きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

震災前の気仙沼港の風景・2010年7月

2011年05月21日 | 気仙沼
震災前の気仙沼の姿を思い出したくなりました

昨年クラス会で気仙沼に行った時(2010年7月16日、17日)に私が撮った写真です

この日は東北地方に梅雨明け宣言が出た日で

大汗をかきながら安波山に登ったり、大島の龍舞崎に行ったのを懐かしく思い出します




安波山から気仙沼湾と大島を望む




少年のころ海を見によく来た、内湾にある御神明様と浮見堂




港に面した通りにはレトロな雰囲気の建物が並んでいます 
南町にあったステンドグラスが綺麗でレトロな雰囲気の「喫茶マンボ」も津波で破壊されてしまったのでしょうか




港に停泊している沢山の漁船




東洋一の魚市場といわれた時もありました




内湾にある船着き場は整備されてとても綺麗だったのですが




可愛い魚の絵が描かれたタンクも津波で流されてしまいました




ホヤを肴に冷えたビールが美味かった



これらの風景が今は見られないのが悲しいけれど・・・
きっとまたいつか綺麗な風景が見られるようになるでしょう!
美味しい海の幸が食べられるようになるでしょう!

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気仙沼震災写真展(5)

2011年05月19日 | 気仙沼
息子の体調も大分回復してきた

ほっておくと扁桃腺炎や敗血症を起こして命にかかわるぞ・・・と脅したのが効いて、耳鼻咽喉科に行ってもらった薬が効いたようだ

もうじき5回目の災害派遣があるようで、緊急時とは云えたび重なる出動を少し心配している

治療院の入り口脇のウインドウに被災地の写真を掲示することにした

これで人の目にもより多く触れることになるでしょう








以下の写真は気仙沼在住のU君が撮った写真の続きです






















一昨日は三浦市役所の震災募金担当部署にいって、U君の写真の活用を相談してきた

活用の仕方を考えたいとのことであったので、U君が送ってくれた写真(A4版、70枚ほど)を預けてきた

使えそうであれば、U君名で寄贈するつもりである


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気仙沼震災写真展(4)

2011年05月17日 | 気仙沼
神奈川県警機動隊の一員として釜石市に出動し、一昨日帰宅した息子が熱を出し、風邪と思っていたのだが、医者で見てもらったところ、喉に潰瘍ができたせいとのことであり、今朝も喉の痛みを訴えている

震災直後から陸前高田に2回、大槌町と釜石市に1回づつの出動で肉体的、精神的ストレスが積み重なったせいなのかも知れません。早く元気になって欲しいものです。

今回も気仙沼在住の友人U君が撮った気仙沼震災写真の続きを掲載します






















たまたま気仙沼港に入港中に被災した他県の船もあります
陸に上がった400tクラスのマグロ船は今後どうなるのでしょう


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気仙沼震災写真展(1)

2011年05月14日 | 気仙沼
気仙沼中学校時代の同級生、といっても還暦をすぎているのだが、が震災直後から撮影した写真を大量に送って来てくれた。

「・・・できるだけ多くの人に、報道写真とは違う、市民目線で撮った写真をみてもらい、その惨状を共有していただくことが支援の第一歩になるものと考えています・・・」というのがご本人の思いである。

彼の写真は目黒区役所でも展示されているが、それは「目黒のサンマ」が取り持つ縁で相互交流を深めているからで、目黒サンマ祭りのサンマは気仙沼産なのですよ。友好都市協定も締結しているようだが、詳細は目黒区役所のホームページを見てください。

この貴重な記録写真を多くの人に見てもらえるよう私もやれる範囲で努力してみるつもりだが、取りあえずこのブログでも災害発生直後からの時間経過にしたがって公開していきたいと思っています。



























