車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

日吉神社(清洲山王宮 ) in 愛知県清須市

2016年12月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市清洲に鎮座される「清洲山王宮 日吉神社」。御祭神は『大己貴命、素盞嗚命、大山咋神』

創始「宝亀二年(771)尾張地方に疫病が流行した為、素盞鳴命・大己貴命を祀り、病災除去の氏神とした。大同二年(807)橘逸勢(たちばなのはやなり)が社殿を建立。又伝教大師による天台宗の布教とともに神仏習合説が広まり、山王宮と称されるようになった。尾張の国府が清洲に移されてからは、清洲総氏神として信仰を集め荘厳な社殿が構えられた。天正八年(1580)、清洲城代織田信張により、近江坂本の日吉大社より大山咋神と摂社二十一社を勧請。明治以降、社名を山王宮から日吉神社と改め、県社として尊崇された。」公式HPより

木造檜皮葺きの蕃塀。左に「厄をさる福を招く天下随一お申神社」

拝殿前左右より神域を守護されるのは烏帽子姿で正装した、大正十年十月十日 :奉猿会奉納の青銅製の神申像一対。日吉神社の神使いは申とされており、肩に御幣を担いだ姿勢で参拝者を迎えてくれます。

拝殿屋根の留め蓋にも御幣を担いだ神申さん。

一生懸命神申像を写していたら、拝殿内にも神申象があるから見ても良いと、宮司さんのお言葉。それはもうどれだけ嬉しく舞い上がったか(^▽^) あまりの嬉しさに社伝の撮影をすっかり忘れてしまいました(-"-)

拝殿内にて神域を守護されるのは白磁の神殿狛犬一対。

神殿横左右に奉納されていた神猿様三対

奉納絵馬は、織田信長の家臣であった『伊藤蘭丸』によるもの。松坂屋の創業者『伊藤次郎左衛門』の祖で、故あって清洲の地で絹布商を営み、その後松坂屋へと大発展させた人物です。ただし、現在神殿に掲げられている絵馬は、明治時代に『小田切春江』によって描かれた複製だそうです。

社務所で売られている「御幣を担ぐ神申絵馬」は、上記の絵馬をモデルとしています。

こちらの絵馬には特に謂れはありませんが、おそらくそれなりの方が奉納されたものなのでしょう。

拝殿前より神域を守護されるのは明治四十一年卯月上旬奉納の狛犬さん一対。いわゆるブタ鼻のでこっぱち、額から肩の左右に大きな毛玉をつけたユニークな顔立ちですが、じっくり拝見させて頂くと中々に味わいのあるお顔(笑)

有難く拝殿を辞して境内に戻れば、ここにも『井上北斗氏』奉納の巨大申絵馬。御祭神の使いである申(猿)にちなんで、2004年(申年)の正月に神前にて描かれ奉納されたもの。畳約八畳大(縦3メートル×横4.5メートル)で、神前にて描かれた絵馬としては最大級となっている旨が、駒札に記されています。

古来より神社の一角にある「子産石」は、女性が触れるとたちどころに懐妊するという霊験あらたかな石。豊臣秀吉の生母は、この子産石に触れて秀吉を授かり、幼名を『日吉丸』と名付けたと伝えます。

境内社「山王稲荷社」

名古屋藩の第4代藩主『徳川吉通公』が、正徳三年(1713)に、山王神霊の分霊と共に山王稲荷として移し祀られたもので、江戸時代の終り頃の創建と伝えられています。

遠い昔、傀儡(かいらい)と呼ばれた芸能者が旅の途中、当社に参詣し神前で神舞を奉納し、世俗の怨念、苦しみを祓ったと言い伝えられており、これを「はきだしまいり」といいました。この場所は、そうした負の感情や執着をはきだし、皿に封じ込め、祓い清める場所だそうです。

板碑群の後方に祀られる小社。御社名、御祭神いずれも不明。で、何故この社だけと聞かれて思わず「猫さんが・・・」可愛さに負けて、お賽銭も奮発しました(笑)

板碑群

「神像」役行者のようにも見えますが・・・わかりません。

尾張の神社参拝で久々に出会った二代目・青銅製の御神馬は、昭和41年の再建。

何とも優しい目つきの「吐水龍」

参拝日:2011年4月24日

 


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