利休と高山右近 2017年08月05日 14時53分49秒 | つれづれ 利休、そして高山右近 戦国時代の高槻城主であり、「利休七哲」の一人でもある高山右近。 その高山右近は信長、秀吉の重臣として活躍すると共にキリシタン大名としても有名だが、1587年7月24日秀吉による「伴天連追放令」に際しては秀吉からのキリスト教棄教命令を拒み、即座に領地を没収され、その日のうちに国内追放となった。 当夜、秀吉は使者を遣わして高山右近に棄教すべしと伝えたが、右近からの「拒絶」という思にもよらぬ返答に驚き、すぐさま再度の使者として遣わされたのが千利休と津田宗久。 しかし、茶道の師匠である利休に対しても、右近は多くを語らず自分の決意を述べ、また右近の胸中を理解する利休も多くを語らなかったという。当時、秀吉との軋轢も見え始めていた利休は、秀吉からの命令を毅然と拒絶する右近に何を感じたのだろうか? そして利休は、1591年1月13日の茶会で黒の樂茶碗を用い、2月には秀吉から蟄居命令を受け、そして2月28日自害へと追い詰められていくことになる。 その最中の1月22日、利休は京都聚楽第の屋敷に当時加賀藩前田家預かりとなっていた高山右近を招き、たった一人の茶席を設けている。秀吉のもとで働き、最終的には自らの想いを押し通した二人の男は、どんな想いで向き合ったのだろうか? その高山右近も、1613年12月徳川家康の「禁教令」により国外追放処分となり、1614年11月8日長崎からマニラへ追放され、翌15年2月3日に現地で亡くなっている。 小さなジャンク船に乗ってのマニラに向かう航海はまさに身一つの旅であったろうが、その時右近は小さな羽箒を持っていたとされている。 細川家の家史「綿考輯録(めんこうしゅうろく)」には、「利休が結べし候羽箒を高山右近が切支丹国へ渡り申し候まで所持致し」とある。 国外追放の旅に携えていたのは、利休が自害する直前のたった二人の茶席で譲り受けた形見の羽箒だったかも知れない。 --------------------------------------------------------------------- ■会記に見る利休と高山右近 茶会記に高山右近の名前が初めて見えるのは「天王寺屋会記」(津田宗久)における天正5年(1577年)12月26日 この日の朝、伊丹有岡城の荒木村重は利休と宗久を招いて茶事を催している その内容は 口切 炉に平釜、自在に、後、小豆鎖、但し宗易持参也 床に寅申壺葉茶壺・兵庫壺 二つ並べて何れもはじめて、開き也 建水、尼崎台に、薄茶染付、 床に帆帰の絵掛け、壺のけて 薄茶 及(宗及)点て申し候、炭も及置く 絵 宗易掛けられ候 仕立 本膳 木具足打、鯛浜焼一つ、飯、汁 二膳 足打、鯉刺身、かいしき、彩(だ)みて、煎り酒 せりやき、土椀に、彩みて、冷汁 三膳 足打、雉一つ、羽交盛、尾首そのまま 菓子、縁高、亀石かまぼこ、あぶら麩 その日の夜、村重に続いて高槻城主高山右近が利休と津田宗久を招いて茶事を催している。この時、右近は26歳頃。 この歳で利休をもてなす茶事を催すということは、それまでにそれなりにお茶の稽古を積んできていたと思われる。 同日晩 高山右近茶会 易、及 炉 平釜、自在、茶碗に湯 床に胡胴の花瓶、薄板に、白梅生けて 仕立 ごぼう、菜汁、しいたけの刺身 飯、芋の田楽 若干26歳の右近が、利休、宗及を正客に招いての茶事を行っているが、昼間の豪勢な村重の茶事を考慮し、なんと利休に「湯」を差し出しているようだ。 ■国宝茶室「待庵」をめぐる利休と高山右近 秀吉は、山崎の合戦で明智光秀を討ち、勝利した記念に天王山に茶室を作らせたと言われている。 その際、天正10年(1582)10月2日付けで利休より高山右近宛に書状が送られており、その中では「丸太六本が届きました。そのうち一本はすぐに使います。大変良い木材を送ってくださり、秀吉も喜んでおります」と記されている。右近31歳の頃である。 「丸木六本、仰せ付けられ候内、一本用に立ち申し候、大慶この事に候、 相残るも別に用に立ち申すべく候、御念に入るの段、秀公へ申し聞かすべく候、御使い者に懇ろに申し含め候、恐惶 囲炉理到来の由に候、本望に存じ候、以上 神無月二日 易 (封)高右公 まいる 回答 易 山崎より 」 ちなみに、この「待庵」は二畳茶室であり、利休はそれまで定型化していた四畳半を一挙に二畳にまで縮めている最終的には、二畳茶室の小間(1間の4分の一)を切り落とした一畳台目を京都聚楽第の中に作った。 後に右近も二畳床なしの茶室を好んだといわれている。 二畳床なしという質素な茶室で、茶の湯を行うと同時に瞑想を行っていたのではないかと言われている。瞑想をすることで、神の前に立ち、本来の自分を取り戻す作業を行っていたのではないか、と思われる。 右近の時代、茶の湯を武将にとっては教養の域を超え、政治的な意味でも生きていくためには必須であった。