「毒にも薬にもならない」ってよく聞く言葉。オレのことかと素直に思ってしまう自分がいて世間の片隅で生きる悲哀をしみじみと感じる。その毒からクスリを作るって話は昔から知ってはいたけどけっこう進んでいるんだね。アルツハイマー、糖尿病、パーキンソンにHIV それと何だったかな高血圧に抗毒素か。なんだ、医学薬学といえども人間以外の地球上の生物の知恵を借りているんじゃないかとちょっと安心。彼等を生かし続けなければ人間の未来はないということだから。日本ではヘビと蜂と毛虫、ムカデ、海ではゴンズイ、カサゴ、エイあとは植物くらいしか知らないが世界では大変なのがいるらしいね。毒はね何万年もかけての進化の途中で出来たらしい。その毒を利用して人間に役立てるなんて初めに誰が考えたんでしょうね。と思いながら毒の本を読んでいると何の種類だったかヘビの毒でね、あれはタンパク質の変化したものだって。その毒が人の体内に入った時、強烈じゃないもんだから免疫機構が毒と判断しずらくて躊躇するんだってね。その間に他の抗体と言うかアレルギー反応物質とかが様子を見に集まって来て渋滞を起こして結局血管を詰まらせて壊死を引き起こすんだってね。これって新型コロナに似てるとふと思った。感染力は強いけどウイルス自体は強力じゃない。強力じゃないのが曲者で悩んでいるうちに自分の免疫が制御不能になるというパターン。それが、年寄りはたまたま肺で起こるから重篤になるんだろうなと想像を膨らませる。70歳から呼吸機能と腎機能はグンと能力低下だからね。もう上がることはないから。あとは、「毒を持って毒を制す」くらいの覚悟がいるだけかも。
4月は出発の季節だったはずなのにこの沈滞はどうしたことだろう。花は咲き乱れ、山は新緑、風は爽やか、甘い香りが頬をうつ。外のテーブルに運ばれてくるのはミントティー。姪の子の幼子がヨチヨチと僕らのテーブルの周りを笑いながら歩いていく時たま奇声を上げながら。蝶が飛んで、蜂の羽音が聞こえて、やわらかい日差しがテーブルの上に注ぐ。「まだパラソルは早いかな」なんていつもの言葉を言いながら伸びてきた小手毬の花を眺めている。その景色が今年はない。出発の気配もない。「これは、はなむけ」って言葉も聞かない。「餞(はなむけ)」って言葉はもう死語かもしれないけれどなんか出発というか心躍る言葉だから好きだね。昔馬を連れて旅立つ人を見送る時に「大丈夫だ」と馬の鼻を前に向けてやったのがこの言葉の始まりだとか。確か「土佐日記」にもでてくるよね「むまのはなむけ」って。いくら家にいろって言われても人間の体は季節に沿って構成されてるんだからこの季節は体も心も外に出たくてウズウズするね。「それでもガマンをしろ」って言われてもなぁ。人と8割接触をするなって人間関係の「断捨離」なのかな。「人脈、人脈」っていらない人との構築に懸命に生きてきた人ってバカみたい。お上の一言で人脈の断捨離だ。とかく人間のすることなんざ「お笑い草」なんだね。昔から本当の友達が一人あればそれでいいというでしょう。その人はきっと馬の鼻を前に向けてくれる人だからね。コロナで色々なことが精査されていく。生活習慣も身近な人間関係も含めて。マスクミ(マスク+マスコミ)にごまかされない冷静な判断が出来だしたってことかな。
知恵ってフランス語でla sagesseと言うのだそうな。そのフランスの新聞に四国八十八カ所巡りの記事が載っていて日本最古の巡礼だとか書いてあった。その中に芭蕉の俳句があって(芭蕉って四国には来てなかったと思うけど)書かれていた。 La cloche s'est tue,rest le parfum des fleurs, voici le soirと。「鐘の音は止み、花の香りは残り、夕暮れである」とでも訳せるのかなBshoと書いてあった。なんのこっちゃと元の句を調べてみると「鐘消えて、花の香は撞く、夕哉」(かねきえて。はなのかはつく、ゆうべかな)ちゃんとした俳句。 こんなフランス語読みで俳句の小宇宙が理解できるのだろうかとはなはだ疑問。これで理解できるんだったらフランス人ってスゴイね。英語でもThe bell is silent,ナンだろうから大差ないんだけどフランス語の方がもっと即物的で味気ない。それでも俳句が分かるって言うのがスゴイ。彼らの頭の中はどうなっているんだろうとふと思う。頭の中って言うとフランスの若者は自分たちが動き回るとコロナウイルスを拡散して年寄りにうつすからとの自覚が強いんだってね。