コンドル(1939)
1939年/アメリカ
タイトルによる観点の変化
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
最初に何故‘コンドル’という邦題が付けられたのか考えてみたい。この作品でコンドルが出てくるシーンは一箇所しかない。かつて試験飛行中に同乗していた機関士を置き去りにして一人だけ脱出した過去を持つマクファースンことバット・キルガロンと、その機関士が実の弟で、キルガロンに恨みを抱いていたキッド・ダップが濃霧の中を敢えて定期の郵便運搬飛行を一緒に試みた際に、コンドルがフロントガラスを割ってコックピットに入ってきて、ダップが大怪我をして動けなくなり、キルガロンに脱出を促すのであるが、キルガロンは最後まで飛行機を操縦し続けて帰還するところである。弟を見殺しにしてしまった過去を持つキルガロンが、その兄は何としてでも助けたいという感動的な物語をフィーチャーすることが『コンドル』というタイトルを付けた目的だと思われるが、原題の『Only Angels Have Wings(翼を持っているのは天使たちだけ)』は、バット・キルガロンとキッド・ダップの物語だけではなくて、作中に出てくるパイロットたち(=翼を持っていない人々)全員にスポットを当てている。
本作に登場する‘翼を持っていない人々’は誰もがエキセントリックで、最初に事故で死んでしまうジョウ・サウザーは数時間前に出逢ったポニー・リーが船で帰ってしまう前に会いたいという一心で濃霧の中を無理して着陸を試み失敗してしまう。キッド・ダップがバット・キルガロンと同乗することになった理由は、視力検査表を丸暗記していたダップの視力が飛行機の操縦が無理なほどに弱っていたからである。更にラストでは何と、銃の暴発で左肩を負傷した主人公のジェフ・カーターと転んで右腕を骨折したレス・ピータースが、それぞれの片腕を使うことで飛行機は操縦できるという安易な発想で2人で郵便物を運ぶために喜び勇んで飛行場に向かうのであるが、そもそも作中の飛んでいる飛行機も明らかに模型だと分かり、人々が実は‘翼を持っていない’ことを暗に強調するのである。
この‘片端’のストーリーのデタラメ振りには唖然とさせられるのではあるが、最後にジェフ・カーターが自分の本心をポニー・リーに打ち明ける道具として使われたものこそ両面が表に偽造された‘片端’のコインではなかったのか? このような‘片端’の倒錯した表現が『コンドル』ではなく『Only Angels Have Wings』を特異なものにしているのである。
しかし個人的に感心した場面は冒頭の方でボニー・リー役のジーン・アーサーに「No more Monkey Business」というセリフを言わせておきながら、その13年後の1952年に『モンキー・ビジネス』という作品を監督してしまうハワード・ホークスのデタラメ振りである。
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エグザイルが「boy band」というのは確かに奇妙で、英語のウィキペディアでも
「Japanese pop dance group」と紹介されている。英国のインディペンデント紙記事の
筆者が安住淳のサイトまで調べて、彼のエグザイル好きを掘り当てたところまでは
私も感心するが、その後の記事の書き方が甘いと思う。「安住氏の専門分野は?」という
質問に対する、「エグザイル(=the work of Exile)が得意分野らしい」という回答に、
「それは金融政策の謎の達人のことか(=An arcane monetary policy guru)?」
という返しは面白くない。「それは日本人の北朝鮮“亡命”対策のことか」が正解だと思う。