今日から4月ですが、沖縄県民にとっては忘れることの出来ない日です。
今から64年前の今日は、沖縄住民にとって、忘れられない日と成ってしまいました。
いや、沖縄県民だけではなく、日本国民にとっても忘れられない日であろう。
米軍が沖縄本島に無血上陸をした日である。
今から64年前の早朝、1945年4月1日 読谷嘉手納の海岸から米軍が上陸した。
4月1日早朝から米軍機は北飛行場(現在の読谷村役所一帯)、中飛行場(現在の嘉手納飛行場)方面に対地攻撃を加えた。
総攻撃の時刻は08:30とされた。
それよりも先の05:30米機動艦隊は艦砲射撃を開始。
07:00頃から熾烈な艦砲射撃を開始した。
07:45航空攻撃も開始。
08:00上陸用舟艇が上陸作戦のため移動開始、第7波までが上陸地点の陸地を目指した。
同時に上陸準備射撃が上陸目標地点に開始された。
08:30攻撃第1波が達着。
08:30頃から米軍の上陸用舟艇が読谷、嘉手納海岸に達着して上陸を開始した。
米軍の沖縄上陸は、全部隊が全く信じられないほど簡単に行われた。
日本軍はおろか、地雷原もなく、反撃どころか抵抗もない無血上陸した。
北飛行場(現在の読谷村役所一帯)、中飛行場(現在の嘉手納飛行場)は11:30までに米軍が占領確保した。
上陸地点正面には、日本軍の特設第1連隊と独立歩兵第12大隊第2中隊が配備されているだけで、第32軍としてはこれらの部隊に大きな抵抗は望んでおら無かった。
警戒と前進遅滞を期待した程度であり、北飛行場、中飛行場付近の戦闘には増援はもとより砲兵による支援も計画していなかった。
日本の特設第1連隊は、
4月1日、米軍の上陸を迎えたが、砲兵もなく、夜間を待って斬り込みを実施する以外に打つ手がない状態であった。
米軍の上陸と同時に各部隊は特設第1連隊長の指揮下に入る計画であったが連隊長が確実に掌握したのは、独立歩兵第12大隊第2中隊と要建第6中隊のみであった。
要建第6中隊は石嶺久得(現在の那覇市)に陣地配備され、現地死守の決意で陣地強化に努めると共に、夜に入り戦車攻撃のため数組の肉薄攻撃班(爆弾を抱え戦車に大当りして自爆)を派遣した。
独立歩兵第12大隊第2中隊の位置
中隊主力 石嶺久得(現在の那覇市)
第1小隊 座喜味西方海岸(読谷村)
第2小隊 座喜味東方高地(読谷村)
一方米軍は4月1日午前8時36分,第24陸軍と第3海兵隊を主力(このほかH・ロウリングス中将の率いる英国太平洋艦隊が,米第5艦隊に所属して参戦)とする米太平洋艦隊司令官兼太平洋方面部隊指揮官チェスタール・W・ニミッツ大将配下の,サイモン・B・バックナー中将の率いる将兵18万2,000人を擁した第10軍が沖縄本島中部西海岸(読谷・嘉手納・北谷)に上陸作戦を敢行。
迎え撃つ日本の沖縄守備軍・第32軍は,第24師団(山部隊),第62師団(石部隊),独立混成第44旅団(球部隊)のほか,いくつかの砲兵部隊を主力とする陸軍8万7,000人・海軍1万人,それに沖縄県民義勇隊2万2,000人(米軍の約4分の1)に過ぎなかった。
日本軍が水際作戦を放棄したことと,米第2海兵師団が南部から上陸しようとみせかける陽動作戦に,日本軍が完全にはまり中部戦線が手薄になって,わずか1時間内で1万6,000人の兵士は無血上陸に成功した。
米軍はまさに「ピクニック気分」で上陸作戦を完了できたのである。
しかしその後の戦闘は雨季とかさなり,悲惨を極めることとなる。
そしてそれ以後3カ月間にわたり,熾烈な戦いが展開された。
米軍の沖縄(当時の沖縄の人口は約45万人弱)本島上陸の目的は,日本の一部を占領するといった事実を日本帝国に突きつけるという決定的な意義とともに,沖縄を基地化することにより米軍が完全に南西諸島の制海権と制空権を確保し,日本本土の攻略に備えるという戦略的な意義があった。
やすやすと米軍の上陸を許した戦力的に劣勢の日本軍は,持久戦に備え,守備軍司令部のある首里を防衛するため,主力部隊を首里近郊の地下陣地などに集結させるため,読谷の北飛行場,嘉手納の中飛行場を放棄せざるを得なかった。
その結果米軍は,上陸日の午前中には両飛行場を占領するともに,東海岸沿い進撃し,4月3日には沖縄本島を南北に分断することに成功する。
南北に分断したあと,北部に向かった米軍は,4月13日には北端の辺戸まで進撃,17日までに北部地区守備隊として配置されていた国頭支隊の本拠地八重岳を制圧し,20日ごろには本島の北部全域を占領した。