それにボランティア精神も高くって年寄りの代わりに買い物してあげたりもするんだって。それでいてフランスって現状は悲惨なんだ。どこかにバカがいる。ってことかいな。それでも政治的な意思決定は早くて市民生活に支障はそれほど出てないらしい。マスクを中国からもらったからか「WHOを支持する」とマクロンが言った傍らでマスコミは武漢の研究所が閉鎖されたままになってるのはおかしい。ここから漏れたんじゃないかとか「ミステリアスチャイナ」の特集記事を掲載。コロナウイルスの人為性を追求している。これはこれ、それはそれっていうのがフランスの知恵なのかな。日本は「味噌もクソもいっしょ」だからなぁ。アベノマスク本当に配ってるんだってね466億円もかけて。その金があったらワクチン研究とか医療関係に回わすべきだったと思うけどなぁ。マスクなんてオレでも作れるんだから。「マスクきて、政府は、なにをする人ぞ」かな。
情報で脳が攻撃されるからなるべく無意識でいる。どんなに数字や状況や方法を言われてもまだ終息したわけじゃないからいちいち驚いてはいられない。国は全国に「緊急事態宣言」を出したけどはっきりしたことが分からないから昨日との差が分からない。10歩歩いてはいけないのか100歩歩いてはいけないのか明確に言ってもらわないとかえって戸惑うばかり。「あほらしい」とブツブツ。そんなこんなで昨日は満開の「御衣黄」の下で平安朝を楽しんだ。御衣黄は北森鴻さんの本で初めて知った薄緑の八重桜。儚いというか透明感あふれる花だ。高知にはあまり見かけられないんだけど山の道路淵に無造作に植えられてというか昔は管理された畑の一角であったのが放置されて桜はそのまま残ったというのが正解かな。その木が1本楽しませてくれる。 今年は今満開。 普通の桜ほどの派手さや艶やかさはないけどなんかいい。人ならこんな人がいいのかななんて想像する。ランボーが隠れていそうな山間に誰に見られることもないのに咲き誇る薄緑の櫻花。僕はこの花を見上げながら無意識な感覚に浸っていた。ランボーと言えばあの保安官、ランボーをイジメ抜くあの田舎町の保安官。たたき上げの白人というかアメリカ人というか憎たらしかったヤツ。その保安官を演じたブライアンデネヒーが亡くなったってね。コロナ?と思ったけどそうじゃないって。81歳だったってね。じゃぁ、ランボーは今いくつなのかなと思いつつ近くの茂みを見るとイタドリが3本。「やったぁ」と不用心に茂みを掻き分け気分はランボー。辿り着いて見てみるともう育ち過ぎで硬かった。残念。
草間彌生さんがlove&peaceと言うメッセージを世界に出したってニュースがイギリスの新聞にもフランスの新聞にも出てた。91歳なのかな?詳しくは読んでないけど日本人が記事に出るのはうれしいね。いいニュースでの取り扱いだからかな。そら豆の女王って言われてるんだね世界では。コロナで疲れてる世界を励ます詩だ。
Though it glistens just out reach,I continue to pray for hope to shine through.
Its glimmer lighting our way
詩はまだ続くんだがこの辺で。やっぱり芸術家って凄いんだね。91歳の人がこんなにもファイトがあるなんて。まるで抗体みたい。「手の届かないところに輝いているけれど私は希望が輝くように祈り続ける。その輝きは私たちの道を照らす・・・」う~んいい言葉。新型コロナでちょっと分かってきたことは僕らは受容体の細胞を持っていてその外から取り入れる情報の中にコロナが紛れ込んでフェイクニュースを増産。細胞を突き破って溢れるフェイクニュースが受容体が多い肺に流れ込んでそれを迎え撃つ抗体が制御不能な形で灰に集中するから炎上するんだってね。受容体に強弱があって若干弱めの人が重症化するんだって。だから肺を鍛えたらいいのかな?でもどうやって?深呼吸でもして?そんな鍛え方もあるかも知れませんが科学者によると「ワクチン」しかないそうです。しかも効力は1~2年って言ってますがそれでも私たちの道を照らしてくれるモノに違いありません。その輝きを早く手に入れたいものですね。たった3ヶ月で変わってしまった世界の為に。
Though it glistens just out reach,I continue to pray for hope to shine through.
