寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2928話) 節分の風習

2020年03月14日 | 行動

 “節分は義母の教えを守り七輪でいった大豆をまき、焼いたイワシの頭をヒイラギの枝に刺して戸口に立て掛けました。わが家の敷地には社がいくつかあるので、今年も氏神様に家族の一年間の無病息災を祈りながら豆をまきました。「トンビャーウチ(富は内)」「福は内・・・」。夫が大きな声で二、三度繰り返しながら各部屋を回り、最後に玄関から外に向かって「鬼は外」と言って豆をまきました。
 私たちはというと、自分の年齢に一つ加えた数の豆を手に取り、うち一つを昨年の無事に感謝して目をつむりながら後ろに投げました。儀式の最後として私が手作りした恵方巻きを一言もしゃべらず、西南西の方角に向かって丸かじりをし・・・ました。
 数年前までは日没を待ってどこの家でも庭先の七輪から煙が立ち上り、大豆をいる香ばしさとイワシを焼く匂いが漂ったものです。そんな風習もだいぶなくなってきたような気がしています。”(2月19日付け中日新聞)

 三重県大台町の小西さん(女・73)の投稿文です。前回に続いて節分の行事です。またまた手の込んだ行事をされている家や地域があるものだ。ボクが知らないだけかも知れないが。日本の風習は知るほどに驚くことが多い。昔の人はそれを信じ、地域で共同して続けてきたものであろう。それでも小西さんの地域でも、こうした風習は大分なくなってきたようです。
 何百年と続けてきたものを、ここ数十年で多くのものがなくなろうとしている。これは個が中心になり、理屈が先行するようになったからではなかろうか。焼いたイワシの頭をヒイラギの枝に刺して戸口に立て掛けたら、家内安全になると言われても、理屈では説明できない。理屈で説明できないものは不合理、やめとなる。でも人間のしていることはそれ程理屈で説明できるのだろうか。いや、人間していることこそ説明できないことが多い。説明できるものがあるとすれば、それは自我、自利であろうか。こう思うと、現代人の何と横暴、無謀さを思わざるを得ない。こうした行事はもとより、地域の連携ささえ怪しくなってきている。よってたかってどこへ行こうとしているのだろうか。


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