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『貞観政要』(じょうがんせいよう )

2021年10月24日 | 政治
🌸貞観政要(じょうがんせいよう )

 ☆中国唐代に呉兢が編纂したとされる太宗の言行録
 ☆唐代に日本に伝わり、日本以外朝鮮・女真・西夏でも訳されている
 ☆貞観政要の三つの鏡
 *銅の鏡(自分の姿見る鏡)
 *歴史の鏡(賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ)
 *人の鏡(人が自分を見る姿を認識する)

貞観政要大要と背景

 ☆古来から帝王学の教科書とされてきた
 ☆太宗とそれを補佐した臣下たちの貞観の治と言われている
 *非常に平和でよく治まった時代をもたらした
 ☆太宗が傑出していたのは
 *自身が臣下を戒め指導する英明な君主であったばかりでなく
 *臣下の直言を喜んで受け入れ
 *常に最善の君主であらねばならないと努力したこと
 ☆中国には秦以来、皇帝に忠告する、諫官という職務がある
 *歴代の王朝に諫官が置かれた
 *太宗のように諌官の忠告を聞き入れていた皇帝は極めて稀
 *皇帝の怒りに触れて左遷されたり、殺される諌官も多かった
 ☆太宗は臣下の忠告・諫言を得るため、進言しやすい状態を作っていた
 *太宗は筋の通った進言・忠告を非常に喜ぶ
 *至極もっともな言葉であると称賛し
 *普通の君主では到底改めにくいであろうところを改めた
 ☆太宗は質素倹約を奨励し国民の蓄財は豊かになった
 ☆国家のため、万民のために誠意を尽くしたその言行
 *儒教の精神からくるといわれている
 ☆中国では後の歴代王朝の君主も愛読した
 *元のクビライも愛読している
 ☆日本にも平安時代に古写本が伝わった
 *北条氏・足利氏・徳川氏ら政治の重要な役にあった者に愛読された

『貞観政要』編纂の動機

 ☆本書の編纂は呉兢によるもの
 ☆呉兢は、太宗の治績に詳しいことから編集した
 ☆貞観の盛政を政道の手本として欲しいとの願いから
 *『貞観政要』を編纂して唐の中宗に上進した
『貞観政要』君道篇
 ☆帝王の業で、創業と守成のどちらが困難と考えるかとの問い
 ☆1人の諫官(玄齢)は答えた
 *天下が乱れ、各地に群雄が競い立っている状況下
 *これを攻め破り、従わせ、戦に勝ち抜かなければなりません
 *そのことから創業の方が難しいと思います
 ☆他の1人の諫官(魏徴)は答えた
 *帝王が新たに立つとき、衰え乱れさせた、ならず者を滅ぼします
 *人民は新しい帝王を喜んで迎え、みな心を寄せて従います
 *天子の位を得るとおごり高ぶるようになり、当初の志から外れます
 *人民が平穏な生活を欲しても、労働の義務を課せられ、休めない
 *国の衰退は常にこのようなことに起因し、守成の方が難しいと思います
 ☆太宗は述べた
 *玄齢は昔、私に従って天下を平定した
 (難関辛苦を嘗め、九死に一生を得たので、創業の方が難しいと考えた)
 *魏徴は私とともに天下を安定させた
 (勝手気ままな行動が始まれば、必ず滅亡に向かうと憂慮している)
 (守成の方が難しいと考えた)
 *今、創業の難は過ぎ去った
 *これからは、まさに守成の難を君達とともに克服してゆきたい

⛳『貞観政要』君道篇

 ☆私は弓矢で四方の群雄を撃ち破り、弓を使うことが多かった
 *しかし、その理を得ていない
 ☆天子となってまだ日が浅い
 *政治のやり方の本質については弓以上に及ばないはず
 *長年得意としてきた弓でさえもその奥儀を極めていない
 *政治については全然わかっていないはずだ
 ☆太宗は在京の高級官僚を交替で宮中に宿直させた
 *いつも召し出だして座を与え、ともに語り合うようになった
 *人民の生活・政治の得失など世の中の動きを知ろうと努めた
『貞観政要』求諫篇
 ☆太宗の勇ましい姿は厳粛
 *多くの臣下は太宗の前に出ると、皆その挙動をしくじる
 ☆太宗はそのことを知っている
 *臣下が上奏するとき必ず顔色をやわらげて
 *その意見を聞き政治の利害得失を知ろうとした
 ☆太宗は公卿に次のように語った
 *人は自分を見ようと思えば必ず鏡を使う
 *君主が過ちを知ろうと思えば必ず忠臣の諫言が必要である
 *隋の煬帝の暴虐な君主
 (臣下は口を塞ぎ、その過ちを聞くことなく遂に滅亡に至った)
 *君達は人民が苦しんでいる状況を見たならば
 *必ず思う存分いい尽くし、私を正し諫めなければならない

『貞観政要』納諫篇

 ☆太宗が酒盛りをし、語っているとき太宗の側に女性が侍っていた
 ☆1人の諫官が語った
 *今、このご婦人が陛下のお側に侍っています
 *失礼ながら、陛下は略奪の是認されているのではないでしょうか
 *陛下がもし非となされるならば、悪を知ってそれを除かないことです
 ☆太宗は大いに喜び、至極もっともであると称賛した
 *その女性を親族のもとへ帰した

『貞観政要』日本への影響

 ☆『貞観政要』は遅くても平安時代には日本に伝来している
 ☆藤原永範が高倉天皇に進講を行っている
 ☆鎌倉時代には北条政子が菅原為長に命じて和訳させた
 *日蓮もこれを書写した
 ☆江戸時代初期には徳川家康が藤原惺窩を召して講義させた
 *足利学校に命じて活字版を発刊させてその普及に努めた
 ☆明治天皇も侍講の進講を受け、深い関心を寄せた
                       (敬称略)
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⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『WIKIPEDIA』『中田敦彦YouTube』他










『貞観政要』(じょうがんせいよう )
(『中田敦彦YouTube』画面、ネットより画像引用)

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