人生晴れたり曇ったり

「辛酸を嘗めた私の闘病日記」2年半の闘病生活の峠を越え、その後の元気な日常を画像を加えながら不定期ですが書いています。

辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第4章)

2017年05月31日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第4章

ガンの告知と入院

白波瀬先生の説明によると、腎臓から尿管を通って膀胱に貯まる尿が、膀胱の入り口付近にガン細胞が有り、通りを塞いでいるとの事であった。又、その為に腎臓機能も悪化し早急な手術を勧められた。

この予期せぬ「膀胱ガン」の告知は、私のこれまでの人生の中では最大の、誤算であった。

早速、平成27年3月20日に入院し、23日に手術と言うスケジュールを告げられ、幸せだった今までの人生に初めて赤信号が点灯した。

人生60年間 一度も大きな病や入院の経験も無く、穏やかに生活して来た事が、自慢であった私にとっては「まさか自分が」と言う複雑な思いであったが、この時点では、数日後に知らされる病の大きさは知る由もなかった。

そして、いよいよ20日の入院当日、家内に送られ、豊岡病院の泌尿器科4階の4人部屋に入院する事になったが、私の病床は窓際と言う事もあり、豊岡市内が一望できる絶好の環境で「ほーゆー本店」の社屋も見て取れ、重苦しさは無かった「郷に入っては郷に従え」である。

 

     「公立豊岡病院の病室の窓から」

  

   「豊岡市 公立豊岡病院」 

早速に同室の患者さんに挨拶を進める中で、皆さん80歳前後の年配の方ばかりで、全員がガン患者と言う事も分かったが、この段階では私自身は「大病を患った」と言う大げさな思いは無く、人生初めての入院と言う事もあり、むしろ新鮮であり、普段では味わえない生活を楽しんでいたが、やはり気になるのはガンと手術である。

「ガン=死」とのイメージは、何時も頭の片隅から離れる事は無かった。

ご覧いただきありがとうございました。

次号第5~7章もご覧ください。

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辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第3章)

2017年05月31日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第3章

日常に異変が、闘病生活の始まり

私は昭和56年に結婚し、長女、長男、次男の3人の子宝に恵まれ、今ではそれぞれに所帯を持ち、独立して孫も5人いる。何とか「ユラク人生」で家族を守ることが出来て、安堵している今日この頃である。

長男家族は、私の自宅の隣に家を建て、「ほーゆー本店」の後継者として入社してくれ、他の2人も車で20分の至近距離に、それぞれ家を建て独立している。

そんな幸せな環境で、毎日 子供や孫に囲まれ、孫の成長に目を細める日々が続き、多くの人に羨ましがられる生活に充実感を味わっていた。

 

しかし、そんな中で平成26年の秋に突如異変が起きた。

以前から頻尿を感じていたが、2時間に一度はトイレに行くようになり、仕事にも支障を来すようになった。

翌年の平成27年1月には、夜中に5度~6度とトイレに起きるようになり、寝たのか起きていたのか分からないうちに朝を向かえる日々が続いた。

3月に入り、検診の為に掛かりつけ医の田中クリニックを受診したところ、血尿の症状が見られ、早速に豊岡病院の診療を勧められた。

 

 

 

 

 

 

 

 

  「田中クリニック」 

結果的には、この田中先生の判断が、後のガン治療に大きく貢献する事になる。

今も私の体の日々の修理工場である事は言うまでも無い。

翌日の11日の午前中に泌尿器科を受診したところ、後の主治医となる白波瀬先生より「膀胱ガン」の宣告を受けた。予期せぬ宣告で、気軽に一人で受診していた為に、激震が走った事を覚えている。

私は男ばかりの3人兄弟で、兄(ユラク会長)と弟(ユラク副社長)がいる。

これまでの60年間、兄弟の中では唯一私だけが一度も入院をした経験が無く、「仕事が少ない」「昼行灯」「ゴルフ三昧」などと、酒の肴にされたものであるが、この告知で兄弟での酒を飲む機会が減った事は残念だが、その昔、私達兄弟は、泊まり込みで、懸命の看病を続けたが、宣告通りに入院後の半年目に、ガンで母親を62歳の若さで亡くしている。

ご覧いただきありがとうございました。

次号第4章もご覧ください。

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辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第2章)

2017年05月31日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第2章

第二の人生

この度、無事にユラクの専務取締役を退任したが、喜びや安堵と共に一抹の寂しさが残る中「少しのやり残し感」も感じていた。「これから先、どうしよう? 」と思いつつ「もう一度社会復帰したい」との思いが次第に強くなって行った。「10の趣味より、1の仕事」と言うが、もう少し「やりがいや充実感」を感じる生活をしたくなった。

人間と言うものは、生きて居ると言う事に、多少の意義が無いと、生きて行けないものであると思う。

自分自身の身の振り方を模索する中、ユラク在職中に担当していた子会社である

「株式会社ほーゆー本店」の株式を譲渡してもらい、独立して自分で経営してみたいとの思いを強くして行った。

この思いをユラクの役員会で承認され、これまで「ほーゆー本店」で苦労を共にして来た私の右腕である田中店長と愚息の長男の3人で、「打たぬ鐘は鳴らぬ」の心境を基本精神に、少し病んでいた「ほーゆー本店」の再建をめざし還暦にして、第二の人生の再出発を決意した。