機会があればその後の戦闘関連を掲載したいと思います。
今から64年前の今日は、沖縄住民にとって、忘れられない日と成ってしまいました。
いや、沖縄県民だけではなく、日本国民にとっても忘れられない日であろう。
米軍が沖縄本島に無血上陸をした日である。
今から64年前の早朝、1945年4月1日 読谷嘉手納の海岸から米軍が上陸した。
4月1日早朝から米軍機は北飛行場(現在の読谷村役所一帯)、中飛行場(現在の嘉手納飛行場)方面に対地攻撃を加えた。
総攻撃の時刻は08:30とされた。
それよりも先の05:30米機動艦隊は艦砲射撃を開始。
07:00頃から熾烈な艦砲射撃を開始した。
07:45航空攻撃も開始。
08:00上陸用舟艇が上陸作戦のため移動開始、第7波までが上陸地点の陸地を目指した。
同時に上陸準備射撃が上陸目標地点に開始された。
08:30攻撃第1波が達着。
08:30頃から米軍の上陸用舟艇が読谷、嘉手納海岸に達着して上陸を開始した。
米軍の沖縄上陸は、全部隊が全く信じられないほど簡単に行われた。
日本軍はおろか、地雷原もなく、反撃どころか抵抗もない無血上陸した。
北飛行場(現在の読谷村役所一帯)、中飛行場(現在の嘉手納飛行場)は11:30までに米軍が占領確保した。
上陸地点正面には、日本軍の特設第1連隊と独立歩兵第12大隊第2中隊が配備されているだけで、第32軍としてはこれらの部隊に大きな抵抗は望んでおら無かった。
警戒と前進遅滞を期待した程度であり、北飛行場、中飛行場付近の戦闘には増援はもとより砲兵による支援も計画していなかった。
日本の特設第1連隊は、
4月1日、米軍の上陸を迎えたが、砲兵もなく、夜間を待って斬り込みを実施する以外に打つ手がない状態であった。
米軍の上陸と同時に各部隊は特設第1連隊長の指揮下に入る計画であったが連隊長が確実に掌握したのは、独立歩兵第12大隊第2中隊と要建第6中隊のみであった。
要建第6中隊は石嶺久得(現在の那覇市)に陣地配備され、現地死守の決意で陣地強化に努めると共に、夜に入り戦車攻撃のため数組の肉薄攻撃班(爆弾を抱え戦車に大当りして自爆)を派遣した。
独立歩兵第12大隊第2中隊の位置
中隊主力 石嶺久得(現在の那覇市)
第1小隊 座喜味西方海岸(読谷村)
第2小隊 座喜味東方高地(読谷村)
一方米軍は4月1日午前8時36分,第24陸軍と第3海兵隊を主力(このほかH・ロウリングス中将の率いる英国太平洋艦隊が,米第5艦隊に所属して参戦)とする米太平洋艦隊司令官兼太平洋方面部隊指揮官チェスタール・W・ニミッツ大将配下の,サイモン・B・バックナー中将の率いる将兵18万2,000人を擁した第10軍が沖縄本島中部西海岸(読谷・嘉手納・北谷)に上陸作戦を敢行。
迎え撃つ日本の沖縄守備軍・第32軍は,第24師団(山部隊),第62師団(石部隊),独立混成第44旅団(球部隊)のほか,いくつかの砲兵部隊を主力とする陸軍8万7,000人・海軍1万人,それに沖縄県民義勇隊2万2,000人(米軍の約4分の1)に過ぎなかった。
日本軍が水際作戦を放棄したことと,米第2海兵師団が南部から上陸しようとみせかける陽動作戦に,日本軍が完全にはまり中部戦線が手薄になって,わずか1時間内で1万6,000人の兵士は無血上陸に成功した。
米軍はまさに「ピクニック気分」で上陸作戦を完了できたのである。
しかしその後の戦闘は雨季とかさなり,悲惨を極めることとなる。
そしてそれ以後3カ月間にわたり,熾烈な戦いが展開された。
米軍の沖縄(当時の沖縄の人口は約45万人弱)本島上陸の目的は,日本の一部を占領するといった事実を日本帝国に突きつけるという決定的な意義とともに,沖縄を基地化することにより米軍が完全に南西諸島の制海権と制空権を確保し,日本本土の攻略に備えるという戦略的な意義があった。
やすやすと米軍の上陸を許した戦力的に劣勢の日本軍は,持久戦に備え,守備軍司令部のある首里を防衛するため,主力部隊を首里近郊の地下陣地などに集結させるため,読谷の北飛行場,嘉手納の中飛行場を放棄せざるを得なかった。
その結果米軍は,上陸日の午前中には両飛行場を占領するともに,東海岸沿い進撃し,4月3日には沖縄本島を南北に分断することに成功する。
南北に分断したあと,北部に向かった米軍は,4月13日には北端の辺戸まで進撃,17日までに北部地区守備隊として配置されていた国頭支隊の本拠地八重岳を制圧し,20日ごろには本島の北部全域を占領した。
機会があればその後の戦闘関連を掲載したいと思います。