tontonjyoのブログ

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政治思想・・・自由民主福祉主義

2011-01-13 01:48:07 | 日記




はぁ・・・。まぁ、それとこれとは違うよ。問題はさ。未来のことは現在までの事象から推測して語るしかないってこと、つまり思弁が優先されるってことさ。現在までの事象に当事者性を求めることはできても未来のことを語るにおいて当事者性を求めるのは難しいよね。まぁ、言っておきますけど、俺は物事を超単純化して叱られることが多いんですよ。まぁ、そう言うことです。



自由民主主義+福祉主義と言った柔軟な体制を採用する日本において「〇〇主義。」と言う思想上の立場で対立することなんて「学説の優位性を思い知らせたい。」以上の意味はないと思うんだよなぁ。思想的対立が議論の前提なることで無用な争いを作り出しているように感じる。

日本が柔軟な体制を採用する以上、《自由主義》や《共同体主義》、まぁ、《社会主義》だって、そうだよね。其々の立場での修正が可能だってことでしょう。つまり内的改革者となれば良いだけの話さ。



例えばアメリカでは「オバマは社会主義。」とか政権批判が巻き起こる。でも実質的にオバマ大統領がやろうとしているのは【社会主義】ではなく、『積極的自由』の範疇に過ぎないと俺は思うんだけどね。まぁ、つまるところ、どう見てもオバマ大統領はニューリベラル・社会自由主義から脱しない。批判者はネガティブキャンペーン・批判のための批判を展開しているんでしょうね。

自由主義内では『消極的自由』「国家の不干渉・国民の厳密な国家からの自由が至上。」とする派と『積極的自由』「消極的自由を至上とすることで起こり得る社会的不公正を国家の干渉により是正することで、構成員の自己意志実現を、より普遍に近い形で保証するべき。」とする派に別れているけどさ。

如何に古典的自由主義でも自力救済は否定しているでしょう。自己防衛と自力救済は違うからね。古典的自由主義でも基本的に国家の干渉を完全に否定している訳ではないのさ。つまり自由主義における内的議論とは実質的に政府の国民に対する干渉のバランスがテーゼな訳さ。

《積極的自由》を突き詰めれば「やる気があるなら、自己の意志実現を否定してはならない。」なんてなるのかもしれないけど、これじゃぁ、原理主義的。限度がある訳で、どこに基準を設けるかだよね。少なくとも努力を前提とする人の自己の意志実現を法律として制度的に保証するくらいは良いじゃない。

じゃぁ、努力を前提にだよ。例えば「金がなければ選択肢が狭まる。」なんてことでは「社会的に万民の自由を保証している。」とは言えない。金がなくとも努力によって生理的欲求は言うまでもないけど所属や承認や自己実現を達成できる程度の社会でなければ万民に自由が保証されているとは言えないよね。これ日本人的感覚でしょう。



まぁ、『消極的自由』と『積極的自由』は其々自由観の違いによって「国家の国民への干渉。」と言う外的原理の是非を説いているのだろうけど、『共同体主義』は国民の内的原理による社会の良好な運営について説いているんでしょうね。自由選択ではなく、より拘束力の強い義務としての側面。社会問題が、そこに存在するから提起される訳だ。

例えば『自由主義』を標榜するとしてだよ。人間が良好に暮らすには何が必要かってことだ。高度に近代化して選択肢の多伎が実現したとしても社会から個人を切り離すことでは良好な暮らしをもたらさないんじゃない。

社会とは人の集まりである以上、主体と客体が存在している。その中でだよ。個人的選択を至上価値として主体が客体の権利を否定することまでも是とし始めたらどうなる訳。つまり客体が主体の権利を保障しなくなると言うことさ。自らの権利のみを極端に優先させれば生きているだけで何かとトラブルが起きるはずだよね。そんな社会で良好に暮らせる訳ない。

『自由主義』は《利己主義・自我主義》を否定して客体に対する尊重がすなわち主体への尊重とならないかぎり良好には機能しないよね。個人の選択・意志実現が至上価値とされるあまりに社会を構成する個々が、客体への尊重を否定して利己に走ることまでもが是となれば、構成員個々の内的原理として強者が弱者の権利を侵害することへ歯止めが無くなり過度な社会的不公正に行き着くじゃない。

