6月13日 天王山の闘い(山崎の合戦)
天正10年(1582年)6月12日から、織田信長を討った明智光秀とその仇を討とうとする羽柴秀吉の先手、高山右近、中川清秀、羽柴秀長らの諸隊は摂津国(大阪府)と山城国(京都府)の国境の天王山近辺にて対峙。
ついに13日(新暦では1582年7月12日)の夕刻(午後4時半頃)、明智軍は天王山側の中川秀人らに攻めかかった。
この山を制した方が天下を取ることになるとして「天下分け目の天王山」という言葉で表現され、現在でも種々の場面で使われる。
しかし、実際の合戦は、天王山の麓、東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いであったとのこと。京に上る狭い街道の奪い合いと言える。
この戦いも、日暮れ後には勝負がつき、明智光秀の12日間の「天下」が終わった。
(写真は山崎観光案内所)

天正10年(1582年)6月12日から、織田信長を討った明智光秀とその仇を討とうとする羽柴秀吉の先手、高山右近、中川清秀、羽柴秀長らの諸隊は摂津国(大阪府)と山城国(京都府)の国境の天王山近辺にて対峙。
ついに13日(新暦では1582年7月12日)の夕刻(午後4時半頃)、明智軍は天王山側の中川秀人らに攻めかかった。
この山を制した方が天下を取ることになるとして「天下分け目の天王山」という言葉で表現され、現在でも種々の場面で使われる。
しかし、実際の合戦は、天王山の麓、東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いであったとのこと。京に上る狭い街道の奪い合いと言える。
この戦いも、日暮れ後には勝負がつき、明智光秀の12日間の「天下」が終わった。
(写真は山崎観光案内所)
