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「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

今年は、非転向で獄死の飯島喜美没後75周年

2010-02-12 00:09:20 | 多喜二研究の手引き
特高警察に逮捕、非転向で獄死/飯島喜美の没後75周年/

 今年は、戦前、特高警察に逮捕され獄死した女性日本共産党員・飯島喜美の「没後75周年にあたります。


喜美は、1911年、千葉県旭市の、ちょうちん職人の家に13人きょうだいの長女として生まれ、小学卒業後、すぐに女中奉公に出て、15歳で、『女工哀史』の舞台となった東京モスリン紡織亀戸工場に入りました。

 工場は2交代12時間の過酷な労働と、低賃金、強制的な天引き貯金、監獄のような寄宿舎では読む本も制限されて手紙も開封されていました。

 喜美は、工場でひそかに開かれていた、科学的社会主義の研究会に参加。28年の賃上げ要求ストライキでは、16歳で500人の女工たちのサブリーダーを務め、会社側に要求を認めさせました。

1929年の4・16弾圧(天皇制政府による日本共産党と支持者へのいっせい検挙)で喜美も亀戸署に検束されますが、それに屈せず、日本共産青年同盟(共青)に加盟、5月に日本共産党に入党。翌30年には、労働組合の国際組織プロフィンテルン第5回大会に、日本の女性として初めて参加しています。

 帰国した1931年10月は、中国東北部への侵略開始(31年9月、いわゆる「満州事変」)の直後でした。喜美は、重大な情勢のなか反戦運動を広げるために、日本共産党中央婦人部で、女性労働者を組織する活動にとりくみました。

「赤旗」1932年7月15日付の「戦争が拡がる 婦人は起(た)って反対せねばならぬ」というよびかけなどに喜美の活動の様子がうかがえます。


飯島喜美は、1933年ごろ川崎の工場で働き、共産青年同盟神奈川地方組織の再建活動のさなかにスパイの手引きにより同年5月逮捕されます。

獄中で結核となり、まともな治療もされないなかで、信念を貫きましたが、1935年12月18日、24歳の誕生日の翌日、栃木刑務所で獄死しました。

 
 

残忍な拷問に屈せず非転向を貫き、栃木刑務所で獄死。24歳でした。「闘争・死」と刻まれた真ちゅうのコンパクトが遺品となりました。
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