現代へのまなざし

日本とはなにかを探求します。

皇室批判と犯罪者

2019-05-03 07:39:35 | 政治
 「東京 文京区の中学校で秋篠宮ご夫妻の長男の悠仁さまの机に刃物が置かれていた事件で、逮捕された男が皇室を批判する趣旨の供述をしていることが捜査関係者への取材でわかりました。」(NHK Web News 2019年5月2日 12時02分)

 皇室への批判と犯罪者を関連づけることで、皇室や天皇制を批判する人=犯罪者という印象を強く植え付けるような捜査関係者の話であり、それを記事にしたマスコミの行為でもある。当然、今回の事件が卑劣極まりないものであることは言うまでも無い。しかし、皇室を批判という報道が必要なのだろうか。皇室を敬愛する人間が皇族に関係する罪を犯すだろうか。わざわざ報道する理由がよくわからないが、天皇制に関する議論を巻き起こしたいという意図だったのかもしれない。

 そもそも、明治維新後に成立した天皇制は、家族制度、日本の家父長制をその根幹に置き、村落共同体の秩序が国家支配の原理になったことから、道徳がその支配上最も重視される一方で、大日本帝国憲法は無内容な形式的手段となり、中央集権的地方自治や教育勅語が民衆を支配する内容となったものである。

 現在の日本国憲法では、天皇は象徴であり、天皇の地位は主権者である国民の総意に基づき、天皇は国事行為を内閣の助言と承認に基づいて行うのみである。
 そして、憲法第2条(皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。)により皇位は世襲とされている。

 一方で、憲法第14条では「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とし、第2項では「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と貴族制度を否定しているのである。
 すべての国民は社会的身分や門地によって差別されないが、例外扱いされる天皇について違和感を抱き、その制度を批判するのは学問的には当然のことである。民主主義社会の中で、唯一、天皇及び皇族のみが政治的、経済的、社会的関係において差別されるのである。それを特権と考えるか自由の剥奪と捉えるのかは人それぞれであろうが、民主主義社会での天皇の存在についてもっと議論があってもいいだろう。天皇ではなく、選挙で選ばれた大統領であれば、民主主義に関連して特段の違和感はない。
 また、国民から除外され、特例扱いされる側の天皇の気持ちを考えたことがあるだろうか。今回、平成天皇は国事行為や公務の負担などから天皇の地位から退いたが、本人の意思と関係なく天皇に即位させ、あるいは死ぬまで天皇として国事行為をさせるというのは奴隷的な存在にも近づく。この天皇制について、肯定あるいは否定することは、言論の自由であり、その自由を制限するような報道は慎むべきであろう。

 さて、戦前の天皇制は、日本の家父長制度をその根幹に置き、村落共同体の秩序が国家支配の原理となったことから、道徳がその支配上最も重視されることとなった。
 第二次大戦での敗戦を受け、日本国憲法が制定されたが、民衆の考え方は簡単に変わるわけではない。1946年(昭和21年)に公布されたが、当時の庶民の知的レベルではその内容はほとんど理解できていないだろう。子供のことから封建的な家族制度である家父長制を叩き込まれ、村落共同体秩序と教育勅語を叩き込まれた人達の基本的な考え方は簡単には変わらない。
 さらに、彼等の子供も、学校においては戦後民主主義について学ぶものの、自宅、集落では依然として家父長制度や村落共同体の秩序、教育勅語的な道徳が教え込まれ続け、人々の間には戦前の天皇制国家の支配原理が生き続けているのである。

 現在の日本社会でも長男への期待と優遇、兄弟間の差別、男尊女卑的な考え方、儒教倫理的道徳の強要といったことは、しばしば見られることである。さすがに、公的場面では、日本国憲法やその考え方に基づく各種法律が支配する場所であるため、戦前の天皇制国家の支配原理を見ることはないが、公的場面を除外すれば、過去の支配原理と同じ考え方が顔をだしてくるのである。
 日本会議などのような右翼団体は、家父長制や教育勅語の復活を主張するように、戦前の天皇制を復活させようとする。その日本会議と大きな繋がりのある自民党が憲法改正を行った場合、どのようになるかということは想像に難くない。

 今回の、様々なことを考えされた犯罪報道であった。
コメント
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