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高野雅夫さん

2009-04-25 | まいにち
父の遺書、僕たちの新書
高野 雅夫,高野 大
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ネットでニュースを見ていたら懐かしい名前を発見した。高野雅夫さん

私が新婚の頃、当時購読していた社会新報で連載記事を読み 手紙を出した。一年以上もたって彼から長いながい返事をいただいた。

ニュースによると今も夜間中学のために働いて居られる。続けることそれはとても難しいことだ。(以下朝日の記事から引用)

「名前書けた時、人間になった」夜間中学卒業し大学教員

 

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写真:「夜間中学はおれにとって生命線だった」。ゼミ開講に先立つオリエンテーションで学生らに語りかける高野雅夫さん=18日、東京都豊島区の立教大、郭允撮影「夜間中学はおれにとって生命線だった」。ゼミ開講に先立つオリエンテーションで学生らに語りかける高野雅夫さん=18日、東京都豊島区の立教大、郭允撮影

 夜間中学の廃止反対や増設を求める運動に取り組んできた高野雅夫さん(69)=東京都墨田区=が今春、立教大学大学院の特任教授=比較文明専攻=に就任した。自身も夜間中学の卒業生。10代後半になって文字を獲得した経験から、「おれ自身が生きた文献となって、差別や貧困、人間の尊厳について学生と考えたい」との思いで23日、初めての講義をした。

 1回目の講義には、高野さんの母校、東京都荒川区立第九中学校の夜間学級の見学を盛り込んだ。

 「当時は、校門の手前までやって来てもなかなか入れなかった。何か字を書かされるんじゃないかって。字が書けない自分にとってものすごい恐怖だった」。高野さんは体験をゼミ生らに語った。

 太平洋戦争前の旧満州に生まれた。軍人の父親は戦死し、引き揚げ途中で母親ともはぐれ、博多の闇市で生きた。盗みに恐喝――。警察に捕まるたび、自分の名前が書けずに「ふざけるな」と暴行を受けた。

 17歳ごろ初めて文字を覚えた。教えてくれたのは、移り住んだ東京・山谷で廃品回収をしていた朝鮮人のおじいさんだった。

 「初めて『たかのまさお』って書けたとき、頭のてっぺんからつま先まで電流が走ったようだった。人間になったんだと感じた」

 もっと読み書きができるようになりたいと、同中学の夜間学級に21歳で入学。サンドイッチマンをしながら通い、寝る間も惜しんで勉強した。

 卒業から2年後の1966年、当時の行政管理庁が夜間中学の廃止を文部省などに勧告した。自分を救ってくれた夜間中学の支援活動に、日雇い労働をしながら奔走した。

 廃止に反対する夜間中学生たちの証言フィルムをつくり、北海道や広島、京都などで上映。夜間中学のなかった大阪市では市役所に日参して設置を訴えた。69年、大阪市内で初めて天王寺中学夜間学級が設置され、今も約80人が学んでいる。

 特任教授の定年は70歳。高野さんは「在日コリアン、被爆者、そして夜間中学卒業生、時代の生き証人は次々と亡くなっている。この1年、少しでも皆さんのお役に立てれば」と話す。(関根和弘)

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1 コメント

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昨日のラジオ (寺島鉄夫)
2009-06-20 09:29:00
昨日の早朝のラジオ聞きました。感動

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