植民地支配の列強国として台頭し始めました。この頃から、自国の植民地を広げようとする各国の争いが激化していったのです。

英国の植民地独占が産業革命に繫がる

オランダは1648年の宗主国スペインからの独立により、さらに強国となり、中継貿易で大きな利益を得るようになっていました。そのオランダを目の敵(かたき)にしていたのがイギリスです。

オランダの中継貿易を阻止して自国の利益を守るため、イギリスは1651年に「航海法」を制定します。これは、「植民地を含むイギリスの領土に輸入品を持ち込めるのは、イギリス船か、その商品の産出国の船に限る」と定めたものです。

航海法に反発したオランダとの戦争を制して、海上権を手にしたイギリスは、その後もフランス・スペインを相手取りつつ、植民地を拡大していきました。

豊富な原料供給地と市場を得たことこそ、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった「イギリス産業革命」の大きな要因となったのです。

世界四大文明とは、現代文明に大きな影響を与えた古代文明のことです。それぞれの文明が起こった位置・年代・特徴について、おさらいしましょ...

日本における植民地支配

植民地支配は、ヨーロッパの国々だけが行ったものではありません。日本にも、自国の利益のために他国を侵害した歴史があるのです。

台湾・朝鮮の植民地化

1800年代後半、まだ台湾や朝鮮は清(しん)の影響力が強く及び、鎖国していました。

そのため、経済進出したいと考えている日本に強く抵抗していたのです。

しかし、1894年に日本が日清(にっしん)戦争に勝利したことで、台湾は日本に譲渡され、以来50年にわたって日本の植民地となります。

一方の朝鮮は、日清戦争後に清の統治下から抜けて完全な独立国となり、ロシアとの仲を深めていきました。

ところが、1904年に日本が日露(にちろ)戦争に勝利したため、韓国は日本の保護下に置かれることとなります。

日清戦争では「浪速」の艦長として、日露戦争では連合艦隊司令長官として参戦した東郷平八郎の銅像がある三笠公園(神奈川県横須賀市)

 

その後、日本は韓国から内政権を奪い、1910年の「韓国併合」から35年間、韓国を日本の植民地としてきたのです。

植民地支配を強化した太平洋戦争

1941年、太平洋戦争が開始されると、日本による植民地支配はますます強くなっていきます。

朝鮮の人々を強制的に日本で働かせたり、戦争に駆り出したりし始めました。

今でもたびたびニュースで取り上げられる慰安婦問題も、この時代に起きたことです。

戦争により東南アジアに日本の植民地が増えると、各地で日本語の使用を強制し、民族の伝統的文化を禁じるなどの「皇民化政策」を取りました。

台湾・朝鮮では「創氏改名」を行い、氏名を日本風に変えさせたのです。いわゆる「植民地教育」のことです。

こうした植民地の支配は、1945年、第二次世界大戦で日本が敗戦するまで続きました。

 
 
植民地の独立
国際連合が1945年に創設されて以来、かつて植民地支配もしくは信託統治取り決めのもとにあった100カ国近くの国々が独立し、主権国家として国連に加盟した。
さらに、その他にも多くの地域が、他の独立国家との政治的連合もしくは統合によって自決を達成した。
国連は、従属人民の願望を鼓舞するとともに、彼らの独立達成を早めるための目標や基準を設定し、この歴史的変革に不可欠の役割を果たした。
国連の使節団はトーゴランド(1956年および1968年)、西サモア(1961年)、ナミビア(1989年)、東ティモール(2002年)で独立へと導く選挙の監視も行った。
非植民地化に向かって大きな進展が見られたものの、200万近くの人々がいまだに植民地支配のもとに生活している。国連は、残った非自治地域で自決を達成できるように支援を続けている

国連の非植民地化の努力は、「人民の同権および自決」を謳った国連憲章の原則および従属人民の利益を規定した憲章第11章、第12章、第13章の三つの章に由来する。1960年以降は、国連総会が採択した「植民地と人民に独立を付与する宣言(Declaration on the Granting of Independence to Colonial Countries and People)」もその指針としている。加盟国はこの宣言のもとに、植民地主義を早急に終わらせる必要があることを宣言した。

1960年の総会決議1541(XV)によって、非自治地域は以下の三つの選択肢のいずれかを選択し、完全自治を達成するといわれた:

