フェンネル氏の奇妙な生活

気付いた世界の中の小さな出来事と水彩画と時たま油絵と思いついたことを爺さんが一人語りいたします。

天保の老人

2014-05-05 08:17:27 | Weblog
明治の徳富蘇峰の「明治の青年」という本の中に「いま時代を天保の老人が導いているが明治の青年はそんな老人に導かれたらいけない」というのがある。どの時代でも同じなんだな。動物のボスの座をねらって若者が挑むというのに変わらない。明治で天保の老人といえば生きていれば坂本龍馬なんかもそうだし蘇峰の時なら伊藤博聞かな。その明治の青年が書いた文章がもう読みづらい。漢文調で理解し難い。天保といえば江戸だろう。穢土から転訛して江戸になったとか江戸に家康が改めたとかいうのは分かるのだけど江戸の人たちが話したり書いたりした言葉を明治の青年は理解してたのだ。それが大正の青年に受け継がれた時何が削られ何が変化したのだろう。多分明治の青年が理解していた天保の老人の言葉を大正の青年は理解できてない。大正の青年が理解してた明治の老人の言葉を昭和の青年は理解できない。たった15年くらいのことなのに言葉の変化ははやい。大正の老人の話を昭和の青年は理解し戦争で散った。戦後の青年は戦前の青年の言葉を置き去りにした。いま戦後の青年が昭和の老人となって平成の青年に語りかける。話は理解されているのだろうか。ずっと日本語なのにほんの100年前くらいの言葉が分からないなんて。と思うと自分達が理解できない言葉の台頭によって老人は死んでいくのかな。文化が死ぬ時人は死ぬのかとちょっと飛躍した発想も無きにしも非ずかと思う。昭和の老人の俺たちももはや若者の日本語の使い方は理解できないから平成の青年が俺たちが言ってることを理解できないのは当たり前か。それでも「青年は荒野をめざし老人は高野をめざす」か。
コメント
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