このたび発掘された多喜二「スキー」。
私が編集者だったら、改題をすすめる。
タイトルは「ある廃兵の再就職」。
「廃兵」は、現在の言葉でいえば「傷痍軍人」さらに「戦傷病者」という柔らかい言葉となっている。
しかし、「廃兵」のほうがインパクトがあるし、多喜二の意図に沿った言葉だろう。
小学生のころ、上野や銀座に行くと
道端で、入院したけが人の着る白衣に包帯を巻き、
アコーディオンの音色をバックに土下座して金品を請う数人を目にする機会があった。
私が小学生といっても10歳を超えていたのだから、
白衣の人々は、戦争が終わって20年ほどがたっていたといっていい時期だと思う。
もう銀座の街頭で目にするのは、托鉢の坊主ぐらいだ。
この坊主の足袋が真っ白のままで、汚れていないことでどの程度の坊主か分かる年に私もなにった。
あのときの街頭の傷痍軍人さんたちは、今はどうされているでしょう。
亡くなられた方もお元気で過ごされてる方も、
戦争によって狂わせられた人生の軌道を告発するパフォーマンスだと思いたいところですがどうでしょうか。
多喜二「スキー」は、スキーは軍事的な要請でとりいれられた武術のひとつであることが意識されている。雪遊びの「スキー」ではない。そしてそれが「廃兵」によって演武されようとして、されえない悲哀が描かれている。
それも体制側の立場の「国民新聞」紙上で。
18歳の青年の知的戦略を、私は「スキー」の作に見ることことができる。
そして、廃兵―老残となったT先生に老いのわが身をふりかえりつつ、高齢者の再就職につきまとう過酷な現実と滑稽さをしみじみと噛みしめている。
18歳の多喜二、おソルべし!!
このほど発見された「スキー」は、老いぼれ廃兵が拾われて体操教師として再就職し「T先生」となったものの、軍事教練で必要なスキーができず、やむを得ず生徒たちにスキーを習うが、日露戦争で腰を負傷したため、うまく行かず、生徒たちに嗤われるという、哀れな先生に同情を感じさせる原稿用紙400文字・6枚半の短編小説。
【笹川良一】戦傷病者特別援護法制定25周年 記念式典
傷痍軍人と呼ばれた戦傷兵の収容と看護は法の成立・改正により次の様な変遷を経ている。
日露戦争開戦2年で大量の傷病兵の本土への帰還をみ、1906年(明治39年)4月廃兵院法成立後、廃兵院が各地に設けられた。
1934年(昭和9年)3月の傷兵院法によって廃兵院は傷兵院と改称され、1938年(昭和13年)厚生省が設けられ傷兵院は厚生省外局の傷兵保護院に所属とした。その翌年には傷兵保護院は軍事保護院に改称され、付属として各地に傷痍軍人療養所が併設された。
●札幌 スキー連盟ホームページより
クロスカントリースキーの歩み
誰もがスキーを始める時は、まずスキーを履き歩くことから始める、これがクロスカントリースキーの原点である。
クロスカントリースキーはスカンジナビア半島において古くから盛んで、ノルウェーが発祥の地とされ、文献によるとノルウェーの島に有る洞窟で、4000年以上前のクロスカントリースキーの壁画が発見されたと記載されている。北欧ではクロスカントリースキーが、古くから冬季の生活に欠かせない交通、狩猟及び戦争の手段として用いられてきた。
クロスカントリースキーが、生活に溶け込み、楽しみ、そしてスポーツ的になったのは、1867年(明治元年)ノルウェーのクリスチャニア地方で、始めてスキー大会が開催され、国王が国技と定めたとされている。また1879年(明治12年)に、競技大会で世界最古といわれる、第1回ホルメンコーレン大会が開催され現在に至っている。
日本にスキーが初めて渡来したのは、1908年(明治41年)現北海道大学(前札幌農学校)に講師として赴任した、スイス人のハンス・コーラ氏が両杖スキーを持参し、大学構内で滑ったと北海道大学スキー史に印されている。
正式な日本スキー発祥の地は、1911年(明治44年)現上越市(前高田市・金谷山)で、オーストリアのレルヒー少佐が来日し、一本杖スキーを高田連隊の将校10名にスキーを教えたのが、日本スキーの発祥地とされ、現に金谷山に「日本スキー発祥の地」の碑が建立されている。発祥地を決定するのに、札幌と高田と論争になつたとも記載されている。
当時陸軍省が軍隊にスキー技術を訓練させ、有事の際にスキーで行軍するために、レルヒ少佐を招聘して指導してもらったとされている。
レルヒ少佐は来日の翌年、1912年(明治45年)2月旭川第7師団で隊員にスキーの指導を行い、帰り小樽市花園公園で市民にもスキーの指導を行ったと記載されている。
競技会については、1912年(明治45年)1月レルヒ少佐が指導を行った高田市・金谷山で滑降競技が行われ、これが日本初のスキー競技会とか、大正初期は甲信越と北海道で地域的なスキー競技会が行われていたと記載されている。
日本の全国的規模な公式スキー競技大会は、1923年(大正12年)小樽市で、第1回全日本スキー選手権大会(種目クロスカントリー1Km4Km10Km8Km、リレー、テレマークスラローム、クリスチャニアスラローム、ジャンプ)が大日本体育協会主催で開催されたのが最古である。
次に現在も行われている古い大会は、第1回全日本学生スキー選手権大会(種目クロスカントリー30Km15Km28Km、リレー、ジャンプ、コンバインド)が1928年(昭和3年)青森県・大鰐町で開催され現在に至っている。
また、選手権でなくて誰でもが参加でき親しまれてきた、札幌市の宮様スキー大会(種目長距離想定18Km耐久同40Km、ジャンプ、コンバインド)は、1930年(昭和5年)から開催され、これら三大会は現在も続いていて、日本の歴史的スキー競技大会である。
これら競技大会を組織する連盟の創立は、全日本スキー連盟は1925年(大正14年)、全日本学生スキー連盟は1926年(大正15年)、札幌スキー連盟は1929年(昭和4年)及び北海道スキー連盟は1932年(昭和7年)それぞれ創立されている。
北海道の競技クロスカントリースキーは、1914年(大正3年)北海道大学スキー部が小樽市・銭函で2Kmのクロスカントリー大会を行い、翌年札幌市・円山で1.5Kmの競技会を行った記録が残っている。更に、北海道大学スキー部主催で、1920年(大正9年)小樽水産学校から北海道大学構内まで、31Kmを7人で中継する、第1回全道中学校スキー駅伝競走が行われて、これが全道的スキー競技会のはじめであると思われ、1924年(大正13年)まで5回続いたと記載されている。