  • 主権独立国家として誕生
  • 他の独立国家との自由な連合
  • 独立国家への統合

 

 

 

 

 

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「自信がない」という価値

2024年06月10日 12時25分45秒 | 社会・文化・政治・経済

トマス・チャモロ-プリミュージク (著), 桜田 直美 (翻訳)

「本当に優秀な人ほど自信がない」「根拠のない自信は害になる」「自信のなさは武器になる」――ロンドン大学教授が長年の人材研究から導いた驚きの法則。本国ベストセラーを新装改題。

【ハーバード・ビジネス・レビュー絶賛!】
仕事の成果/他人の評価/キャリア/コミュニケーションetc…
能力の低い人ほど自信過剰になり、
本当に優秀な人ほど自信がない。


本書は、ロンドン大学・コロンビア大学教授にして人材・組織分析の権威が
社会心理学研究に基づき、”自信のなさ”の美点とそれらを武器にする戦略を解説する。

・自信のある人はたいてい勘違いしている
・自信のなさはあなたを守る
・うつ状態は実力を高める絶好のチャンス
・成功している人は本当の自分を出さない
・他人が評価するのは、自信ではなくて謙虚な態度
・自分を知ることは、自分を信じることよりも大切だ
・チャンスをつかむ人がしている三つのこと
・ちょっとしたコツで人間関係の達人になれる etc.


「自分は平均より上だ」バイアスに騙されず、
正しい自己認識、真の才能と実力、謙虚な人格を保つために――
自信・自尊心重視の現代社会における必読の書!

第1章 自信と実力は違う
実力があるから自信もあるのだ
自分の投稿にも「いいね!」
自信はコカ・コーラだ
自信は実力につながらない
自信のある人はたいてい勘違いしている
無知は幸いならず
自信は現実から目をそらすための魔薬
「実力をつける→自信がつく」のが正しい道
うつ状態は実力を高める絶好のチャンス
根拠のない自信から本物の実力へ

第2章 自信のなさを利用する
不安は役に立つ
自信のなさはあなたを守る
自信がない人ほど努力する
他人から見れば、あなたはそんなにたいしたことはない
成功している人は本当の自分を出さない
ふりをすれば本物になる

第3章 「他人からの評価」ですべてが決まる
人格が運命なら、評判は宿命だ
他人が評価するのは、自信ではなくて謙虚な態度
誰もが心理学者だ
あなたよりあなたをよく知っているのは、周りの人
なぜ人の評判を気にしなければならないのか
自分を知ることは、自分を信じることよりも大切だ

第4章 キャリアと自信
成功する人はどこがすごいのか
出世にまつわる三つの噓
チャンスをつかむ人がしている三つのこと
仕事で自信を高める方法(本当は自信は必要ないけれど)

第5章 社交スキルの自信と実力
人間関係の達人になる
プレゼン戦略としての自信
社交スキルに自信を持つことの落とし穴
自信が低いほうが人から好かれる
社交スキルを向上させる三つの方法
社交スキルは幼児体験によって決まる
ちょっとしたコツで人間関係の達人になれる
まるで本を読むように人の心を読む
自己プレゼンテーション
他人に影響を与える

第6章 自信がない人は健康で長生き
健康はあなたの手の中にある
自信は不健康につながる
自信がないと健康になれる
自信がないと長生きできる
健康になって自信を手に入れる

第7章 言うは易く行うは難し?
必要なのは、ほんの少しの意志の力(と、自信のなさ)だけ
自信のなさを大切に
不安の特効薬は成功だ
本物の実力を手に入れる
謙虚な実力者が見ている世界

本書は『自信がない人は一流になれる』を改題の上、本国著者による書き下ろし「親愛なる読者のみなさんへ―日本語新装改訂版によせて」を追加し新装改訂したものです。


出版社より

「自信がない」という価値_POP1
「自信がない」という価値_POP2
「自信がない」という価値_POP3
 

商品の説明

著者について

トマス・チャモロ=プリミュージク著
社会心理学者。ロンドン大学教授、コロンビア大学教授。パーソナリティ分析、人材・組織分析、リーダーシップ開発の権威として知られる。J.P.モルガン、Yahoo、ユニリーバ、英国軍ほか組織コンサルタントとしても活躍。

桜田 直美(さくらだ・なおみ)訳
翻訳家。訳書に『アメリカの高校生が学んでいるお金の教科書』『ロングゲーム』他ベストセラー多数。

 

