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「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

琉球処分-戦後"沖縄"自己処罪の位相

2021-09-12 16:07:48 | 多喜二研究の手引き
戦後、本土において多角的に究明された天皇(制)の問題は、ほとんど戦前、戦中世代による自己処罪の位相においてなされたものだが、明治以来の皇民化教育の成熟を極限まで発現した沖縄の戦前、戦中世代は、唯一の国内戦となった沖縄戦で、日本近代史の一大挫折を文字どおり血を浴びて生きのびてきていながら、目撃した大量の死と極限状態における醜怪な人間関係や自ら浴びた血の意味を問いつめて、日本資本主義の実体を構成した天皇(制)イデオロギーの偽意識の根拠を掘りかえし、崩壊させていく思想の営みをなんら形あるものとして表出していないのである。個人的体験に即していえば、明治政府の富国強兵政策にもとずく性急な同化策の方法として強化された皇民化教育の畸型的な肥大の過程で、方言使用の罰札を首にぶら下げながら、滑稽な燕尾服姿の校長が朗唱する教育勅語なるものを拝聴しても、それはさっぱり意味のわからないものでしかなかった。
 いわば馴染みのない祭式の呪詞として聞きながすほかなかったのである。
 白い被衣を着て、神歌をうたいながら村のお嶽で踊る司女(のろ)たちの祭式にくらべて、天皇(制)にまつわる種々の儀式は、いってみれば「異神」の祭として感受されていたように思う。そういうわけで、天皇信仰も天皇(制)思想も、主体のなかに核を形成しないうちに戦乱へ投げこまれたため、なんら血液のなかに澱をつくるものとはなり得なかった。
 戦中世代と違って、天皇(制)イデオロギーを内部の棘として対象化するという必然性を感じないままできたのはそのためでもある。
 しかし、復帰運動に象徴された沖縄の闘争は、昨年11月の日米共同声明によって、その内包していた矛盾を見事に国家の側から顕在化させられる結果になった。そして、大方の見解が一致しているように、日米安保強化の要石として、72年復帰が既設のレールとして敷きつめられることになった。強大な米軍事支配との直接的な摩擦に幻惑されて、国家問題をその主題から欠落させてきた沖縄は、その虚妄点をつかれ、一体、国家とはなんだ、という切実な問いかけに直面するのである。ところで、国家とのかかわりをめぐって、なにかを考えようとすると、どうしても歴史を遡及せざるを得なくなる。そして、まず立ちふさがってくるのが明治の琉球処分であり、琉球処分以降の日本国家、あるいは『本土』とのかかわり方から、第三の琉球処分といわれる72年復帰へと、わたしたちの問題意識は往復運動をくりかえすことになる。
 その過程で、国家の問題と天皇(制)の問題が切り離し難くない合わされていることを知るのである。戦後の国民的反省意識のなかで、日本は多くのすぐれた認識を導びき出した。人々が幻想を仮託するところの憲法もその一つであろう。しかし、それらのすぐれた所産も、いまは汚物をかけられ、腐臭はカンボジアへ、アジア全土へと広がりつつある。
 恥の思想、とさえ表現される程ナイーヴな自律的倫理に支えられているといわれてきた日本の、これが国民性の現実か。しかも、この逆流に竿さすかたちで、島ぐるみと呼ばれた沖縄の復帰運動は、凄まじいばかりの国家求心志向を押し進めてきたのである。そして、いまわたしたちは肥大した国家主義と向き合う瀬戸際まで追いこまれてしまっている。
 つまり、目前にのしかかってきた国家を相対化し、支配のイデオロギーを無化させることによって、国家目的にねじふせられない個々の人民の自立の根を深化させていかない限り、わたしたちの思想は一歩も前へ踏み出せない位置におかれているのである。
 国家を相対化する論理は、さしあたり近代へ遡及して、沖縄の歴史的特質を探り、今日におよんでくるのがた易い方法に思える。その過程で、天皇(制)の問題は、現在的な主題と緊密なつながりをもってくるのだと思う。
 明治政府の琉球処分とは沖縄にとってどのようなものであったか。また沖縄の歴史的条件のなかで、天皇(制)イデオロギーはどのようなかたちで受けとられ、定着していったのか。さらに戦時から戦後にかけて、どのように発現され、残存してきているか。こうした問題を考えることによって、そこから極めてオリジナルな幾つかの問題を連鎖的に引き出すことができるはずである。
 それらの問題について、わたしの力倆のおよばないものは、単に問題提起として投げ出していくほか仕方がない。


(二)

