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考えたいね  手話通訳のあり方

2009-08-30 | 手話
 ネットを歩いていてこんなブログに出会いました。
 なかなか言いにくいことですが、とても大切なご意見だと思います。
  敢えて提起くださっている渡辺哲雄さんに感謝です。
 
 私は『手話通訳が付いているぞ』とPRする時代の手話通訳者ならともかく、どのように、わかりやすく 聞こえない人たちに情報を伝えるかを大切にする手話通訳者(もちろん、通訳はこの逆、手話→音声日本語の場合もあるのですが、ここは講演会場面なので一応置いておきます)なら、渡辺さんのご意見にもっと謙虚に耳を傾けるべきではないかと思います。
 
 今日は選挙の投票日、40年近く前、衆議院議員選挙立会演説会の手話通訳に出かけたころを思い出しました。
 通訳を交代してトイレに立っていると隣で用を足しているお二人が「候補者の横でなんやらうろうろ迷惑ですな」と話しておられます。
 選挙管理委員会にお願いして「ろう者が候補者の意見をしっかりと聞けるように手話通訳をつけています」と説明してもらったことがあります。
 
 
 「いつでも、どこでも 手話通訳を」はとても大切なことですが、「必要な時に」も考えることが手話通訳者には求められるのではないでしょうか?
 理解者を増やしていくことも求められます。
 
 経験を積んで 日ごろの成果を…と言う割には通訳の後の検証があまりなされていないように感じることもよくあります。
 自分の手話通訳がきちんと伝わったかどうかの検証がとても大切でしょう。
 
 
 
聴覚障害者の権利と手話通訳

平成15年01月22日
渡 辺 哲 雄


 受け止め方によっては大変な誤解を招きかねない話題に敢えて触れようと決心しました。
 手話通訳のあり方についてです。
 立場上、方々で講演する機会が増えました。会場では、聴覚障害者のために手話通訳や要約筆記が準備されるのが当然の世の中になりました。それは喜ばしい限りなのですが、講師の側から言えば、深刻な不都合が起きているのです。講演には二つの形式があると思います。主に聴衆の理性に訴える説明型の講演と、情緒に訴える感動型の講演の二つです。私の場合は後者に属します。ストーリー性のある話の展開に、いつの間にか夢中になった聴衆は、泣いたり笑ったりしているうちに、「知識」ではなく、ある種の「感動」を得るように組み立てられているのです。そのためには、まずは講師が自分の話に夢中にならなくてはなりません。聞き手の一人一人に心をこめて語りかけているうちに、次第に聴衆が話の内容にのめり込んで来るのがわかります。やがて会場は一つになります。そうなれば間違いなく講演は成功です。ところがそれを手話や要約筆記が妨げるのです。聴衆の視線が手話通訳に動き、あるいは要約筆記のスクリーンに移る度に、会場の緊張や集中力に致命的な亀裂が生じるのが壇上からはよく判ります。それが講師の集中力に影響を与えると、あとは悪循環です。会場を束ねていた虚構の糸は一気にほつれ、あちこちで私語さえ始まるのです。
 そこで、会場の一体感を損なうことなく聴覚障害者の権利を保障するために、一つの解決方法を思いつきました。「手話と要約筆記の用意がございます。必要な方はお申し出ください」と受付に表示をするのです。該当者があればステージではなく、その人の近くで手話や筆記を行います。これならば大多数の聴衆の視界に入ることなく、聴覚障害者には濃厚な伝達が可能です。もちろん、該当がなければ通訳の必要はありません。運動会で怪我人が出た時のために看護師が待機するのと同様に、必要な時にいつでも手話や筆記が利用できる体制があることが大切なのです。名案だと思いました。ところが、まれに私の提案に憤りをあらわにされる手話通訳者や要約筆記者がいらっしゃるのです。
「聴覚障害者の有無にかかわらず、以前から私どもは壇上で手話をさせていただいています」
「しかし聴覚障害者の参加がなければ、通訳を行う意味がないでしょう?」
「いつだって手話があるという体制が重要なのです。途中で聴覚障害の方が参加されても安心ですからね」
「ですから、必要な方には申し出をしていただけば…」
「自分が聴覚障害者だということを隠しておきたい人もいるはずです」
「お言葉ですが、車椅子はもちろん、目の不自由な人も肢体の不自由な人も障害は隠しようがありませんよ。むしろ障害を隠さないで、堂々と生きてゆく姿勢や、それを支援する社会のしくみが望まれているんじゃないですか?」
「いえ、壇上で通訳を行うことで、一般の方に聴覚障害者の存在や手話の必要性について理解を促すという目的もあるのです。それに、手話も技術ですから経験を積まなければ上達しません。通訳者にとって講演会は、日頃の練習の成果を発表する数少ない機会なのです」
「講演をそういう目的に利用されるのはどうでしょうか…」
 私が語尾を濁す辺りでたいてい議論は終結します。
「私どもとしましても、聴覚障害者に配慮している姿勢を参加者にアピールしたいという趣旨も実はありまして、ここは一つご理解いただいて、よろしくお願いしたいのですが…」
 主催者にそう言われてしまえば講師としては引き下がるしかありません。ステージのすぐ側で入れ替わり立ち代り手話に立つ皆さんの動きを意識しながら、あるいは、スクリーンに映し出される要約筆記の内容に気をとられながら、聴覚障害者がいるかいないか解らない会場に向かって講師の努力が始まります。いっそ手話通訳者も要約筆記者も感動の渦に巻き込んでしまえばいいのだと自分を奮い立たせたり、いやいや、この条件下で一体感や感動を望むより、内容をかなり削ってもゆっくり話をしなければ、今度は配慮が足りないと非難されるぞと警戒したり、終始答えの出ない葛藤を繰り返したあげく、ステージを下りる頃にはぐったりと疲れています。そして、釈然としない思いの中で、ひょっとすると私の提案の方が間違っているのではないかという不安に襲われるのです。

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