自らを過大に評価し、根拠のない自信の溺れていては、利己的で孤独な人生に陥るいかねない。
人生を充実させる<健全な自信>は、自身の欠点を含めて自らを謙虚に見つめ、成長しようと努力することで手に入る。
ゆえに「自信のなさ」は、真の成長への武器になる。
 
「自信がない」という価値。
自分自身を正しく見つめ、律すること。
それが、自らをより良い方向へ磨き高めるための出発点になる。

 


「マインドフル・ボディ ハーバード大学の人気教授が教える意識で身体を変える方法」の提唱する理論とは相反する面がある。どちらもある意味正しいと思うので、自分の中で双方を消化し、折り合いを付けたい。
また、「自信がない」とは、単なる自己嫌悪とは意味が異なることにも注意が必要。
 
「本当に優秀な人ほど自信がない」「根拠のない自信は害になる」「自信のなさは武器になる」これだけで読みたくなりますよね。
多様化とか個性とかオンリーワンとか言われる時代になりましたが、やはり人より優秀でいたいとかナンバーワンになりたいとか考えてしまうものだと思います。
人は考え方ひとつで気分が変わるものです。例えば、雨が降れば気分が落ち込む人も多いでしょうが雨が降って喜ぶ人も多いのです。
ベテラン俳優でも舞台に出る前はとても緊張しているなどの話も良く聞きます。
著者は社会心理学の権威とのこと、一度読んでおいて損はない本です。
 
 
内容をざっくり言ってしまえば「世間では、自信を持て!とよく言うけども、自信があることには弊害もあって、さらに自信がないことにはこんな有用性があるんだよ」というお話。

自信のなさの価値というのはなるほどと思う部分もあったし、確かに自信がありすぎるのも困る。

が、結局こういう本を読んで自己調整できる前提ならば、自信はないよりもある程度あった方がいいなと自分は思う。

自信のなさだけでなくて、どんな感情(怒りや悲しみなど)や性格(繊細とか)にも価値や使い道はあるわけだし、でも一方に偏ると危ないから結局はバランスかな、と。
 
 

マーケティング上の作戦だと思いますが、「自信がないという価値」に過大な価値を置きすぎています。
そこは割り引くとしても、本書から得られるところはかなりあります。
ひとつは等身大の自分を知って向き合うことの大切さで、もうひとつは謙虚であることです。

■ 等身大の自分を知って向き合う
本書の冒頭で、”人間はたいてい、自分を過大評価している” と著者は書いています。その証左として、
過半数を大きく上回る割合で、人は自分の運転技術を平均より上と思っているという事例が書かれて
います。
自動車をほとんど乗らなくなった今、私は自分の運転技術を平均以下だと考えていますが、若い頃は
たしかに”平均よりは” 上だと思っていました。このバイアスはビジネスの世界でも”あるある” です。
外資系企業をはじめとした進んだ人事制度を導入している企業や組織では、360度評価という制度を
使っています。これを素の自分で受けると、ほとんどの受検者は他者評価が自己評価よりも(かなり)
低いことに驚きます。私もそのギャップに愕然としてことがある者の一人です。コメントを読むと、
自分が高く見ていた業績はそこまで周囲からは認められておらず、逆に、これくらいの失敗や不振は
見過ごされるだろうと高をくくっていたことには厳しい目が向けられています。
人の成長を促す時に「GROWモデル」というフレームワークがよく使われますが、はじめにすべきこと
は、「R」で表されるReality(現状)を正しく認識することです。自分自身を客観的に評価することと、
現在地はどこだろうかと考えることが大切です。

■ 謙虚であること
等身大の自分を知って向き合うことと、謙虚であることには相関関係があります。本書では、”他人が
評価するのは、自信ではなくて謙虚な態度だ” と書かれています。最近のリーダーシップ論を見ていて
も、尊大なリーダーシップの礼賛は鳴りを潜め、謙虚なリーダーシップやサーバント・リーダーシップ
への支持が優勢になっています。職場を見ていても、常に自分は正しいと思っていて否を認めず、他者
の意見に耳を傾けないリーダーよりも、間違いを素直に認めて、他者の意見に勝るところがあれば躊躇
わずに取り入れることができる柔軟で謙虚なリーダーが好感を持たれていますし、尊敬されています。
最終決断に責任を引き受けることが出来なければなりませんが、これからのリーダー像を予見した場合
に、「女性性」を多く持つ人の方が、リーダーやマネジャーの適性があると言えます。