《自由主義》に立脚するのでも、社会に属すると言う前提において営みに良好さを求めるなら、その構成員の選択は自ずと限定的にならざるを得ないでしょう。全く人と接触がない山の中にでも引っ越して物理的に社会に属さなければ話は違うんだろうけどね。そんな極端な話は意味がない。

公正を不公正足らしめるのは他者の権利を侵害して尚、自らの権利を優先し得る社会的強者ですよね。不公正な社会の中では、強者が感じる自らの良好さは、弱者の権利が制限されることで成り立っているなんてことにもなりかねない。

「それで良いのか。」と問われれば「良い。」と答えるのは盲目的強者だけでしょう。盲目的強者が利己主義を是とした時にどうなるかくらい誰にでも解る。だから、その他大勢は抑止し得る内的判断基準を社会に確立しなければならない訳さ。



まぁ、最近何かと話題の共同体主義。でもさ。自由主義に問題があるように共同体主義にも問題があるじゃん。その問題点とは、其々の根源的意味合いにおいて原理主義的に振舞えば自由主義なら個人的利己主義になり、共同体主義なら集団的利己主義になるってことでしょう。問題があるとして、それを阻むためには何が必要か。

「自由主義は利己主義・自我主義を肯定したものではない。」「共同体主義は全体主義とは違う。」と主張されても、実際、社会に当て嵌まった時に人は欲望を前提に行き過ぎた解釈をする場合があるよね。更に、自らに有利な解釈を社会に当て嵌めて尚、自らの権利を確保できる存在とは、これも社会的強者に属するものでしょう。

問題を解決するベクトルは『自由主義』も『共同体主義』も同じですよね。《個人的正当性》、また《集団的正当性》における至上価値を個人的選択や集団的義務のような内部完結するものに求めては駄目なんだ。

「内部完結するものでは個々の欲望に忠実な判断をしがちになる。」これって人間である以上は仕方ない側面がありますよ。従って判断基準には外的影響が必要な訳じゃないですか。

「じゃぁ、外的影響って何よ。」てことになるとけど、それって、より普遍妥当性に近い正当性に価値を求めることじゃないの。そうであるなら「問題を解決する鍵は、より普遍妥当性に近い正当性を見出し、それを判断基準として社会に当て嵌める作業。」だってことになりませんか。


あれでしょう。《社会主義》を標榜するにしても、全く修正なく共産主義を当て嵌めることはできないと思っているんでしょう。つまり資本主義・自由競争を否定することができないんですよね。

超単純化してだけどさ。資本主義を前提にするとしても、経営者足る資質がなければ経営者にはなれない。労働者の中で経営的資質があるものは自ずと経営者になる。つまり純然たる労働者は経営的資質がないと言うことじゃないですか。そうである以上、純然たる労働者が生産手段の集団的経営者になっても経営として上手くは行かないですよね。

社会主義とは純然たる労働者に公正をもたらそうと言うのでしょう。革命とは、根本変更のことですよ。労働者における革命とは労働者が集団的に生産手段を経営をするのではなくて、社会と労働者、また社会と経営者の関わりにおいて新たな方向性を見出すことなんじゃないですか。

現在、労働者と経営者は主に企業を介した関係性でしょう。自由競争を前提にして企業的関係性が優先されるが故に問題が起きる訳ですよね。ここに公正を旨に社会的責任を挟んだらどうですか。

実際、労働者と経営者、他方が欠けても生産は成り立たない。つまり相互依存性がある。問題はバランスで、概念的には「労働者と経営者、互いは社会を介して生産手段を共有していて、その前提において共に社会的責任を果たすからこそ社会は良好に運営される。」ってことになっているでしょう。

生産と言うファクターにおいて社会の良好な運営を見るなら、労働者から見ると個々が企業に対して社会的責任を果たすこと、また、経営的立場で社会を良好に機能させるには企業が社会に対して社会的責任を果たすことですよね。後は互いの社会的責任とは何かを明らかにすれば言いだけの話じゃないですか。んで見出される答えとは結局、より普遍妥当性に近い正当性になる訳でしょう。



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