山田方谷(幕末期の儒家・陽明学者、備中聖人)
幕末期に財政破綻寸前の備中松山藩5万石を立て直した名財政家、政治家です
8年間の改革で、約100億円を返済し、余剰金100億円を作った
成功の秘密は、改革手法や経営手法のみならず、全人格、全人間力です
多くの経済人が学ぶ山田方谷(NHK歴史ヒストリアより)
山田方谷(ネットより引用)
山田方谷履歴
山田家は、百姓として生計をたてていた
方谷は、儒学者丸川に学び、20歳で士分、藩校の筆頭教授に任命された
藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した
松山藩の藩政改革
方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた
「理財論」は方谷の経済論で「義を明らかにして利を計らず」の考え方です
政令を明らかにするのが義、義をあきらかにしなければ、利は生まれず、改革は失敗する
擬対策は方谷の政治論で、「天下の士風が衰え、賄賂が行われたり、贅沢する」が財政を圧迫する要因
「理財論」「擬対策」の方針で藩政改革を行う
藩財政を内外に公開して、藩の実収入を明らかにし、債務の50年返済延期を行った
領内に蔵を移設し、平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し利を上げた
質素倹約を発し、領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収
信用を失った藩札を回収し、公衆の面前で焼き捨てた
藩札の信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった
松山藩の経済の活性化
領内の砂鉄から備中鍬他を生産
タバコや茶・和紙・柚餅子などの特産品を開発して「撫育局」を設置して一種の専売制を導入した
生産に関しては生産者の利益が重視されて、藩は後述の流通上の工夫によって利益が上げるようにした
道路や河川・港湾などの公共工事を興し、貧しい領民を従事させて現金収入を与えた
幕末維新期
藩主勝静は、白河藩主松平定信の実の孫で徳川吉宗の玄孫
幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も奏者番・寺社奉行・老中と幕府の要職を務めた
勝静は、藩の外交官として補佐役に方谷を任命したが、方谷は断り、内政する為松山に帰国
老中として大坂城の将軍・徳川慶喜の元にいた勝静は、幕府側に就いて官軍と戦う
朝廷は、松山藩を朝敵としたので、突然の出来事に対して、松山の人々は動揺した
方谷は、主君勝静を隠居させて、新しい藩主を立て、松山城の開城を朝廷に伝えた
松山藩明治期
松山城を占領した岡山藩内では、藩主&方谷を切腹させるべきだという意見もあったが無事
明治新政府は、方谷の財政改革を高く評価して出仕を求めた
心ならずも主君を隠居に追い込み、勝手に降伏した方谷に再仕官をする考えはなかった
山田方谷の信念とバックボーン
「命に代えても!」⇒嫉妬や抵抗勢力の中、不惜身命で藩政改革
「誠を尽くすは天の道」⇒死を見つめ成長した方谷の確信
「天が自分を試している」⇒逆境の中で、人は何を信じ、どう行動すればよいのか
「治国平天下」⇒強烈な願望が藩の"神様"を育てた
幕末期に財政破綻寸前の備中松山藩5万石を立て直した名財政家、政治家です
8年間の改革で、約100億円を返済し、余剰金100億円を作った
成功の秘密は、改革手法や経営手法のみならず、全人格、全人間力です
多くの経済人が学ぶ山田方谷(NHK歴史ヒストリアより)
山田方谷(ネットより引用)
山田方谷履歴
山田家は、百姓として生計をたてていた
方谷は、儒学者丸川に学び、20歳で士分、藩校の筆頭教授に任命された
藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した
松山藩の藩政改革
方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた
「理財論」は方谷の経済論で「義を明らかにして利を計らず」の考え方です
政令を明らかにするのが義、義をあきらかにしなければ、利は生まれず、改革は失敗する
擬対策は方谷の政治論で、「天下の士風が衰え、賄賂が行われたり、贅沢する」が財政を圧迫する要因
「理財論」「擬対策」の方針で藩政改革を行う
藩財政を内外に公開して、藩の実収入を明らかにし、債務の50年返済延期を行った
領内に蔵を移設し、平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し利を上げた
質素倹約を発し、領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収
信用を失った藩札を回収し、公衆の面前で焼き捨てた
藩札の信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった
松山藩の経済の活性化
領内の砂鉄から備中鍬他を生産
タバコや茶・和紙・柚餅子などの特産品を開発して「撫育局」を設置して一種の専売制を導入した
生産に関しては生産者の利益が重視されて、藩は後述の流通上の工夫によって利益が上げるようにした
道路や河川・港湾などの公共工事を興し、貧しい領民を従事させて現金収入を与えた
幕末維新期
藩主勝静は、白河藩主松平定信の実の孫で徳川吉宗の玄孫
幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も奏者番・寺社奉行・老中と幕府の要職を務めた
勝静は、藩の外交官として補佐役に方谷を任命したが、方谷は断り、内政する為松山に帰国
老中として大坂城の将軍・徳川慶喜の元にいた勝静は、幕府側に就いて官軍と戦う
朝廷は、松山藩を朝敵としたので、突然の出来事に対して、松山の人々は動揺した
方谷は、主君勝静を隠居させて、新しい藩主を立て、松山城の開城を朝廷に伝えた
松山藩明治期
松山城を占領した岡山藩内では、藩主&方谷を切腹させるべきだという意見もあったが無事
明治新政府は、方谷の財政改革を高く評価して出仕を求めた
心ならずも主君を隠居に追い込み、勝手に降伏した方谷に再仕官をする考えはなかった
山田方谷の信念とバックボーン
「命に代えても!」⇒嫉妬や抵抗勢力の中、不惜身命で藩政改革
「誠を尽くすは天の道」⇒死を見つめ成長した方谷の確信
「天が自分を試している」⇒逆境の中で、人は何を信じ、どう行動すればよいのか
「治国平天下」⇒強烈な願望が藩の"神様"を育てた
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