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政治思想・・・内的改革と外的対立

2011-01-08 01:07:03 | 日記


おもしれぇ、ネタもらっちゃた。でも、俺は低学歴だから〇〇学の解釈は、まぁ、間違っている可能性が高いだろうね。それは先に断っておきます。何となく雰囲気でお願いね。




ん・・・。個人が他の自由を侵さない限り、最大限の自由を認めるべきって、つまり『自由主義』だよね。んでさ。それを至上の価値と見なしてしまうと【行き過ぎた個人主義】なんて言う状態になる場合があるようです。つまり【利己主義・自我主義】になるってことでしょう。

【行き過ぎた個人主義】なんて、本来、良好な営みを送るために必要不可欠であるはずの社会的な関係から個人を切り離してしまう訳じゃない。自分勝手に振舞って他の自由までも侵しがちになる。法律の及ばないところは特にね。

何でかって言えば、【個人的判断】が至上の価値となれば、構成員の内的原理的によって社会全体に良好さをもたらすような善悪の判断基準までも個人の判断に委ねるべきと言った状態になりがちになるじゃない。「自分が正しいと思えば他の権利は否定して当然。」的な風潮は現代日本に少なからずあるでしょう。

本来、《個人主義》なんて自らの人格と同様に他者の人格も尊重することが前提な訳で、客体の尊重が、つまりは主体の尊重になると言ったことが社会に徹底してこそ良好に機能するものじゃないですか。

でも、多くの人間は欲望に勝てない。故に、より普遍妥当性に近い善悪の基準から外れた判断を是としがちになる。《若気の至り。》とか言って肯定したりするけど、そこに迷惑のような他の権利を侵す行為が存在しても「自分が正しいと思えば、それで良いじゃん。」みたいなことを公の善と錯覚しがちになるでしょ。そうなってしまうと社会的問題に発展する訳じゃないですか。

「昔はこんなことはなかった。」なんて言うのは、本来の意味での【個人主義】と【利己主義・自我主義】を錯誤している人が多くなったと言うことなのかもね。まぁ、生理的欲求は仕方ないにしても「欲望に勝てるのか。」なんて言うのは人類の至上命題でしょう。




話は替わるけど、ほら、例えば、日本における【社会主義者】の主張って、実質的に【社会自由主義】の範疇から出ていないよね。自由主義・民主主義の中にあるのだから当たり前と言えば当たり前だけどさ。

言っていることは、「ある程度の制限が必要だ。」としながらも基本的に資本主義の原則である『自由競争』を否定している訳ではないじゃない。また生産手段の社会的所有や管理を強く主張している訳でもない。そうである以上、主張の根本は実質的に古典的自由主義の修正でしかない訳でしょう。

主張の内容を見ると基本的に資本主義を前提としながらも、「社会的な公正が必要だ。」と言う考えが中心になっていて、そこから、例えば「貧富における格差社会の解消。」を訴えたり。

また「富の再分配によって公正をなすべき。」としたり、「偏見や差別は解消するべき。」と訴えたり、「保護する責任。」など新たな価値基準の構築に挑んだり。まぁ、そう言った趣旨について『制度的保障を重視しよう。』って立場に帰結している。

後は『亜種』に属するようなもので、例えば『法律による公的な制度的保証。』ではなく、「『企業などが自発的に社会的責任を果たす。』と言ったファクターによって、個人の社会的自由と人権を積極的に擁護する。」と言った【内的原理】を主張をする人もいる。でもこれって厳密に【社会主義】とは言えない訳でしょう。定義するならやっぱり【社会自由主義】。



実質と乖離してまでも自らの立場に拘ると言うのは結局、自らの主義主張の地位向上が目的なのかもしれないけど、でも、本来は我々の生活において、主義主張の区別なんてどうでも良い訳さ。重要なのは、それを社会に当て嵌めた時に妥当性がどの程度に認められるか。

個々の相互的な関係性において相手の自由を保障することも社会的保証の一因子であるなら、問題は立法・司法・行政も含めて社会、そのものが構成する【保証】が、如何に妥当であるかが問われる訳じゃない。

だから基本的に、例えば【自由主義・資本主義】を否定するものでないのなら、自ら【社会主義者】として対立的な立場において論じるのではなく、『自由主義・資本主義』における内的改革者として位置付けるのでも、その作業において実質的な壁を作るものではないでしょう。

まぁ、内的改革者とすることの利点を問うならさ。如何なる思想・体制においても少なからず問題はありますよね。その問題に対して内的改革者として【修正】を前提とするなら、現在進行として社会に当て嵌まる体制である以上、其々独立した存在として外的対立者として挑むよりも、より多くの支持を得る可能性があるじゃない。



ん・・・まぁ。これってさ。自由主義と共同体主義との議論を見ていても思うんだ。共同体主義なんて、自由主義を根本的に否定しているのではないでしょう。そうである以上、共同体主義とは自由主義における問題点に対する提起であって、つまりは内的改革者だと思うんだよ。

其々独立した存在として対立的構造で論じられるから、賛否に別れる形になる。つまり【言い負かす。】と言ったような雰囲気ができあがる訳じゃない。でも実際は共通する問題をテーマにして論じているのであって、そうである以上、統合を前提として論じられるべき存在だと思う訳さね。



まぁ。「国家として、どこに向かうか。」と言ったことを論じるなら、当然、主義主張を明確にして根本論を明かにする必要がある訳だから、対立的構造ができあがるのは当たり前なのかもしれないけどね。

 


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