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がんばれ気仙沼ー2

2011年03月23日 | 気仙沼
気仙沼在住の友人(中学の同級生)からメールが届いた

家族は皆無事とのこと

気仙沼中学の同級生たちの安否は不明

気仙沼の通信環境も回復してきている

被災状況を多くの人に知ってもらいたい・・・・

とのことで現地の状況写真を送ってくれたのでアップします。




内陸部まで大きな漁船が流されてきています・・・空の青さが悲しい









寒空の中、自衛隊の救出活動が続いています・・・街は暗く、悲しみに沈んでいる



被災に会われた方たちは、取りあえずは生き残ったことを感謝しましょう、亡くなった人を悼みましょう、じっと耐えて傷ついた身体と心を癒しましょう

幸いにも被災に合わなかった人たちは、今すべきことをしましょう、これから何ができるかを考えましょう

頑張ろう気仙沼人、頑張ろう日本人

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気仙沼の友へ

2010年10月11日 | 気仙沼
 拝啓、還暦祝に出席して3日ぶりに治療院に出勤しましたが、京浜急行三浦海岸駅前の河津桜は既に八分咲きになっており、周囲には提灯なども下がって、早「さくらまつり」の風情で、気仙沼より5~6度は高いと思われる気温と明るい青空の下、気の早い中高年のグループが何組か小松ケ池公園の桜見物に来ていました。

 先日の還暦祝いの会で貴方とお会いでき、短い時間でしたがお話しができて、とても嬉しかったことをお伝えしたくて、この手紙を書きました。
私の父も母も既に亡くなり、気仙沼には身内が誰もいませんが、事あるたびに声を掛けてくれる同級生と暖かく迎えてくれる友達にはいつも感謝しています。

 還暦を迎えるまでには、人それぞれに様々な人生があった筈で、その時々に悩んだり、苦しんだり、喜んだり、後悔したり、挫折を経験したり・・・と思い出すのが大変なほど沢山のことが在ったはずですが、振り返れば真にあっという間の60年で不思議な気持ちがいたします。若い頃に森田公一とトップギャランの歌で「すぎてしまえば」と言うのがありましたが、最近になって「過ぎてしまえば皆美しい・・・」というフレーズが実感できるようになってきて、これも歳のせいでしょうか。

 私の母は私が33歳の時に59歳でこの世を去りましたが、母の歳を追い越した今の自分や同年会に参加している女性達を見るにつけて、あらためて母は若死にだったなあという感慨にふけっています。当時、私の母は体も次第に小さくなり、顔の皺も増えてきて、歩き方もなんとなく頼りなさ気で、会う度に「母も大分老いたなあ」というのが実感で、守ってあげたい存在でしたが、現在の同年代にはそんな感じは全くなく、「アラ還」などといって肉体的にも精神的にも益々元気で、還暦を過ぎて遊びも仕事も益々盛ん、というのが当たり前になっているようです。

 あらためて思うと、実は当時の母も子供の自分が思っていたほど老け込んではいなかったのかも知れません。心身ともに現在の自分と同じくらい充実していたのかも知れません。守ってあげていたのは子供の私ではなく、母の方がまだまだ未熟な私たち子供を見守っていたのかも知れません・・・などと多少感傷的な気分になってしまうのも、同年会に出た後遺症なのでしょうか。

 会場でお会いした時の貴方は、きらきら輝いている聡明そうな瞳も、はきはきした物言いも、明るい笑顔も昔のままで、前回の厄払いの時よりも若くなったように見えて、感動いたしました。私だけ歳を取っていくようで情けない気がしますが、一方、シャイで、負けず嫌いで、好奇心旺盛で・・・などという子供の頃の性格だけは残念ながらというか、幸いにもと言うか、今でも変わらないようです。

 当日、もう少し落ちついてお話しができれば良かったのですが。もっと話したいことや聞きたいことも有ったはずですが、なにしろあの喧騒の嵐の中であっという間に時が過ぎてしまって、話す機会を失ってしまったのが残念です。
いずれにしても、還暦を過ぎると古希はあっという間といわれています。いつまで若い気持ちと元気な体で居られるかは分かりませんが、健康で時を重ねていければと思っています。