 天皇制の問題に入るまえに、まず明治以降の日本国家と沖縄のかかわり方の特質をはっきり押さえておきたい。
 第二尚王統の琉球統一にはじまる首里王府の支配は409年間続き、1872年(明治5年)、明治政府によって「琉球王国」の国号はけずられ「琉球藩」と改められ、さらに7年後の1879年(明治12年)には日支両属を嘆願する藩王および士族階級に対し、軍隊と警察を派遣してそれを圧え、「廃藩置県」を強行して沖縄の明治国家への吸収をひとまず終ることになった。
 琉球処分の意図を探る重要な手がかりの一つとして注目されるのは1871年に起きたいわゆる「台湾事件」である。つまり宮古から首里王府への献税を運搬する船が、暴風のため漕難して南台湾の海岸に漂着、品物を原住民の牡丹族に掠奪されたうえ、水夫や乗客を殺害された事件である。当時の明治政府と琉球の疎遠な関係からすれば、たかだか宮古島の貿易船の遭難など無視するのが当然だといえよう。ところが、当時朝鮮から明治新政府の承認を拒絶された日本は、対朝鮮政策の危機を深めていたにもかかわらず、急拠方向転換して、この台湾事件に関心を集中させ、その解決策にのりだした。このことは一見、唐突な感じだが、当時のアジア諸国の情勢と関連させてみると、背面からの迂回外交戦略として受けとれるものであろう。すなわち、朝鮮政府は不安定な状態にあったとはいえ、正面から武力で威圧するには日本の側の準備ができていなかった。
 同時に、シベリアの方からはロシアが朝鮮、満州へ侵略の手をのべつつあり、朝鮮との正面衝突は、満州やロシアとの戦争へ拡大される危険性をもっていた。それだけでなく、中国の朝鮮への加担という動向を誘い出す恐れもあり、また西欧列強に外交上の誅策をとらえる危険性もあった。こうした行きずまりのなかで、この台湾事件は迂回外交戦略として最大に利用され、同時に琉球への直接干渉の口実をつくった。
 しかも事件は琉球側の陳情に端を発したものだが、その後の損害賠償やそれにからむ琉球の帰属問題など、肝心の琉球側の意志は介入する余地を与えられなかった。このことは昨今の日米共同声明による復帰問題の処理の仕方と見事に符牒を合わせるもので、国家権力の支配の方法は歴史的に一貫したものとなっているといえよう。
 事件をめぐるもう一つの重要な意味は、中国をはじめとする欧州列強に対する「防衛」の問題である。G・H・カーは『琉球の歴史』のなかで「日本の防衛地域としてかくも危険な地点を、薩摩の手にゆだねて間接的な統治方法を行っていたのでは、冒険をおかしているのと同様であった」「中国が、1871年に宮古の漁夫の蒙った被害を償わなかったことは、海外における武力の必要性を唱えていた士族たちに、待望の口実を与え、同時に、帝国の国境確立を期していた政府の指導者たちの関心をひくに至った。」と述べている。
 説明するまでもなく日本国家にとって琉球・沖縄は国内矛盾を外へそらすためと、国家防衛の前哨砦として歴史的に必要とされ、同時に対外侵略の拠点として利用されてきたにすぎないということである。琉球処分をめぐる解釈では、一般にこうした国家目的が過小に解釈されるか、あるいはぼかされてきたように思う。
 たとえば「明治政府の『琉球処分』の最大の眼目は、日本の近代的中央集権的国家体制の中に沖縄を包摂することにあった。」というのが歴史家の一般的な解釈だが、結果的にはそうであっても動機としてはどうしてもひっかかりが出てくる。
 もし単に国家体制への包摂が眼目であったとしたら、その後における明治政府の沖縄政策は合理的に理解し難いのである。
 
 沖縄の廃藩置県は、「琉球処分」という迂余曲折を経て、明治12年に断行された。本土諸藩におくれること、8ヵ年であった。さらに、置県後においても、諸制度の改革は、すべておくれている。
 本土諸府県においては、明治21年(1888年)市町村制が、明治23年(1890年)府県制、郡制が公布された。これにくらべて、沖縄では、明治41年(1908年)に、特別町村制が、明治42年(1909年)に特別県制が施行された。本土諸府県におくれること、ほとんど20年、しかも、完全な自治制でなく、特別自治制であった。特別制度が廃止されて、諸県なみの府県制、市町村制が施行されたのは、大正9年(1920年)で、実に、置県以後、42年という半世紀に近い長年月を要している。
 沖縄の土地整理は、明治32年(1899年)にはじめられ、明治36年(1903年)に完成し、ただちに地租改正が行なわれた。本土では、明治5年(1872年)に土地整理が実施され、翌明治6年から地租改正が行われ、明治14年(1881年)にほぼ完成しているので、沖縄は、約20年おくれたことになる。(中略)各戸の地租額の決定は、衆議院議員選挙権決定の基準となり、沖縄県民は、これによって、はじめて、国政に参加する機会を得たのである。
 ところが、沖縄県民の衆議院議員の選挙権、被選挙権付与はなかなか実現せず、ようやく、明治45年(1912年)になって、選挙権、被選挙権が認められ(宮古、八重山では1919年から)、貴族院議員選挙権は大正7年(1918年)に認められた。本土に比較して、25年から30年もおくれて、はじめて、国政に参与する権利が与えられたのである。



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