ケンのブログ

日々の雑感や日記

雨降り

2018年12月20日 | 日記
もう今年も本当に残り少なくなったなと思って
今年の暦を見てみると明後日はもう冬至になっている。
本当に早いなとおもう。
ということは冬至の翌日からはもうだんだん
日が長くなっていくわけで、本当に
たゆまず時は流れていくなとおもう。
ファーストフードの店で並んでいたら
僕の前のおばちゃんが飲み物を注文した。
店員の方が「いっしょにお食事はいかがですか」と言った。
「もう、喫茶店のモーニング食べた。
おなか、いっぱい」とおばちゃんが言った。
「失礼いたしました」と店員の方が言った。

今日は小雨模様の天気。
小さな水溜まりもできている。
隣の町の歩道で向こうから4才くらいの男の子と
お母さんが歩いてきた。
男の子の右手に小さい水溜まりがある。
男の子は水溜まりを避けずに
むしろ
水溜まりの方に入っていった。
きっと、買ってもらった長靴が
水溜まりで通用するか確かめているのだと思う。
僕が見たところ長靴は小さな水溜まりでは
十分にその機能を発揮しているようだった。
男の子は自分の長靴と水溜まりを見て
それを確かめるようにしていた。
男の子が水溜まりを避けるかと思って
僕は水溜まりの方向に行ったので
男の子が水溜まりで一瞬立ち止まるの待っていた。
お母さんは、僕が歩を緩めていることに気づいて
「そんなとこにいたらじゃま」と男の子に言った。
まあ、男の子も一瞬で長靴の効果を確かめることができて
よかったと思う。


脳ミソが筋肉

2018年12月19日 | 日記
今日、久しぶりにお会いして
「やっと寒くなりましたね」と挨拶してくださった方がいる。
きっと異常なほどの暖かさが続いたのでそのような挨拶を
くださったのだろうと思う。
寒いのはしんどいけれどやはり気温も
季節相応というのがいいとは思う。
この時期気温が下がってくるとクリスマスのシーズンだな
という気持ちも強くなってくる。
ラジオのFM放送でも今日などはかなりクリスマスソングが
しめるウエイトが高くなっている。
そういう時期なんだなと思う。
たまにはAM 放送を聴こうと思っても
しばらく聴いているとまたFMに切り替えてしまう。
きっと話が中心の放送より音楽が主体で
その合間に話が入るというパターンの放送の方が
僕は好きなのだと思う。
今もそうだし、以前もそうだった。
ただ、昔は若者向けの放送を
今は中高年向けの放送を聴くことが多い。
たまに若者向けの放送を聴いても
すぐにまた、中高年向けの放送に
切り替えてしまう。
そういうところは歳かなと思う。
ある女性作家の小説を読んでいたら

あの人、身体が筋肉質なのはいいけれど
脳ミソまで筋肉なのは困るわ

というような台詞が出てきた。
もし影でそんな風に女性が言っているとしたら
ちょっと怖いなと思った。

先日電車の4人がけの優先座席が空いていたので
まあいいかと思いそこに一人で座って新聞を
読んでいた。
二つ目くらいの駅でスポーツマンという感じの
若い3人組がその4人がけの優先座席の
僕が座った以外の3つの座席に座り
かなり大きな声で話し出した。
僕はこれはたまらん、これでは新聞が読めへんわ
と思って席を立った。
するとその3人組の一人が
「ラッキー、ひとつ席空いたで」と言った。
僕の死角にいたもう一人の若者が
その4つめの席に座り
4人掛けの優先座席でかなり
大きな声で話し始めた。
こういう人にあるいは脳ミソが筋肉という形容が
当てはまるのかもしれない。
優先座席を占拠して大声というのはちょっとまずい気がするので、、、。
ただ、一人ひとりはいい人でも
グループになると急に怖くなるということもある。
その場の勢いでついということが、、、。

十二月十八日 終い観音

2018年12月18日 | 日記
十二月十八日という日付を書いて
今日は終い観音つまり今年最後の観音の日だなと思う。
昔使っていた大きなダイアリー式のノートに
毎月十八日は観音の日と書いてあり
特に十二月十八日は終い観音、一月十八日は
初観音と記してあった。
年末は今年最後を意識するし年始になれば
その年最初を意識するものだなと思う。
金光さんは日々の心がけが大切という考えのようで
毎日が大晦日であり元日のつもりで日々お祈りして
おかげを受けていくことが大切。
なにかが起きてからのうろたえ信心では間に合わないことが
多いという趣旨のことを言っておられるけれど
そういう考え方を大切にしていきたいなと思う。
本当に金光さんの話というのは現実に則したものが多くて
読んでいてありがたいなと思う。
例えば田んぼにいて怪我をしたときは
泥を落としたり肥をおとしたりしてから
祈っていたのでは間に合わない。
その場で泥がついていてもいいから
まず祈ることが大切という趣旨のことが
書いてあるけれど
そういうのは本当にその通りだなと思う。