 会社を早期定年退職して飛び込んだ東洋医学の世界も思っていた以上に奥が深く、その深淵に溺れそうになりながらも、なんとか6年が過ぎました。10年やって中堅と呼ばれる世界で、80歳台の現役も沢山居る業界ですので、勉強はまだまだこれからと思っています。

 患者さんは中学生から90歳のおばあちゃんまで、幅広い年齢層で、様々な職業、様々な人生経験をもった人達ですが、多くの人が肉体的痛みや障害の裏に精神的な悩みや痛みを抱えています。心身ともに健康でいることは何時の世でも難しいことで、そのお手伝いをするのが自分の仕事と思っています。精神生理学とか精神免疫学とかが近年注目されていますが、私たちの治療も踏み込んでいくと心の領域、宗教的世界にも足を踏み入れる必要がありそうで、ちょっと厄介な気もしますが・・・。

貴方もお体を大切に益々お元気で、良い歳を重ねて行かれますよう心から願っています。
では、またお会いするときまで、しばしのお別れということで・・・。

敬具

気仙沼沖でカツオが大漁

2010年07月24日 | 気仙沼
気仙沼のカツオの水揚げが例年になくすごいそうである

今年は黒潮の北上が強くてイワシの群れが例年のいわき沖を素通りして三陸沖まで移動してしまい、それを追ってきたカツオの群れが三陸沖にいるためらしい

黒潮の勢いが強いせいで親潮の南下が阻害されて、おかげでサンマは未だ・・・ということだ

東京の市場にでているサンマは北海道産のやせっぽちサンマで、気仙沼ではこんなサンマを店に出せないため、観光客が期待しても未だ気仙沼でサンマは食べれません

昨年もそんな状態だったので、やっぱり地球温暖化の影響で潮の流れも変わってしまうのですね、自然に依存する農業や漁業は大変ですね

ということで先週行ってきた気仙沼へのミニ旅行のスナップ。水産会社の建物とタンクに描かれた絵はやっぱり、カツオ、サンマ、イカなのでした。港には昨年のこの時期に比べて漁船が沢山いたように思ったのは、カツオ大漁のせいだったのでしょうか。

タンクに描かれたカツオとサンマ



同じくイカ、ところで最近昔風のイカ煎餅を見なくなったのはどうして?



昨年より漁船の停泊が多かった



これはライトが沢山あるのでイカ釣り船でしょうね



久しぶりに見た気仙沼名物突きん棒船・・・のモリ  これでカジキマグロを突く、名人芸



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気仙沼は大島の龍舞崎

2010年07月23日 | 気仙沼
安波山から気仙沼湾と大島を望む



天気の良いのにつられて気仙沼の大島に行くことにした

大島の浦の浜までは船で約20分、海風が気持ち良い、カモメがお決まりの餌ねだりで船を追いかけてくる、津波で被害を受けたカキいかだも復興したように見える




亀山はパスして大島南端にある龍舞崎に向かう

岩手県の江刺から来た女性2人組(元気の良いおばさん達)とバスの中で知り合う、といってもバスは私も入れて3人の乗客だけだったのだが

バス停からしばらくあるいてたどり着いた龍舞崎はガスって、残念ながら視界悪し




近くの小島もこんな感じで、カモメとイワツバメだけやたら元気に飛び回っていた
ウミウも何羽か岩の上で靄が晴れるのを待っているようにじっとしていた



昼近くにはガスも薄くなってきて、日も少し照って、近場の見晴らしも良くなってきた



途中には急な狭い階段を下りると海につながる洞窟があって、名前も「乙姫窟」



帰りはバスを待つ時間がもったいないので携帯でタクシーを呼んで、3人割り勘で港まで・・・

気の良い若い運転手の話・・・「小田の浜の海水浴場も8月になってからの2週間がにぎわうが、今はまだシーズンオフで島内のタクシーは2台だけ。シーズン中は4台になる。民宿もこのシーズンは客が来るが年間を通じてお客が来ているのは、欽ドコで名前が売れた気仙沼チャンがやっている民宿だけだ。ここは料理もおいしいが料金も高い。」ということである。それにつけても島内の道路は良く整備されていて、驚くほどだ。