Its glimmer lighting our way
詩はまだ続くんだがこの辺で。やっぱり芸術家って凄いんだね。91歳の人がこんなにもファイトがあるなんて。まるで抗体みたい。「手の届かないところに輝いているけれど私は希望が輝くように祈り続ける。その輝きは私たちの道を照らす・・・」う~んいい言葉。新型コロナでちょっと分かってきたことは僕らは受容体の細胞を持っていてその外から取り入れる情報の中にコロナが紛れ込んでフェイクニュースを増産。細胞を突き破って溢れるフェイクニュースが受容体が多い肺に流れ込んでそれを迎え撃つ抗体が制御不能な形で灰に集中するから炎上するんだってね。受容体に強弱があって若干弱めの人が重症化するんだって。だから肺を鍛えたらいいのかな?でもどうやって?深呼吸でもして?そんな鍛え方もあるかも知れませんが科学者によると「ワクチン」しかないそうです。しかも効力は1~2年って言ってますがそれでも私たちの道を照らしてくれるモノに違いありません。その輝きを早く手に入れたいものですね。たった3ヶ月で変わってしまった世界の為に。
トランプさんがWHOに対し当面の資金貢献を止めるとしました。コロナに対してのWHOの対応のまずさを指摘してのことです。中国よりだのとかのいろいろの批判は出てましたけど初期対応のまずさが理由に挙げられてます。「何のためのWHOなんや」ということでしょうか。このままでは「パンデミック」とか「テスト、テスト、テスト」とかの宣言をするところがWHOなんやとみんな思ってしまいますものね。そんなとこ要らんと言われたらそれまでの存在です。つまり仕事をしなかったWHOに対し実績主義のトランプがノーを突き付けたという図式でしょうか。「WHOは組織をラジカルに変えなければならない」ともいってますね。この無茶ぶり、さすがトランプだと国際機関に何にも言えない何にもできない日本に変わって喝采を送ります。国会議員の中にも拍手をしてる人がいるだろうな。緊急事態宣言が出てもキャバクラに行く勇気ある国会議員がいる国ですが国連関係には何にも言えないヤカラですからね。国連関係はもうこの辺で戦勝国連合と言う考え方を改めないといけないところまで来てると思うんですよ戦勝国筆頭のアメリカがもうこの組織じゃダメだと言ってるんですからね。より防疫ができる組織への変革を誰もが望んでいると思います。あのテドおじさんでもやろうと思えばできると思うんですけどね。アメリカは5億ドル寄付、中国は4000万ドルの寄付って聞いたけどミジカノ4000万か公の5億かと言ったところでしょうかね。とにかく当座をしのぐという考えは止めて改革に着手するいい機会を与えてもらったと思わなくっちゃね。最後に引導を渡すのが日本なら言うことないけど。
公園にウコン桜が咲いていました。前はもっと枝ぶりも良く目立っていたんですけど台風や強風の影響で枝が折れたり幹が折れたりで今では誰も見向きもしません。公園の片隅にひっそりと咲いてます。花が緑なものですから遠くからもあまり目立ちません。でも僕は昔からこの花が咲くと見に行ってます。最初は「御衣黄」かと思ってましたけど紅い筋の入り方が御衣黄より幾分濃いものですから「ウコン桜」かなと思ってましたらある日のこと公園を掃除している町内の人に「ウコン」って教えてもらいました。この薄い緑の色が何とも言えませんね。 桜は薄いピンクとだけに決まってないのがいいですね。今年は咲くのかなと心配してましたけどまばらではありますがちゃんと春を迎えてくれました。わけもなくうれしいですね。去年のモノが今年もあるというのは。コロナではありませんけど山仲間のガムシャラ君の母君が2月に亡くなりました。97歳だったそうでボケてなかったそうです。意識がハッキリしてると痛いとか苦しいとか分かるからボケといてもらった方がよいのにとガムシャラ君は看病話でよくそう言ってました。親がボケまくりでしたからオレは何とも言えませんでした。49日が過ぎてから会った時少し寂しそうに「墓にタケノコが生えててねそれ食ったから頭がこんなになったのかな」と意味不明のこと言ってました。きっと母親と話てたんだなぁと察っするところはありましたが場面を一転させて「それで禿げたのか」と茶化しながらちょっと気持ちがウルっとしてしまいました。死んだ人が見る桜は緑の桜かも知れないなと・・・晴れた空を見上げました。