ベートーベン第九交響曲 今年もあと少し

2018年12月17日 | 音楽
昨日はシンフォニーホールに大阪フィルハーモニー交響楽団
ベートーベン第九交響曲演奏会に行った。
大植英次さんの指揮。
ワーグナーのジークフリートの葬送行進曲に
続いて
ベートーベンの交響曲第9番ニ短調作品125が演奏された。
シンフォニーホールで大阪フィルを聴くのが
ずいぶん久しぶりのように思うし
大植英次さんも大フィルの音楽監督時代は
ほとんど聴いてなくて
今回が2回目くらいの気がする。
なんか聴いていると重厚だけれどどこかくぐもった音、
ときどき演奏にそこはかとなく漂うぎこちなさ、
管楽器のなんとも乾いた響き
など、朝比奈さんの時代から慣れ親しんだ
大フィルの負の特質なのか、正の特質なのか
よくわからない特質が
他の指揮者の時よりもよりいっそう感じられるように思える。
朝比奈さんがなくなってもう15年以上になるし
新しいオーケストラのメンバーのかたも
いらっしゃるのに昔なつかしい特質が
のこっているのは不思議だなと思う。
指揮者の大植英次さん
見ていると肩をいからせたり両手をからだの手前で組んだり
腕を目いっぱい伸ばしたり、時にはぐるっと回したり、
なかなかユーモラスな指揮姿だなと思う。
そんなことをあれこれ思ったり見たりしているうちに
演奏は第二楽章に
ファゴットの奏者の方がはすに構えるような感じで
一生懸命演奏しておられるのがとても目につく。
第二主題でホルンをかぶせたけれど
それほと音楽がダイナミックになったわけでもない。
そんなことを考えているうちに第二楽章が終わった。
第三楽章が始まる前に
合唱団が入場するだろうと思って
のんびり構えているといつのかにか
アダージオの演奏が始まっている。
そうか第四楽章の前で合唱団をいれるのかと思った。
通常は第三、第四楽章はそれほど合間をいれずに
演奏するけれど、今日はどうするのだろうと思った。
そうこうするうちに第四楽章が始まっている。
まだ合唱の人は誰もステージにいない。
第九交響曲のコンサートたぶん30回以上いっていると思うけれど
誰も合唱の人がいないステージで
第四楽章が始まったのはこれが初めて。
最初、これは何かのジョークで途中で演奏を止めて
大植さんから何かの説明があるかもと思った。
ところが演奏が止まる気配はない。
第一楽章から第三楽章のテーマを回想して
チェロが歓喜のテーマを奏で始める。
柔らかい奏で方でなかなかいい感じ。
そのタイミングでバリトンの方がステージに入ってきた。
こんなタイミングで人が入ってきたら聴き手の集中がそがれるがな
と思った。
それから歓喜のテーマが弦楽器さらにはオーケストラ全体に
受け継がれる過程のなかで独唱者、続いて
合唱団がステージに入ってきた。
オーケストラが高らかに歓喜の歌を奏でるタイミングで
合唱団がステージに入ってきたときには
なんやこんなくさい演出と思いつつも
目に涙がにじんでいた。
やっぱりベートーベンはすごいなと思う。
特にどこがどうということを思った演奏ではなかったけれど
この歳になって、初めてみる演出を見られたことは
よかったと思う。
コンサートがひけたあとおばちゃん二人が
「これを聴いたらやっぱり今年も
あと少しと思うな」と言っていた。
そうだなと思う。

ドイツカンマーフィルハーモニー管弦楽団兵庫公演12月15日

2018年12月16日 | 音楽
昨日は兵庫県立芸術文化センターにドイツカンマーフィルハーモニー
管弦楽団のコンサートを聴きに行った。
指揮はバーヴォ ヤルヴィさん

