5月18日愛知芸術劇場コンサートホールに名古屋フィル定期演奏会を聴きに行く。
指揮はアンガス ウェブウスターさん
最初にJ ウィアー作曲のニュー エヴリ モーニング が演奏される。
演奏を聴きながらラヴェルのダフニスとクロエの夜明けを思い浮かべたり、先月末に名フィルのメンバーの方の演奏で聴いたメシアンの音楽は木管は鳥の鳴き声という印象だったけれど この曲は鳥の鳴き声かな それとも 朝の心象風景かな などど演奏中に考えていた。
金管の音を聴くと これはきらきらした輝きだなとか考えていた。
金管が輝きに聞こえる音楽って僕にとってはシベリウスだけれど このニュー エブリ モーニングは スコットランドで初演されたと演奏会のプログラムに書かれている。
スコットランドと シベリウスのフィンランドの共通点は緯度が高いことかなと思う。
地図で見ると スコットランドはフィンランドほど緯度が高くないけれど それでもヨーロッパの中では スカンジナビア半島をのぞけば最も緯度の高い地域になる。
何となく 緯度の低いところは灼熱の太陽 そして高緯度のところでは きらめく太陽、そんな感じなのかなと考えてみたりした。
というよりも 高緯度の場所は 光と影という印象なのかもしれない。影が多いから日が差すときらめく そんな印象なのかもと思った。
演奏が滑らかに進んでいくので 指揮者の動きを見ると 滑らかだった。
結局は指揮者の動きの通りの音が出るんだなとか 考えていた。
次に演奏されたのがヴィオラ独奏パク ハヤシ さんで
ウォルトンのヴィオラ協奏曲1961年版
演奏を聴いていて もう 僕にとって20世紀の音楽は 決して退屈なものではないのだなと感じていた。
20歳代のころまでは 何となく 20世紀の音楽って退屈 と思っていたけれど もうそういう感覚は 自分の中からだんだんなくなってきているな と思った。
若い演奏家の方も どんどん20世紀の作品の演奏なさるし そういう音楽を聴く機会が増えて慣れてきたというのもあるし やはり 時代が進んできているのだと思う。
それで ヴィオラ協奏曲がどんな演奏だったのかというと あちこちの楽器に目移りしているうちに どんな演奏なのだか 忘れてしまった。
演奏の途中で コンサートミストレスの方が かなり 意欲的に指揮者の傍らから オーケストラに向けて気を送っておられるな と思い始めた。
どこかに 視線を向けて気を送っておられるのだけれど その 視線の先がどこは 僕の席からは判別ができなかった。
でも あれこれ 目移りしているうちに 演奏が終わっていた。
20分の休憩をはさんで
ドボルザークの交響曲第7番ニ短調作品70が演奏された。
第一楽章 第二楽章を聴いていて ドボルザークの音楽は本当に 心をホッとさせてくれる何かがあるんだな としばしば感じた。
これは この曲に限らず 新世界から でも 交響曲イギリスでも 感じることなのだけれど。
こういう 戦争の時代になると こういう ほっとさせてくれる音楽が とてもいとおしいものに思えてくる。
演奏は フォルテでも音量がそれほど 大きいものではなく 先月小林研一郎さんの指揮で聴いたスメタナのわが祖国とは ある意味 対照的だったけれど 僕は 名フィルをきき始めて 案外 音量を抑え気味の時に これって 結構いいやん と思うことが多いように感じる。
第三楽章あたりから コンサートミストレスの方が さかんに オーケストラに気を送っておられるけれど あの気は あまりにも意欲的で 指揮者がオーケストラに送っている気と ちょっと方向性のずれがあるかも と思い始めた。
指揮者の方は 案外 のほほんと そして 滑らかな感じだったので、、、。
あと 指揮者が 突発的に 強い気をオーケストラに送る場面が何度かあったけれど それに オーケストラがあまり反応していないと 感じられる場面もあった。
そんな あれこれが 気になり始めてからは 演奏を聴く 集中力がちょっと落ちてしまい、聴く側の僕にとっては演奏の後半は若干不完全燃焼になってしまったようにも思う。
でも まあ いろいろと 聴いたり 見たり 楽しい演奏会だった。
演奏会が終わったのが18時くらいだったけれど まだ 外は 明るかった。
「外はまだ 明るいね」と話しながら帰途に就く人もいた。
本当にもう夏至も近いなと思う。
それはともかく 一日 いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。