
魚藍坂を再び登り、高輪1丁目の交差点を左折して芝方面に戻る。
済海寺の門前からすぐ左側に「フランス公使館跡の碑」があった。
初代の仏駐日総領事・ベルクールが宿舎として使用し、安政6年
(1859)から明治3年(1870)までの10年間、公使館として利
用された。
この済海寺の隣り、月の岬の大地あたりに亀塚公園があり、園内
にこんもりと盛り上がった円墳状の「亀塚」がある。1971年の調
査では副葬品が出土せず、古墳であるとは判断されていない。
10世紀の頃、竹芝の庄は皇居の火焚衛士に任され京へ。その竹
芝は帝の娘・皇女と仲良くなり結ばれる。竹芝はこの地の郡司に任
命され、仲むつまじく暮らした。その後、皇女が亡くなると屋敷を
竹芝寺にかえたという。その寺はまさに、この亀塚辺りあったと伝
わる。この塚はその皇女が祀ってあるのではないかといわれている。
(港区三田4-16-20)
フランス公使館跡
済海寺の門前からすぐ左側に「フランス公使館跡の碑」があった。
初代の仏駐日総領事・ベルクールが宿舎として使用し、安政6年
(1859)から明治3年(1870)までの10年間、公使館として利
用された。
この済海寺の隣り、月の岬の大地あたりに亀塚公園があり、園内
にこんもりと盛り上がった円墳状の「亀塚」がある。1971年の調
査では副葬品が出土せず、古墳であるとは判断されていない。
10世紀の頃、竹芝の庄は皇居の火焚衛士に任され京へ。その竹
芝は帝の娘・皇女と仲良くなり結ばれる。竹芝はこの地の郡司に任
命され、仲むつまじく暮らした。その後、皇女が亡くなると屋敷を
竹芝寺にかえたという。その寺はまさに、この亀塚辺りあったと伝
わる。この塚はその皇女が祀ってあるのではないかといわれている。
(港区三田4-16-20)
フランス公使館跡