最初に演奏されたのが
モーツァルト ドンジョバンニ序曲K.527
イントロを聴いた時点の音のキーンという感じ
ちょっとドライな響きで
ピリオド奏法的な演奏であることがわかる。
オーケストラも指揮者の左手にバイオリンがたて3列で
小さい編成、指揮者の左手からファーストバイオリン
チェロ、ビオラ セカンドバイオリンの対向配置になっている。
乾いた響きのなかで音楽の悲劇的な要素が
色濃く出ていたと思う。
音楽がギアチェンジして速度がはやくなるところでは
一気に雰囲気が明るくなるかと思ったけれど
さにあらず、かなり控えめに演奏は展開していく。
普段、僕がドンジョバンニ序曲を聴くときは
ギアチェンジして音楽が明るくなってからは
それなりの高揚感を期待するので
ちょっとこういう演奏の展開はどうなんだろうとも
思ったけれど表現が控えめな分
この曲が内包する悲劇的な要素が現れているのかも知れないと思った。
まあ、フィニッシュに近くなるとそれでも
演奏はそれなりに盛り上がっていったけれど、、、。

次に演奏されたのが
ヒラリー ハーンさんバイオリンソロで
モーツァルト バイオリン協奏曲第5番 トルコ風 K.219
第一楽章
ハーンさんは拍子にあまりためを作らずに演奏されるので
端正でほどよい緊張感がある。
独奏が途切れたところでハーンさんは
オケのファーストバイオリンの奏者に目配せして
何かのサインを送っておられる。
目配せの時のしぐさから想像するときっと
拍子の取り方などのサインを送っておられるように思える。
そのためか、オーケストラとバイオリンソロの
演奏のテンションがよくあっていたと思う。

第二楽章
バイオリンのソロが入る前、オーケストラだけの演奏の部分は
音楽が持つ独特の哀愁が表現されていてよかった。
バイオリンの独奏はオーケストラに比べると端正だったけれど
不必要に華美にならず、内面的なものを表現されていたと思う。

第三楽章
トルコ風メヌエットの直前でおどろおどろしいフレーズの
伏線のようなところでヒラリーさんが
オケのファーストバイオリンの方に
目と脚の踏み込みで何か合図した。
「ここ、頼むわよ」と言いたげな感じで。
いざ音楽がトルコ風メヌエットに突入すると
本当にオーケストラがおどろおどろしいフレーズを
おどろおどろしく弾いていたので
きっとあのときのヒラリーさんの目配せの
合図はこれだったんだなと思い、
なんかあれは興味深かった。
ここでもヒラリーさんの演奏は端正で
ほどよい緊張感があった。
特に華美なステージというわけではなかったかれど
僕の目は指揮者ではなく絶えず
ヒラリーさんの動きを追っていたので
やはり彼女にそれだけ存在感があったのだと思う。

ヒラリーさんはアンコールの一曲目に
バッハの無伴奏パルティータから
プレリュードを演奏してくださった。
これは同じ音型を何度も繰り返すところが
かなり見事でモーツァルトのコンチェルトの時よりも
多くのブラボーの声が演奏に寄せられた。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのは
シューベルト交響曲第9番 ザ グレイト

第一楽章
序奏で出てくるホルンのテンポが速い。
子供の頃ブルーノワルターのレコードでこの曲を
聴いていた僕にとっては何か違った曲のようにも
思える。
ちょっと戸惑いつつも、それでもシューベルトのこの曲が
スピリチュアルであることに変わりないなと思う。
ただ序奏から主部に至る過程のなかで
ブルーノワルターが加速しているところで
ヤルヴィさんも加速していたりするので
そういうところは興味深かった。
目の前にあるものを自分の過去の記憶と
結びつけようとするのは歳をとった証拠かもしれないけれど、、、。
主部に入るとテンポが速い分
この音楽の持つダンスの要素に
今まで以上に気づかされることになる。
そういうところは演奏のお陰だなと思う。
音はオケが対向配置で少人数のわりには
厚みがあったと思う。
随所に音が跳ね上がるような場面があったけれど
そういうところはヤルヴィさんの指揮の気合いが
オーケストラによく伝わり
瞬間的に爆発的な音が出ていた。

第二楽章
速いテンポでマーチ風に演奏が進む。
こんなテンポできくのははじめてと思い
戸惑っていたけれど
中間部はそれなりに美しかったし
楽章が終わる頃には速いテンポが生む緊張感に
自分がひきこまれているのに気づいた。

第三楽章
もともと速い楽章だけれど
演奏のテンポも聴きなれたものより
速かった。
しかし、意外と平板だなと思った。

第四楽章
冒頭はブラスのでかい音がくるかと
心の準備をしたけれど
意外とソフトな音が来た。
それを聴いて第一楽章の終結部も
ソフトに演奏されたことを思い出した。
こういうところは意外と呼応しているのかもしれない。
速いテンポで音楽が流れていった。

本当に遅めのテンポのレコードを聴きなれた
僕にとって戸惑うことも多い演奏だったけれど
それによって気づくことのあり
この機会にこういう演奏が聴けてよかったと思う。