第1章
私のユラク人生
この度、私は平成27年7月15日(私の誕生日)還暦の60歳を以て、株式会社ユラクの専務取締役を任期満了に付き退任しました。
長い間の御支援、ご指導に深く感謝申し上げますと共に、今後は「株式会社ユラク」の顧問として、非常事態や重要な経営会議等では今まで通り、微力ながらユラクを支えたいと思っています。
さて、昭和53年の入社以来、37年間ユラク一筋に歩んだ私の人生は、「井の中の蛙、大海を知らず」のごとく、他の事は何も知らない世間知らずですが、「思う念力、岩をも通す」と申します。
今後もユラクへの愛社精神に変わりはありません。
今後は外からユラクの営業活動を見守りながら、支援が出来ればと考えています。
今、株式会社ユラクも三代目社長(甥)を中心に、社長補佐としてユラクでは初となる副社長(弟)を選任し、二人三脚で大きく変わろうとしていますが、社員の皆様には相変わらずのご協力と御支援をお願いしなくてはなりません。今後とも宜しくお願いしたいと切に願っています。
私がユラクを好きなのか? ユラクが私を好きなのか? は分かりませんが、波乱万丈の楽しい幸せな37年間の「ユラク人生」でした。
本当にありがとうございました。
さて、私は、前ユラク会長(父故伊藤尉市)と前ユラク女将(母故伊藤松枝)の二男として昭和30年に旧城崎郡竹野町林で生を受け、両親の起業と共に現在の「観光旅館 湯楽」の地に移り住んだのは10歳、小学4年生の時で、俗にいう転校生である。
卑下もあり多少のいじめを受けた事が、高校時代の柔道部、大学時代の拳法部へと走らせたのかも知れない。
それこそ車も玄関まで通れない、薄暗い山間の小川に沿った地道の側道の奥に有る、小さな自宅兼用の民宿での起業であった。同級生には有名な大きな旅館の人も居て、子供心にも恥ずかしい思いを持った事を思い出す。
そんな子供心とは裏腹に、両親の懸命な努力の結果、昭和48年には隣接地を買収し、大学卒業後に銀行勤めをしていた兄を呼び戻し、両親と兄の3人4脚で「(有)山荘湯楽」を設立し、城崎温泉にあっても恥じない立派な観光旅館へと成長し、その後のユラクグループの礎と成るべく変貌を遂げていった。
当時の私は、高校3年生の18歳。そんな両親と兄の苦労を他所に、オートバイを当てがわれて、最後の高校生活を満喫していた。
そんな時に母親が民宿当時を回想し言った一言が、私の人生を大きく左右する事になる。「創業当時は、お客さんも無く、大通りに出て客引きをするが、ほとんどのお客さんは既に予約で城崎温泉に来ていて、泊まる宿は決まっていた。
たまたま見つかったお客様を歩いて暗い路地を案内すると、途中で気持ち悪く怖がって、いつの間にか帰ってしまう。
この悔しさと恥ずかしさは一生忘れない」と。
後ろ目がたさも少しは感じていた私は、思わず涙ぐみ「何とか両親を楽にさせてやりたい」との思いを強くした。
今でも忘れられない母親の遺言だと心している。
そんな事もあり、宿命的に現㈱ユラクの前身である(有)山荘湯楽(観光旅館)にフロント係として入社した。
以来37年間、自分としては微力ながら一生懸命に頑張ったつもりであるが、気が小さく少しヤンチャな私は「トラブルメーカー」とも呼ばれ、「命長ければ恥多し」多くの人に心配や迷惑を掛けながらも、見放されること無く温かく支えられ、無事に任期満了を迎える事が出来たが、振り返って見ると、これは私の努力と言うより運が良かったと思っている。
両親が観光旅館「湯楽」と言う最大の生活基盤を残してくれた事
兄弟3人で仲良く経営が出来た事。退職者も含め優秀で素敵な社員の皆様に出会い支えられた事など、振り返れば数えきれないくらい幸運であった。
入社当初は、年商数千万円、社員10数名の本当に小さな家族会社であったが、最盛期には、観光旅館業を始め、海産物販売業、ギフト販売業、結婚式場、外食業、レンタカー業などの4つの子会社を持つユラクグループを形成し、年商も13億を超え、社員130数名を数える会社へと成長し、当時から毎年の5月1日を創業記念日と定め、社員一同を会しての経営発表会、創業記念祝賀会を行い、近年は最盛期をも上回る業績を上げている。
長年経営に当たってきた、ユラクの第一線を離れる寂しさは有るが、こんな環境で過ごせた私は幸せ者である。運を掴む努力も大切である事を皆様には言って於きたい。
誰しもが「幸福」を求め願う。
「働かず、お金に困らず、好きな事をして、好きな人と結婚をして、マイホーム、マイカーを持ち、家庭を持ち、病気や怪我もせずに楽しく一生を過ごす。」私も同感であり、何の反論も無いが、これは目的であり夢である。
目的や夢の達成には、必ず手段や方法が必要である。これ無しには目的や夢の達成は叶わないが、これをよく忘れる人が少なからず居る。
運命は変える事は出来ないかも知れないが、運は自分の努力と選択によって変えられると思う。「棚から牡丹餅(ぼたもち)」と言うことわざがあるが、その棚の下で待っていなければ牡丹餅は拾えない。しかし、棚から落ちて来ないかも知れない。待つか待たないかは、その人の選択である。落ちて来るか来ないかは運である。
私が、昭和30年の生まれだから、社員の皆様との出会いが有ったが、明治30年に生まれていたら出会う事は無かったであろう。昭和30年に生まれたことは運命である。
大阪の大学に進学し、大阪での就職も考えたが、「母親の遺言」通り実家の家業である「観光旅館湯楽」を選択した。
そして、昭和56年に家内と結婚し、城崎の現在地で家庭生活をスタートさせた。
ある時にユラクを退職しようと思った事が有ったが、退職しない事を選択した。
もし、23歳の時に大阪で就職していたら、ユラクは親戚の兄弟が経営する会社。おそらく家内と知り合う事も結婚する事も無く、3人の子供たちと出会う事も無く、まったく別の所で別の人生を歩み、ユラクの社員の人達とも出会う事は無かったであろう。
しかし、私は「湯楽」を選択し、家内を選択し、城崎を選択し、今の人生を選択した。そして、「湯楽」に自分の人生を掛けて、誰しもが願う「幸福」と言う目的達成の為の最大の手段、方法として「湯楽」に掛けたが、それが良かったのか悪かったのかは、タイムスリップして、別の人生を選択して歩んでみなければ、今後も永遠に分からないだろう。
この度で37年間の「ユラク」での第一線の「ユラク人生」に幕を閉じるが、運が味方をしてくれ、これらの選択が、私の最大の「幸福」を掴む事に貢献したのは、両親、兄弟を始め多くの社員の皆様のお陰と感謝し、無事に任務を終えられたことに少しばかり安堵している。
こうして話すとお分かりの通り、選択と運は隣同士、表裏一体、一対であることが分かる。
人生の内で、大きな岐路や選択はそんなに何度も無いが、その時にどちらを選択するかによって、人生は大きく変わり選択によっては、まったく別の人生を歩むことに成る。
「湯楽」を選択した後の私の人生は、色々な困難も有ったが、ようやくここに来て、この選択が間違いで無かった事に気付づき、大満足で幸せな「ユラク人生」であったと感謝している。
今では、今後に続くユラク関係者の、全ての人々の幸せを願わずには居られない。
「現在の湯楽のロビー」
ご覧頂きありがとうございました。
次号第2章もどうぞ
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