1927(昭和2)年 24歳
小説「雪の夜」〈1・2~21〉原稿帳(生前未発表)
「人を殺す犬」改作小説〈1・27〉 原稿帳
4月発行『原始林』第21輯に、小説「万歳々々」〈2・4~5〉。「何度もホホエミながら作った。こういうことは自分にはなかった気持だ。(ノート原稿末の言葉)
新井紀一に就職斡旋を依頼。
小樽高商時代の恩師、大熊信行宛に書簡、東京での就職斡旋など依頼。
「此前『文芸春秋』に、懸賞小説を出したところ、又私のものが二篇(「最後のもの」「酌婦」)が予選に入りました」「昨年の暮頃から色々東京の知人に手紙を出して、雑誌社か新聞社のほうに口がないか、をたずねて貰いましたが、ありませんでした。それから奈良にいる志賀直哉氏とは小説を時々見てもらったり、手紙を貰ったりしている関係上頼んでみましたが、やはり思わしいところもないとのことでした。心懸けて置いてくれると云っています。」(全集未収録 大熊信行宛書簡 2月6日消印)
「大熊信行先生の『社会思想家としてのラスキンとモリス』」(『小樽新聞』2月27日号)
3月5日付『小樽新聞』「四十余名の小作人来樽―磯野氏宅に押かく」
3/6 北海道銀行余市支店・渡辺善之助のあっせんをうけ、余市実科高等女学校で『クラルテ』同人文芸講演会開催。多喜二は「ノラとモダン・ガールに就いて」講演。
前年9月から腹案の「女囚徒」一幕物戯曲(〈3・8〉『文芸戦線』10月号)を書き上げ、「『女囚徒』の自序」〈3・13〉を原稿帳に書く。
5月創刊の『山脈』に評論「詩の公式」 〈3・20〉
3月14日 片岡蔵相の失言から金融恐慌始まる
3月3日~4月9日、磯野小作争議が、日本で初めての労働者・農民の共闘でたたかわれた。銀行に勤めながらこの争議の支援をしていた多喜二は、争議の指導者武内清に依頼され、磯野側の経理内部情報を争議団へ提供して支援した。このころ乗富道夫・産業労働調査所函館支所の協力を得て、函館で北洋漁業や蟹工船を取材。
原稿帳に「父の危篤」の改作「Eternal problem」小説〈4・28〉
「マルクスの芸術観」 評論 (5・8)不詳
評論「十三の南京玉」(『小樽新聞』5月23、30日号)
原稿帳に小説「放火未遂犯人」、「その出発を出発した女」長編小説・上編〈5~6/15〉
「田口の『姉との記憶』」(『北方文芸』第4号6月)
5/20改造社主催で開催の「日本文学全集講演映画会」函館に来ていた芥川龍之介、里見を小樽に招き、小樽での文芸講演会に150人。映画は、国木田独歩「各作酒中日記」、徳富蘆花「ホトトギス」。その後、クラルテ同人主催の座談会をひらく。
5/28、病院に住みこんでいた田口タキが行方を知らせず小樽を去る。
6月19日~7月4日、小樽港湾の運輸労働者を中心とする争議が起こり、日本最初の産業別ゼネラルストライキがおこる。多喜二はこの争議に積極的に参加した。ビラづくりで助けた。評議会の提唱する工場代表者会議運動の典型として記録される歴史的闘争となった。
7月15日 コミンテルンの「日本問題に関する決議」で山川・福本批判(1927年テーゼ)
8月、労農芸術家連盟に加盟。
佐野碩、久板栄二郎、来道。
原稿帳に小説「営養検査」〈8・5〉、「築地小劇場来る」〈8月〉
芥川龍之介7月24日未明、「ぼんやりした不安」を理由に、遺書を残し服毒自殺。
8月、築地小劇場がクラルテのメンバーの世話を受け、小樽中央座で、実篤「愛欲
※『キネマ旬報』誌9月号に「最近のソビエト映画界」(モスクワ滞在中の蔵原惟人によるもの)、現地で見た「戦艦ポチョムキン」を詳細に論じている。多喜二がこの名作を「戦闘艦ポチョムキン」と表記しているのも、蔵原論文にならったと思われる。
」チェーホフ「熊」を公演。
9月ころ労農芸術家連盟小樽支部幹事。
9月古川友一が主宰する社会科学研究会に参加、労働農民党小樽支部、小樽合同労働組合の活動家たちとの関係をふかめる。
多喜二の勤めていた拓銀小樽支店の同僚工藤誠吉の住まい近くの売春窟を題材に、「残されるもの」小説(〈9・14〉『北方文芸』10月発行第5号)
原稿帳に「酌婦」改作小説。
※辻君子「酌婦」「最後のもの」(9月)(「師走」改作)を書き、郷利基の名で『文芸春秋』に応募。予選入選。
「最後のもの」は『創作月刊』2月創刊号に川端康成、片岡鉄兵、小島政二郎、橋本英吉、秀島彬らの顔触れのなかに掲載された。
10月 芥川龍之介「或る阿呆の一生」「歯車」、志賀直哉「邦子」、中野重治「芸術に関する走り書き的覚え書」
1幕4場の戯曲「山本巡査」〈10・24〉は、前衛芸術家同盟の機関誌『前衛』に送られたが、掲載されなかった。12月 小樽映画鑑賞会が創刊した機関誌『シネマ』に評論「チャップリンのこと其他」〈10・31〉
小樽映画協会会員名簿には、多喜二とタキの名がならんである。
11月11日に築地小劇場が再び来樽、ゲーリング「海戦」、ローラン「狼」を公演。ピアノの手配など世話をする。
1927年11月集産党事件。名寄を中心に士別、稚内などで40人以上が逮捕拘束された国内で2番目、道内では初の治安維持法弾圧事件。第1次大戦後、名寄駅や機関庫の労働者を中心に多くの文芸誌が発刊され、70人余で名寄新芸術協会を発足。27年の磯野小作争議と小樽港湾争議、中国への出兵反対のたたかいに参加した同協会の青年たちは同年、社会主義をめざす組織として集産党を結成した。
11月12日、労農芸術家連盟の分裂により組織された前衛芸術家同盟に参加。3月から原稿帳に書きつづけた長編「その出発を出発した女」〈11月〉を中編でやめる。
評論「『海戦』を中心の雑談」(〈12・17〉『シネマ』28年1月号)
11月21日、小樽市中央座で上演された築地小劇場の演劇、ドイツのプロレタリア作家ゲーリング作『海戦』を見て「自分は幕が下りた時、興奮したまま『戦闘艦ポチョムキン』を考えていた。その二つの間に、しかし厳然として存在している大きな画線について考えた」と書き、「築地の『海戦』(もう少しだ)」「『海戦』を中心の雑談」、『シネマ』誌1928年新年特輯号)。対象となった『海戦』が反戦劇であること以上、多喜二は明らかに自分の制作中の作品を、「戦艦ポチョムキン」とくらべ、「もう少しだ」としている。
12月、「防雪林」を起稿。
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