■ 自信を身に着ける
本書が言わんとしているのは、自信がないことを手放しで讃えるのではなく、自信過剰を戒めて、自信
のなさをエネルギーに換え、適切な自信を身に着けて、自信のバランスを取ることの重要性です。

興味深かったのは、成功を、”準備”と”パフォーマンス”の2つのパートに分け、準備段階では「自信の
なさ」、実行段階では「自信」を持つことがポイントであると述べていることです。プロ野球界で
名将と謳われた故・野村克也監督は、この絶妙なバランスを取ることに長けていました。

自信のなさの良いところが前半では強調されていますが、後半ではどうやって「本当の」自信を身に
着けることができるかに多くのページが費やされています。
結論を言うと、本物の実力をつけるしかなく、その効果的な方法は成功することだと書いています。
これは、アルバート・バンデューラが言うところの「自己効力感」です。根拠のある自信を持つこと
です。
そのためには、いきなり大きな成功体験を得ようとするのではなく、小さな成功体験を積み重ねる
ことです。さらにそのためには、小さな第一歩を踏み出すことが求められます。
「自信がない」を言い訳に留めず、自分には足りないところがある、伸びしろがあると前を向き、
ネガティブをポジティブに転換することの大切さを教えてくれる本です。
 
 
何の自信もない自分にも、もしかしたら少しの価値があるかもしれないと思い読み進めて行った。しかし、自堕落な自分の慰めになる内容ではなかった(笑)。
向上心のある社会人やフレッシャーズに読んで欲しい1冊だ。難しい内容ではないのでサクサク読める。自分をプロデュースするにも見つめ直すのにも良い。

他人からの評価は基本的に気にしない自分だが、過ぎてはそれがどんなに愚かな事かを知ることができた。ただ単に人の目も気にした方が良いという話ではない。
自分の行動のせいで、とんちんかんな自分像が周りで作りあげられているかもしれませんよ。
それでは損を被る…自分や自分に近しい人にとってマイナスだ。運気も下がって良い事なさそうなので改善したいと思った。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
 
 
自信がないのを活かす考え方が学べそうですが、
本当に精神疾患のある人間の役に立つのかが怪しいです。
「自身があるから太る」など同意できない箇所もありますが、
「自信がない」から抜け出すのを重視してる印象です。

漫画本サイズで持ち運びは楽です。
文字サイズが一般的です。
翻訳された本なので、価値観の違いは感じました。

現代社会で結果を出しやすい考え方はあると思いますが、
そうじゃなくても、楽しく生きられると思います。
悲観的になりすぎないのが大事ではないでしょうか。
 
 

自分は、どちらかと言うと、自己肯定感が低いほうです。
少しでも変えようと思い読み始めました。
他の本でも見る、外見主義的な内容のお話も書いてあります。
努力じゃどうにもならないこともやはりありますよね…。
自信とはなにか…どこから自信が来るのか…。
成功している人の考え方・過大評価や過小評価の心理・抑うつリアリズム・適度な悲観主義の話など、
心理学の視点からでも読みやすい内容で書かれています。
個人的には、こうしたほうがいいとか強く書いてある本が苦手なので、
そういった押しつけがなくてサクサク読めました。
社会で役に立つ、社交スキルも書いてあるので学生のうちに読んでいても良いですね。
自分のような適度な悲観的主義も、ダメだしとかではなく肯定してくれます。
「自信のなさを大切にする」読み終える頃には、少し気分が楽になりました。
ですが、自己開発はほどほどに行わないと、
自分自身に対して過度な期待をして、悪循環になるというということは避けたいです。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
 
 

自信がないというか、リスク管理が出来るかどうかじゃないかな。
自信がない人よりは、自信がある人の方が魅力に感じるのは明白。

 

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自己愛過剰の社会

2024年06月10日 12時01分13秒 | 社会・文化・政治・経済

自信の低さで悩むのは、むしろ過剰な自信がもてはやされているから―これを「自己愛過剰の社会」と評する。

自己愛過剰社会 

 

