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「持明院統と大覚寺統」「長子相続」「腹は借り腹」(最終回)

2024年02月28日 | 社会
🌸「三英傑」の知られざる女性観(最終回)

 

 ☆愛と憎しみの強い感情、どんな身分や立場の人をも動かす強い原動力
 ☆結果、人々の抱く愛憎の感情が、日本の歴史を左右してきたのだ

 

儒教の影響も強かった「長子相続」という文化

 ☆家康が、日本の文化に大きく影響を与えた「長子相続」
 *長子相続は、世界中で見られる傾向だ

 *世界でも、長子、長男が跡を継ぐのは普通のことだった
 ☆鎌倉時代までは母親の地位の高さが、後継者決定に関連していた

 *鎌倉幕府を開いた頼朝の場合

 *母親が非常に格の高い家の出身で三番目の男の子

 *跡取り息子に指名されていた
 ☆天皇家の相続「長子」の条件以外にも複雑な要素が絡むことがある
 *持明院統と大覚寺統の両統が行われ、天皇家が真っ二つに割れた

 *二つの皇統が交互に帝位につくという両統迭立が始まる
 *日本では跡継ぎルール、長男と母親の家柄が重視されていた

 *その都度でどのルールが優先されるかは変わるものだった
 ☆家康以降、「長子相続」がルールとして固定化される
 *家康は、自分が将軍職を退き、後継者には三男の秀忠を選んだ

 *長男は死亡、次男は他家の養子に入っていたとの事情もある

 ☆家康の孫の代、三代将軍を選ぶ時代

 *家康は「先に生まれた男の子を跡継ぎにしろ」と伝え

 *以降の江戸幕府でもこのルールが踏襲されていく

 ☆日本では「長男が跡継ぎ」が定着した
 *江戸時代になって儒教が国教になった影響が強い

 *儒教では先に生まれた人を敬う考えが強いため

 *生まれた順番を非常に大切にした

 

⛳奇行で名高い家光が、徳川家を継いだ

 ☆歴代でも変わった将軍として有名なのが、3代将軍の徳川家光
 *家光という人は、かなり問題のある将軍でした

 *現存する彼が描いた絵を見ると、幼稚園児が描いたように稚拙
 *絵以外の史料を見ても

 *家光から深い知性を感じたことは、筆者には一度もない
 ☆家光の父母である秀忠夫婦は、その事実を見抜いていた

 *問題の多い家光よりも賢い弟を将軍に据えようとしたものの

 *家康お家騒動を引き起こさないことのほうが肝心と考え

 *長男だった家光を将軍に指名した
 ☆その後「跡継ぎを作り」が一番の使命の江戸時代の将軍非常に不健康でした

 *江戸城に囲われて、ほとんど外にも出ないし、政治も家臣に任せっぱなし

 *最大の使命は子どもを産むことだった

 ☆徳川11代将軍の徳川家斉、50人の女性に50人の子どもを産ませている

 *家斉の子どもたちもみんな江戸城で大事に育てられている

 *不健康になるのか、大半が若いうちに亡くなっている
 ☆結婚できる年齢まで生きていた数少ない生き残りが溶姫
 *溶姫は加賀藩主の前田斉泰の正室として嫁に行く

 *そのときに作られたのが東京大学の赤門

 *当時、赤という色は勝手に塗ってはいけない色

 *幕府や将軍なりが認可しないと使えませんでした

 *嫁入りの門出を祝うために赤く塗った門をくぐって

 *溶姫が前田へとお嫁入りをしたと言われている

「長子相続」の考え方が生んだ「腹は借り腹」の思想

 ☆長子相続の感覚が根付くと、損なわれたのが母親の権利の尊重
 *江戸時代に生まれたのが「腹は借り物」という考え方

 *女性の人権をまったく無視したひどい考え方

 *家康の言わんとすることはこれに非常に近いです
 ☆母親は父親に腹を貸すだけなのだから、
 *長男を産むのなら誰でもよい、と思われた
 ☆象徴的なエピソード
 ①3代将軍・家光の長子は女の子で、血筋は石田三成に連なる

 *仮に彼女が男の子として生まれていたならば

 *石田三成の血を引く子どもが、」徳川家の四代将軍になっていた
 ➁4代将軍になった家綱の場合、母親の父、死刑になった人物

 *母方の祖父は立ち入り禁止の場で、禁猟の鶴を捕り死刑になった

 ☆徳川幕府「腹は借りもの」と考えていたのは、儒教の影響

 *「母親は誰でもいい」という感覚が、より一層強くなった
 ☆江戸時代は、日本で一番女性の人権が抑圧されていた時代だった
 *儒教の影響を受けた長子相続がなければ

 *江戸時代の女性に対する考え方は、違うものになっていた

権力のために、恋愛感情を放棄せざるを得なかった女性たち

 ☆過去の日本においては、女性が自ら権力を持ちたいと思った際

 *恋愛を犠牲にしなければならないことが多い
 ☆愛情と権力。女性たちがどちらを欲するのかは

 *権力欲が強い女性もおり、愛情を欲する女性もいたとしても

 *良いと筆者自身は思っています

 ☆平安時代であれば、女性が権力を得ようとするのであれば

 *天皇の妻になり、寵愛を受け、子どもをなすことが一番の道でした
 ☆江戸時代、向上心のある女性が、大奥に入ることもありました

 *大奥に入って将軍の寵愛を受ければ

 *頑張り方次第で出世することもできた

 ☆男性は、権力を持てば持つほどに女性関係が派手になる

 *出世を望んだ多くの女性たちは、誰か権力者の妻や妾になり

 *自分の恋愛感情を犠牲にしなければならぬケースが多かった

 ☆多くの女性は、権力を得るために、自分よりも遥か年上の男性や

 *何かしら難のある男性と一緒になることを強いられた

 ☆明治時代の初頭は、女性の権利が潰されていく

 *平塚らいてうが「原始女性は太陽だつた」と言い

 *女性の権利を解放するべく、女性たちの覚醒を促した

 ☆興味深いのが、女性解放運動に関わる人々は

 *何かと不倫や男女の痴情のもつれ等のスキャンダルを多く抱えていた

 ☆「男に負けないぞ」と女性が思ったとき

 *一番手っ取り早い手段が恋愛だったからと思う
 ☆そう考えると、恋愛というものが

 *男女が一番しっかり相手と向き合える場であったし

 *女性たちにとって人生の突破口になることもあったはず

 ☆愛と憎しみという強い感情

 *どんな身分や立場の人をも動かす強い原動力になる
 *だからこそ、人々の抱く愛憎の感情が

 *こんなにも日本の歴史を左右してきたのだと筆者は感じる

                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『愛憎の日本史』
 
 
 
 
「持明院統と大覚寺統」「長子相続」「腹は借り腹」
(ネットより画像引用)

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