MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

膨れ上がるジャンルに追いつかない批評

2017-09-08 00:08:57 | Weblog

 川村湊の『村上春樹はノーベル賞をとれるのか?』(光文社新書 2016.9.20)は多少タイトルで損をしている気がしなくもない。本書の中心テーマはこれまでのノーベル文学賞の軌跡を辿ったもので、決して村上春樹を特化している訳ではないからである。
 本書で注目すべき部分は去年ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランに関する記述であろう。

「最近、シンガー・ソング・ライターのボブ・ディランにノーベル文学賞を、という動きがあるそうだが、ポップ・カルチャーとしての歌詞に与えられることはまずないと考えられる。それならば、ザ・ビートルズのジョン・レノンがどうして受賞しなかったのかという議論も出てくるだろうし、フランスなら、シャンソンの名曲『枯葉』の作詞者として、国民的人気のあったジャック・プレヴェールのことが蒸し返されるに違いない。ミステリーやSF、ファンタジーを排除してスウェーデン・アカデミーが、ポップ・カルチャーの代名詞のようなポップ・ミュージックの担い手にわざわざ猛烈な非難を承知で、授賞するリスクを負うとは考えられない。ボブ・ディランの名前の基になったという英国の詩人のディラン・トマスも、彼の受賞を喜ぶとはとても思えないのだ。」(p.154-155)

 ここにはいくつかの誤解があると思う。ジョン・レノンは40歳で、ディラン・トマスは39歳で早世しており、ジャック・プレヴェールに関しては本書でも論じられている「サルトル問題」のために受賞は無理だったはずなのである。

「ノンフィクション作品も、チャーチルの『第二次大戦回顧録』への授賞が不評だったことから、禁じ手となっていると思われていたが、二〇一五年の『チェルノブイリの祈り』のスベトラーナ・アレクシエーヴィチの受賞で、ジャーナリスト、ドキュメンタリーの作家まで門戸が開かれた感がある。しかし、これは文学的ドキュメンタリーとして、例外的なものであるという見方もできなくはなく、こうした授賞傾向が続くとは思われない。」(p.156)

 つまりボブ・ディランの授賞によって「例外的」だったものが例外でなくなったのかもしれないのである。
 二〇一二年の莫言の受賞を予言していた著者でさえ授賞傾向の変化に気がつかないことを非難しているわけではない。これほど文学に関して博識な人でさえもはや文学というひとつのジャンルを全てカヴァーすることが困難になってきているのである。

 莫言の受賞がいわゆる「アジア枠」によるものであるならば今後10年程はアジア人の受賞はないであろうし、もしも日本人だとしても村上春樹にはカズオ・イシグロという「トリッキー」なライバルがいる。さらに何故村上が「東日本大震災」や「福島原発事故」について書かないのかと考えると、大江健三郎が1970年に上梓した『沖縄ノート』で2011年まで裁判沙汰になっている厳しい状況に置かれているのとは裏腹に、『アンダーグラウンド』や『約束された場所で』や『神の子どもたちはみな踊る』を書いていた頃に比べて村上は日本に興味を失っているのかもしれないのだが、「コミットメント」はどこへ行ったのか? 本書の『ノルウェーの森』に関する解説(p.194-201)は慧眼だと思った。


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