プリファブ・スプラウトは1992年にコンピレーション・アルバムとして『ア・ライフ・オヴ・サプライジズ』をリリースしており、その際にパディ・マクアルーン自身によるライナーノーツが掲載されたのだが、その中の文章を引用してみる。
「エルヴィス・コステロは、世界史上最悪のギグのあと、ロンドンにある現代美術館のトイレで『”tuppentup”とは何か』と質問したのか? それに、彼は相変わらずコンサートで『クルーエル』を歌ったのか?」
内田久美子による訳なのであるが、決して訳が間違っているということではない。そもそも原文にこのような文章が存在しないのである。こんな不思議なことがあるのだろうか? おそらくリリース直前になってパディはこの部分を削除したのであろうが、既に渡された原文を訳し終わっていた日本盤にはそのまま掲載されたのだと思う。
文章を読む限りではパディはエルビス・コステロが好きではないニュアンスを感じ、色々調べてみたらノース・イースト・ミュージックマガジン社(North East Music Magazine)の「ヘルター・スケルター(Helter Skelter)」という音楽雑誌の1981年2月/3月合併号のインタビューにおいてパディはヴァン・ダイク・パークスやジョン・レノンやビーチ・ボーイズは高く評価しているが「コステロ、僕は大嫌いだね。あの乱痴気騒ぎが何なのか全く分からないんだ(Costello, I dislike intensely. I really don't know what all the fuss is about.)」と語っているのである。どうやら当時ニュー・ウェーブと呼ばれていた音楽が好きではなかったらしく、だからコステロに自分の曲を歌われることは不本意だったのであろう。そういうわけで内田久美子の訳は現地の音楽雑誌を読めない日本人にとっては有益だったと言える。ここではプリファブ・スプラウトの「クルーエル」を和訳しておきたい。
「Cruel」 Prefab Sprout 日本語訳
残酷さは僕たちみんなを自由にするゴスペルだ
そして僕から君を奪っていくんだ
君のための僕の哀歌以上に心を込めたシカゴ・アーバン・ブルースはない
僕は寛大な男で牙をむかずに男らしさを切望することに対しては冷めているし
ケーキの上にのったチェリーにも興味がない
偽善的な笑顔で僕の言うことは変えられてしまい
過去の日々を後悔しながら僕が時間を浪費している間に
「完璧さ」から「まあまあ良いだろう」となった
えっ、僕が何をするかって?
僕を強欲と呼ばないで欲しいけれど
神よ、もしも彼が君と抱擁するならば
僕は嫉妬の権化となる
世界は自由であるべきだけれど
君は先例に従わないのか?
僕の心は調整させられる
それは公平中立とはいえないが
僕がどちらかに傾倒するわけにはいかない
これらの感情を守ることは難しい
「引きこもった(too pent up)」友達よ
それは残酷だ
それは残酷で
残酷以上に残酷だ
でも残酷さは僕たちみんなを自由にするゴスペルだ
そして僕から君を奪っていくんだ
愛は優しく、そして血をほとばしらせるべきなのか?
あるいは不屈以上に不屈で誇れる以上に誇るべきなのか?
もしも僕が君のスカートのプリーツの全てに悩ませられるのならば
僕は男性が与えるあらゆる傷に対して有罪なのか?
でも紫の散文に浮かれている僕が彼女の衣服を通じて彼女の体型を見分けられない時
僕はその「モダン・ローズ」をどのように描けばいいのかわからない
えっ、僕が何をするかって?
僕を強欲と呼ばないで欲しいけれど
神よ、もしも彼が君と抱擁するならば
僕は嫉妬の権化となる
世界は自由であるべきだけれど
君は先例に従わないのか?
僕の心は調整させられる
それは公平中立とはいえないが
僕がどちらかに傾倒するわけにはいかない
これらの感情を守ることは難しい
「引きこもった」友達よ
それは残酷だ
それは残酷で
残酷以上に残酷だ
でも残酷さは僕たちみんなを自由にするゴスペルだ
そして僕から君を奪っていくんだ
残酷さは僕たちみんなを自由にするゴスペルだ
そして僕から君を奪っていくんだ
アーバン・ブルースに対する僕の貢献
しかしエルビス・コステロの「クルーエル」を聴いてみるとまるでコステロ本人が作ったような曲に聴こえるから不思議である。
Elvis Costello- Prefab Sprout cover 'Cruel'