梅雨があければ龍舞崎は非常に良い景色であろう。釣りにも良さそうで、今度はルアーでも持ってこようかしらなどと思いながらも・・・でも暇がないなあ・・・残念。

夜に同級生がやっている「ラーメン・ホルモン 司」で御馳走になった5年物のホヤは最高の味でした。



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気仙沼の安波山

2010年07月20日 | 気仙沼
高校に入学した時に登って以来の安波山 (安波山から気仙沼湾と大島を望む)

中学校の同窓会で気仙沼に来るたびに安波山と大島の亀山に登ろうと思っていたが、これまでは天候が悪く果たせなかった

今年は運よく好天に恵まれて、気仙沼についてすぐに安波山へ向かう

市役所横の愛宕神社前の登山道から入って、道なりにとにかく上へ上へと登る

子供のときには開校記念日とか元旦の初日の出を拝みに何度も登ったわけだが

すでに45年以上経過した現在では、当時植林したばかりの小さな杉の苗木も立派な木へ成長していて、チョット怖いくらいの杉林で当時の景色は全く思い出せない

登山道と呼ぶにはチョット狭く歩きにくい道であるがどんどん登って5合目の駐車場に到着

半分は車で来れるわけで、昔はこんな道はなかったわけだが、さてここから上に急な階段が続いていて、その先は石のごろごろした急斜面で、ほぼ直登する形で頂上に至る

ここからの道の入り口では2匹の龍がお出迎え



入り口には自由に利用できる杖が沢山置いてあり、これは助かった・・・やっぱり登山(それほど大げさではないが)には杖があると楽ですね



途中何箇所か木製の見晴らし台(下の写真)があり休憩できるが、構わずぐんぐん登って汗だくで頂上に達した



誰も人がいなくて、しきりにウグイスが鳴いていて風が涼しく心地よい

頂上からの眺めは昔のままで・・・とはいっても昔の田圃はなくなって街並みに変わっていたりするのだが、気仙沼湾と遠方の亀山の美しい景色はそのままで

ほんとに登って良かった!!!!!ばんざ~い!!!



ちなみに帰りは車道を下りてみたが、これが大失敗。
遠回りですごく時間がかかってしまい、暑くてたまらずランニング姿で歩いていた結果、あとで見たら肩が真っ赤でしっかりランニングシャツの跡がついてしまいました。
これも思い出の一つになるかな・・・熱中症にならなくて取りあえずは良かった!!!

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宴のあと

2009年02月14日 | 気仙沼
 気仙沼中学校昭和40年卒業生還暦祝・同年会に出席してから6日経ち、出かける時にはまだ七分咲きだった三浦海岸駅前の河津桜もほぼ満開となりました。11日の建国記念日には多くの見物客が小松ケ池公園に訪れていました。7日の同年会の気仙沼は時折小雪がちらついて、道路の水溜りには氷がはって、まだまだ冬の趣でしたが、三浦は余寒はあっても、春の足音がすぐそこに聞こえています。

 父も母も無くなり、現在 気仙沼には身内が誰も居ませんが、事あるたびに声を掛けてくれる同級生と暖かく迎えてくれる友達はありがたいと思います。還暦を迎えるまでには、人それぞれに様々な人生があったはずで、その時々に悩んだり、喜んだり、挫折したり、後悔したり、あの時ああすれば良かった・・・との未練も少なからずあるのですが、振り返れば真にあっという間の60年で、不思議な気持ちがします。