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ありのままでいいのである

2024年06月10日 11時06分05秒 | その気になる言葉

▼最高に偉大な人とは、自らの信念を、生涯貫き通す人である。

▼「最後は勝つ!」と決め、信念で挑めば、自らの最高の可能性と最善の未来が開けることは、絶対に間違いない。

▼人類の未来を開く智慧が期待されている。

戦争や暴力、差別や環境といった、世界が直面する課題も突き詰めれば、人間自身、そして生命の問題に帰着する。

<生命尊厳>が根本でさる。

そこに光を当て、真の平和と共生の文明を創造していく英知が不可欠なのでる。

▼自分の心に「哲学の柱」をつくる。

心に「柱」のある人は、揺れ動く変化のなかでも揺るがない。

▼不幸を癒す薬は希望より他にない―シェークスピア

▼外国人の受け入れは若い世代ほど肯定的―共生社会へ開かれた心で受け入れたい。

▼何も悩む必要はない。

ありのままでいいのである。

▼どのような現実も、自分自身の器で決まるのである。

目に映る景色も心次第で彩りが増す。

▼どんな人にも無限の可能性がある。

▼人生の途上には、さまざまな苦難がある。

行き詰まりもある。

その時は、勇気で挑むのである。

▼自分が悩んだ分だけ人を励ますこともできる。

▼何があろうと、自らの信念を貫くことだ。

 

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映画 白鳥

2024年06月10日 06時25分07秒 | 社会・文化・政治・経済

6月9日午前6時からCSテレビの映画・チャンネルNECOで観た。

「沈丁花」の松山善三が自身の原作を脚色し、「絶唱(1975)」の西河克己が監督した純愛もの。

撮影はコンビの高村倉太郎。

ストーリー

麗子は大学を卒業したら昭一と結婚することに決まっていたが、叔父の古本屋で洋書を万引きした近藤を知ってから、その決心も動揺し始めた。

近藤は運送会社に働く貧しい青年で、しかも、不治の病いに床に就いている妹千津を抱えている。

医者の話では千津の命はあと半年と言われて近藤は、人殺しでも、強盗でも、千津が助かるなら何でもやる、と麗子に語る。

今まで苦労なしに育った彼女は、この兄妹を知ってから変った。

昭一はそんな麗子が心変りしたのではないかとなじったが、麗子は黙っていた。

そして、昭一は麗子に愛の証しを求めたが、近藤に惹かれつつある麗子は拒んだ。

二人の男を愛する女、麗子は万葉集の中に自分と同じ愛の苦悩から自殺した女の歌を知って、考え込んだ。

そして、父の孝一郎に昭一との婚約を取り消して欲しいと言う。

だが孝一郎はそれはふしだらな女のすることだと怒り、その上、麗子は実は、死んだ母が叔父との間に生れた子供であることを口にしてしまった。麗子は茫然とした。

自分は祝福されて誕生した人間ではなかったのだ、不義密通によって生れたのだ、彼女は絶望した。

家を飛び出した麗子は、その足で叔父研二のいる「古径堂」へ行った。

そして、研二に向うと、何故、母を愛していたのに結婚しなかったのか、と責めた。

研二は無言だった。麗子は「古径堂」を出ると、夜の闇を歩いた。

研二が実の父であるというショックと、何故二人の男を愛することが出来ないのかという思いが、麗子の心を乱した。

死んだ方がいいのだ、万葉集の中の女のように……そんな考えが、浮んできた。

気がつくと、昭一の家の前だった。昭一の部屋に入ると、麗子は彼の前に身を投げ出して言った。

「あげるわ……何もかも……」翌朝、麗子はある決意を秘めて近藤の家へ行った。

その日千津が死んだと言う近藤と、ささやかな祭壇の前で、麗子は涙にくれた。

そして、二人の間に燃え上った愛の火が二人を包んだ。

麗子はたくましい近藤の胸に飛び込んでいった……。

そしてあくる朝の未明の海、月光に美しく輝くその中に、麗子は静かに入っていった。

キャスト
 
清水将夫

小林孝一郎

新井麗子

孝一郎の妻

吉永小百合

小林麗子

夏川静江

下元勉

小林研二

関口宏

小宮山昭一

渡哲也

近藤淳

二木てるみ

近藤千津

久遠利三

本屋の客

榎木兵衛

朝鮮人

村上和也

丸菱通運職員

奥野信太郎

大学の教授

スタッフ

監督

西河克己

原作、脚色

松山善三

撮影

高村倉太郎

音楽
林一

 

 

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