しかし、キリシタンとして生きる右近にとっては、茶の湯から得られる瞑想、静謐の時間を通してこそ、戦さによって人を傷つけ、あるいは時代に翻弄される我が身など、日々の葛藤をやわらげ、浄化し、神の前に純粋であることが可能になったのではないだろうか? あるいは目の前の一椀に集中すること、そのことで本来の自分を取り戻す作業を行っていたのだろうか? ■伴天連追放令の際の利休による説得 (右近36歳の頃) 天正15年(1587年)秀吉の九州平定に従って、高山右近も島津征伐に参戦し、九州に赴いていた。 九州平定が一段落した1587年7月24日、秀吉により唐突に「伴天連追放令」が発せられた。 当夜、秀吉は特に高山右近には使者を遣わして棄教すべしと伝えたが、右近からの「予はいかなる方法によっても関白殿下に無礼なふるまいをしたことはない。高槻、明石も住民をキリシタンにしたのは、予の手柄である。予は全世界を替えてもキリシタン宗門と、己が霊魂の救いを捨てる意思はない。ゆえに予は、領地ならびに明石の所領6万石を殿下に返上いたす」と使者に答え、秀吉からの棄教命令に背いた。 思にもよらぬ返答に驚き、すぐさま再度の使者として遣わされたのが千利休。 その利休に対して右近は同じ趣旨のことを述べ、利休も多くを語らかったという。 「混見適写」によれば 「高山右近は播州高槻の城主、秀吉公山崎合戦の時先陣たり、其餘の武功、世に知る所也。然るに秀吉公御治世に成て、耶蘇宗門御制禁なることを聞召可改申旨意有りと云えども承引せず、武功の侍故、秀吉公惜しみ給い、右近が茶の湯の師利休を召して、汝行って異見を加え宗門を改めさせ申可旨也、利休畏みて右近に爾爾の趣を述べる所に、かれ曰く、彼宗門、師君の命より重きことを我未知、然共侍の所存は一度天に志して不変 易を以丈夫となす。師君の命というとも、今軽々敷改乃事武士の非本意と云。利休も是を感じて再び異見に不及。右の趣を言上す。秀吉公も無拠右近が罪を算せられ、譴(けん)責有之領地被召上」 なおこの時、利休に加えて茶人である津田宗及、住吉屋(山岡)宗無も同行している。 ■右近の金沢出立に安堵する利休による蒲生氏郷宛の書 天正15年(1587年)秀吉による棄教命令に従わなかった高山右近は、即座に改易され、大名の地位を剥奪、領地は没収され、国内追放となった。右近はその日のうちに九州 博多湾の能古島に逃れ、引き続き小西行長の庇護を受けて、小豆島、九州に逃れている。 やがて右近は、北陸加賀の前田利家からの招きを受け、金沢に移り住むことになる。 このことを聞いた利休は、利休七哲の一人である蒲生氏郷に「的便之条一筆申候 南坊(=高山右近)昨日午後二宮古を立被申候」と書き送っている。具体的には天正16年9月21日(1588年11月9日)12時に金沢に旅立ったと伝えている。 利休としても右近の先行きを案じていたのであろう。
PL花火 2017 2017年08月01日 20時50分24秒 | つれづれ PL花火 今年も知り合いのご好意に甘えて大阪河内のPLの花火を満喫 世界の人々の平和を祈念するために花火が打ち上げられるということらしい。 今年はちょうど20時から始まった。 今年も約2万発。 でもよく調べると、昔は10万発、20万発と言われていたが、実は昔から2万発ということらしい。 というのも、一尺玉のような大きな玉の場合は、一発打ち上げると空中で10発ほど弾けるので、1発打ち上げる=1発ではなく、10発とカウントしていたので10万発とか20万発とかとなっていたようだ。 関西の通常の花火がせいぜい1万発なので、やはり2万発のPLの花火は桁違い。 これが約45分の間に次から次へと打ち上げられる。 暫し暑さを忘れた。
「風神雷神」by 原田マハ 2017年07月27日 17時16分39秒 | つれづれ 「風神雷神」by 原田マハ 今日の研究会で聞いたが、現在京都新聞に原田マハが「風神雷神」というタイトルで連載中らしい。 でその内容が、あの俵屋宗達が「天正遣欧少年使節」の随員の一人として外国人宣教師達と共にヨーロッパに渡ったというもの。 びっくり。 俵屋宗達がヨーロッパに渡ったとは聞いたことはないが、絶対に渡っていないか?と問われるとよく分からないが、壮大なスケールでの想像力。 逆に言えば、そんなことを考えてもみないと、現代アートに通じる俵屋宗達のあの芸術性は説明出来ないということか? 天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ) 1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。 イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。 使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、また彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。