 現在の自分自身や同年会に参加した女性たちを見るにつけて、58歳でこの世を去った母が惜しまれます。当時33歳の私からみた母親は、次第に体も小さくなり、顔の皺も増えて、歩き方も頼りなさ気で、ときどき田舎に帰るたびに「母も大分老いたなあ~。」というのが実感で、守ってあげたい存在でしたが、自分を含めた現在の同年代にはそんな感じは全く無く「アラ還」などと言って、精神的にも肉体的にも益々盛んで・・・。

 あらためて思うのは、実は母も子供の自分が思うほど老け込んではいなかったのではないかと言うことで・・・心身ともに現在の自分と同じくらい充実していて、守ってもらっていたのは実はまだ子供の自分の方で・・・と思えば思うほど、一層惜しまれます。昨夜、母の夢を見たのも、同年会に参加した後遺症で、感情がまだ高ぶっているのかも知れません。

 次は何時みんなに会えるだろうか?。還暦を過ぎれば古希はあっという間に来ると言われるが、いつまでも若い気持ちと健康な身体を維持していけるよう努力したいと思っています。
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還暦祝同窓会は・・・

2009年01月23日 | 気仙沼
 東海道新幹線が開通し、東京に首都高速道路が一部出来上がり、東京オリンピックも終わった昭和40年に中学校を卒業した少年少女達は今年還暦を迎る。気仙沼中学校卒業生の還暦祝・同年会が2月に開かれる。小学校も中学校も1校しかなかったので、中学校の同年会=小学校の同年会でもあるのだが・・・。

 私たちは団塊の世代にあたり、当時は1学年12クラス、1クラス50名を超え、つまり1学年600名を超える同窓生が居たわけで、40名・3クラスと言ったような現在の状況とは隔世の感がある。当時は街中を走っている車もまだ少なく、ときに馬車が走っていたりする時代であったが、世の中は至って活気に溢れていて、東洋一と言われた気仙沼魚市場にはサンマやカツオがどんどん上がって、マグロの遠洋漁業の船員さんたちは皆マグロ御殿と呼んでいい立派な屋敷に住んでいた。大型船が停泊できる岸壁も整備されて、ロシアからの外材が陸揚げされていた。

 当時は一ノ関駅から山間部を走る単線の大船渡線一本しか交通手段がなく準急(準急行列車)と呼ばれたディーゼル列車が少ない本数走っていて、道路も勿論整備されていなかったため、陸の孤島的場所だったが、港町のせいか、漁業や水産物加工が活況を呈していたせいか、なんとなく町には華やかさがあり、住民もよく派手好みだと言われていた。こんな田舎の町にしては今も芸能やスポーツ分野で活躍している人が多いことをみれば、そんな風土は今も昔も変わっていないのかもしれない。

 地元に残った者、Uターンした者、都会に出て行った者、それぞれが必死に働いて、必死に生きて、気が付けば還暦。よくもまあここまで来れたと思う反面、あっという間に・・・というのもまた実感だ。
高校は仙台市、大学は水戸市・日立市、就職は横浜市と中学卒業後はずっと地元を離れて暮らしてきた自分にとって、唯一故郷と呼べるのは小・中学校を過ごした気仙沼であり、安波山、大島、亀山、御神明さん、岩井崎、魚市場、ふかひれ、どんこ、サンマ、ホヤ、福美町、石森道場、大川、鮎釣り、港祭り、花火大会、突きん棒、竹スキー、ばらいちご、バッケ(ふきのとう)・・・みんな、みんな懐かしい。
久しぶりに会う同級生達の顔が目に浮かんできて、顔と名前を思い出し、メモリーに再インプットしておく作業もまた楽しく・・・同じ時代を生きた同志である皆の元気な顔を早く見たいものだ。50,60洟垂れ小僧などといって、いつまでも若さを自慢している自分が同年会への出席を心待ちにしているなんて少し許せないと思いつつ、幼馴染との再会を喜んでいる自分の素直な気持ちがまた嬉しいのでした。
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