“「みんなひとところで内職やらない? 空いている倉庫を貸してもらえたの」。主人が逝ってもうすぐ四年。まだまだ寂しさを引きずっている私に、声をかけてくれたのは、つい先日のこと。一個仕上げて一円五十銭だとか。新米の私は、一時間に五十個足らずしかできない。
お昼になり、みんなでお弁当を広げる。私も何十年ぶりかでお弁当を作ることになった。今朝もスマホからズッキーニの食べ方を教わり、豚肉と炒める。コロッケ、トマトごブロッコリーのサラダ、あとはブドウパン。ナプキンに包む。
毎日行くところがある幸せ。うれしい気持ちで車を走らせる。七十七歳になる先輩も、ご主人を亡くされている。腰にベルトを巻き、やる気満々で頑張る姿に力をもらう。もう一人の先輩から「今日はコンビニでサンドイッチ買ってきた」と聞けば、「あかんやん、時給七十円やで」と笑い合う。手先の器用な先輩に感心したりで、一日があっという間に過ぎてゆく。こんな仲聞かいとおしくって、ありがたくって。
息子のひと言。「おかん、車の運転だけは気をつけてな。無理せんときや」とラインが届く。「はい、調子に乗りすぎんようにするわな」”(7月17日付け中日新聞)
滋賀県長浜市の主婦・山田さん(69)の投稿文です。マアこれは働きに行くと言うより、サロンに行くようなものではなかろうか。この労働がどの程度の負担か、読んでいると失礼かも知れないが、遊びの延長の感じである。もうお金が目的ではない。皆と触れあうことが目的である。毎日行くところがある、これが大切な人達である。楽しく過ごして、その先に小遣いが頂ける。何と素晴らしい行動であろうか。最初に行動を起こした人は更に素晴らしい。ここが一番肝腎である。ついて行く人はいくらでもある。ついていく人だけでは何事も成り立たない。引っ張っていく人があるかどうかである。自分の周りにそんな人があると、生活は全く違ってくる。こういう人が周りにいると全くありがたい。山田さんは恵まれている。先日もボクより年長のあるオバサンと話していたら「働きたい」という。そしてお金はどうでもいいという。まさにこの文である。
さてオジサンはどうか。これは難しい。適当な場所があっても、まずは出てこない。
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