コロナ騒動で行動自粛。人が街に出なくなったら「青空が戻った」「鳥が増えた」「個人じゃなくて社会の一員」「花がきれい」「考えることができた」なんて今までにない反応が返ってきてる。地球も有限なんだということを忘れて無限の富があるかのように思ってたなんてお笑い草だね。こういうの「暗闇の中の悟り」って言うんだってね。社会が変わる時ってこういうものなのかな。幕末の時も黒船が来てコレラ持ち込まれて江戸はほぼ壊滅状態になってこのありさまを底辺から見てた下級武士が幕末を動乱へと導いて行った。明治維新も「暗闇の中の悟り」であるとすれば幕藩体制を覆す社会変革の芽が人々の暮らしの中にあったのかもしれない。なにも歴史に名を残す人だけが社会を変えていったわけじゃないから。ちょっとした変化が人々の態度にあったんだろうね。今みたいにさ。距離をとって話す、マスクをする、手洗いをきっちりするなんて立派な態度変容だからね。そうやって社会を見ればおかしいことに気づく、失くしたものに気づく。本当の豊かさってと考えるようになる。すると行動が変わる。「暗闇の中の悟り」が開かれるってまさにこのことじゃないかな。コロナで見える人の有り様なんて大げさなものじゃないけど小さな変化は確実にあるよね身近に。
今日は雨です。雨が降るとわけもないのに安心します。これは今までのインフルの習慣かな。湿度でおさまるというウイルスでしたからね。新型コロナはそれも関係ないらしいがそろそろ不安より安心が欲しいですね。「私たちが望むことは生きる苦しみではなく私たちが望むことは生きる喜びなのだ」と岡林信康の歌が頭をよぎります。昨日の「水彩画展」会場で観客の一人に偶然出くわしたその観客の友達が「おまん、出てこられんろうが。みんなぁ出られんと言われちゅうろう」「何言いゆで、おまんこそ出たらいかんろう」と近寄って肩をパンパン叩いて再開を喜んでいました。これが土佐人。土佐に感染者が多いのも分かるような「あけっぴろげ」です。まぁ、笑いは免疫力を上げますから自己防衛には役立つでしょう。「私、描いてもらいたい。安かったら」なんて女の人も来てました。こちらも笑いで話が盛り上がりました。不安も笑い、笑いも不安。この現実に安心を与えるのが政府のやり方でしょうと思うのですが政府が不安を煽ってるって現状、なんか間違ってませんかね。「私たちが一生懸命にやりますから国民の皆様、どうぞ安心して家にいて下さい」と言ってもらえたらなぁ。期待はしてないけど「安心」の言葉が聞きたいね。
こういうご時世ですからカルポートで今やってる「水彩画展」を日曜日の正午で閉めることにしました。予定では16時まででしたけど勝手申しましてゴメンコロナ。何だかみんなが止める方向に向かわなくてはならない雰囲気。「これじゃぁ病めるわ」と思いつつもviral bombに当たるわけにはいかず開催終了です。入場無料でしたから休催補償はいりません。それとも補償してくれます?マスク1枚?いりません。普段の開催時の3分の一に満たない観客数でしたけどコロナ騒ぎの中、初めての方も来てくれましたし心の癒しにもなったって言ってくれましたしまぁそれなりに良かったというか仕方がないというかですね。。緊急事態宣言とやらで「出歩くな、家にいろ」と言われて家にいるとストレスが溜まって免疫力が落ちてコロナにかかりやすくなるなんて人間って勝手なもんだ。この前まで残業が多いだの帰りが遅いだので家でゆっくりすることは一種のステイタスだったのにね。そのステイタスをいただいたらこのブーイング。何がストレスだバカヤロウ。家族団欒って言うのが夢だったんだろう?夢を与えてもらって文句言うんじゃないよ。誰に文句言ってるの?同じような顔をくっつけ合う家族にかな?多分そうだろうな、人はいなけりゃ淋しいがいたらいたで鬱陶しい。所詮人間は「孤独」だということをこの機会に噛みしめておくと後は何があっても大丈夫だと思うけどな。コロナって人を強くするんだと思えば何とかしのいでいけそうな気がするね。韓国でテストで陰性だった人が再陽性になったと新しい局面のように言っているがあれはテストの精度の問題だろうね。ロシアでもテストの精度は70%位と言って陰性者でも経過を見ると言ってるから韓国なんか比較的初期の検査だっただろうから精度が低かったんじゃないかな。と冷静に判断しつつニュースを見てるなんてもうコロナにも慣れてきたんでしょうかね。この慣れっていうのがなぁ。痛しかゆしであるけれど人間をタフにしてくれるんだよね。