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本居宣長とやまとごころ2『古事記伝』

2022年03月26日 | 宗教
🌸本居宣長とやまとごころ2『古事記伝』

本居宣長、生涯を町医者として送る
 ☆宣長が家督を相続せず、医学修行のため京都遊学を選択
 ☆医学を学ぶための漢籍の読解力を身につけるべく
 *堀景山に入門し、その後医術を堀元厚に師事
 ☆松坂に帰って医業を開き、内科の町医者として生涯を送った
 ☆本居宣長の転機は34歳の時
 *加茂真淵と松坂の旅籠で面談し、翌年誓詞を提出して弟子となった
 ☆真淵の教え
 *「からごころを清く離れて古のまことの心を訪ね知ること」の大切さ
 *『古事記』を解明したいという宣長の意思を強く後押しした
 ☆本居宣長、荻生徂徠学の影響を受け
 *官製儒学の限界を感じていた
 *真淵に触発される形で古学へと向かっていった
 *30数年をかけて『古事記伝』に立ち向かった
 ☆多くの知的探究者が宣長に惹かれる核質『古事記伝』
 *全44巻を69歳にして完成し、これが宣長思想の集大成であった

宣長思想「もののあわれ」から「古学」への踏み込み
 ☆『源氏物語』は、儒教的価値観においては
 *好色な貴族の色恋物語として隠微な文芸であったが
 *宣長は、そこに人間世界を貫く「もののあわれ」を見た
 ☆物事の本質を深く捉える心の構えとして
 *主客一体の感情の移入、共感が大切という
 ☆そこから何故『古事記伝』古道なのか
 *古事記へと向かった宣長を理解することは簡単ではない
 *宣長は、口誦文化から文字文化に移行する時代の
 *上代日本人に迫る挑戦であり「宗教的啓示」にも近い
 *「神のしわざ」を信じ神代の古道を探求する宣長となっていく
 *「儒学で権威付けられた規範」を超えようとする美意識であった
 ☆18世紀における本居宣長の登場
 *「からごころからの脱皮」という意味で
 *江戸期日本における思想的葛藤の到達点だった
 ☆宣長の古道の探求の中から示したのは
 *「日本の限りない肯定」でありその価値を体現する存在として
 *天皇の復権・親政に光を見出すことであった
 *「討幕の思想」に点火する国学の姿が現れ始めた

宣長の「世界地図」開かれた国学という視界
 ☆宣長は、地球が丸いことも、日本が極束の島国であることも知っていた
 ☆宣長の世界観は、彼自身は偏狭な排外主義ではない
 *オランダについては好意的関心を抱いていたことが窺える
 ☆宣長は、京都には五年半遊学
 *名古屋、京、大坂、和歌山、吉野などに旅行を繰り返し
 ☆この時代の人としては行動的に動き回り、視界を広げた人だった

宣長の思想は、時代を動かす源流ヘ
 ☆宣長は、政治的発言や行動から距離を置いて
 *静かに古の日本へと価値を探求した
 ☆本人の意区を起えて時代を動かす思想の源流となる
 *非政治的人間として松坂に正座した宣長
 *「からごころ」の儒学を正学とする幕府を倒す
 *理念的根拠を提起して静かに去った
 ☆その志を継ぐ形で文化年間から
 *平田篤胤が古道への回帰を主張して討幕の正当性を支える
 ☆本居宣長という人は静かに「日本とは何か」を追い
 *歴史の古層にまで内の深さに迫っていった
                     (敬称略)                                     
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⛳出典、『人間と宗教』





本居宣長とやまとごころ2『古事記伝』
(ネットより画像引用)

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