長男は、大学卒業後は佐川急便の関西支社に採用され、豊岡支店に勤続して8年目を迎えていた。

「ほーゆー本店」の後継者を打診したが、当時は余り良い返事はせずに、説得に時間を要したが、「勤続10年まで待ってくれ」との返事を貰った。

彼の思う勤続10年とは、新卒で採用され入社して、ここまで育ててくれた、会社への恩返しと義理であったと聞かされ、転職が多い昨今に、少しばかり大人になった長男を誇らしく思った。

もし、長男がこの決断をしなかったら、おそらく私は独立を諦めていたに違いない。今後の事は分からないが、何度も何度も粘り強く説得を続けた事は、私の人生最後の選択である。

それから数か月経ったある日に、退職願を提出した事を聞かされた。後任の関係から数か月の時間が掛かったが、渋々ながら円満退職してくれ、取締役社長として入社してくれた。

これは、彼にとっても選択と運である。

これで、代表取締役専務の私と、取締役社長の長男と、田中店長の3人態勢が完成し「新生 株式会社ほーゆー本店」が誕生したが、ユラクグループの一員で有る事に変わりは無い。

代表取締役の私が、何故に専務かと言うと、ユラクの役員は退任したが、顧問として在籍していた関係で、引き続きグループ内では、専務と言う呼称に統一された為であった。

 

 「㈱ほーゆー本店社屋」 

「ほーゆー本店」は、資本金3400万円、社員20名ほどの小さな会社であるが、「ユラク」同様に私の宝物となった。 

その昔、ユラクグループは、㈱ユラクを親会社にユラク通商㈱、ユラクフーズ㈱、ユラク物流㈱、(有)兵庫中央レンタカーの四社の子会社を抱えていた。

これらは、㈱ユラクの全額出資による完全子会社 (後にユラクに吸収合併) である。

 

 「ほーゆー本店事務所内」 

「㈱ほーゆー本店」は平成22年に買収したユラクの全額出資した子会社であった為に、法人名の冠に「ユラク」と言う名前が付いて無いのは、その為である。

「ほーゆー」とは「あなたの為に」を意味する英語に由来する。

その後、病を患っていた「ほーゆー本店」の業績も順調に推移し、見事に再建を果たす事に成る。

こんな穏やかで充実した生活が長く続くと思われたが、その後に私は人生を一変させる大病を患う事に成り、小さな幸せは長続きしなかった。

ご覧いただきありがとうございました。

次号第3章もご覧ください。

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辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第1章)

2017年05月31日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第1章

私のユラク人生

この度、私は平成27年7月15日(私の誕生日)還暦の60歳を以て、株式会社ユラクの専務取締役を任期満了に付き退任しました。

長い間の御支援、ご指導に深く感謝申し上げますと共に、今後は「株式会社ユラク」の顧問として、非常事態や重要な経営会議等では今まで通り、微力ながらユラクを支えたいと思っています。

さて、昭和53年の入社以来、37年間ユラク一筋に歩んだ私の人生は、「井の中の蛙、大海を知らず」のごとく、他の事は何も知らない世間知らずですが、「思う念力、岩をも通す」と申します。

今後もユラクへの愛社精神に変わりはありません。

今後は外からユラクの営業活動を見守りながら、支援が出来ればと考えています。

今、株式会社ユラクも三代目社長(甥)を中心に、社長補佐としてユラクでは初となる副社長(弟)を選任し、二人三脚で大きく変わろうとしていますが、社員の皆様には相変わらずのご協力と御支援をお願いしなくてはなりません。今後とも宜しくお願いしたいと切に願っています。

私がユラクを好きなのか? ユラクが私を好きなのか? は分かりませんが、波乱万丈の楽しい幸せな37年間の「ユラク人生」でした。

本当にありがとうございました。

さて、私は、前ユラク会長(父故伊藤尉市)と前ユラク女将(母故伊藤松枝)の二男として昭和30年に旧城崎郡竹野町林で生を受け、両親の起業と共に現在の「観光旅館 湯楽」の地に移り住んだのは10歳、小学4年生の時で、俗にいう転校生である。

卑下もあり多少のいじめを受けた事が、高校時代の柔道部、大学時代の拳法部へと走らせたのかも知れない。

それこそ車も玄関まで通れない、薄暗い山間の小川に沿った地道の側道の奥に有る、小さな自宅兼用の民宿での起業であった。同級生には有名な大きな旅館の人も居て、子供心にも恥ずかしい思いを持った事を思い出す。

 そんな子供心とは裏腹に、両親の懸命な努力の結果、昭和48年には隣接地を買収し、大学卒業後に銀行勤めをしていた兄を呼び戻し、両親と兄の3人4脚で「(有)山荘湯楽」を設立し、城崎温泉にあっても恥じない立派な観光旅館へと成長し、その後のユラクグループの礎と成るべく変貌を遂げていった。

当時の私は、高校3年生の18歳。そんな両親と兄の苦労を他所に、オートバイを当てがわれて、最後の高校生活を満喫していた。

そんな時に母親が民宿当時を回想し言った一言が、私の人生を大きく左右する事になる。「創業当時は、お客さんも無く、大通りに出て客引きをするが、ほとんどのお客さんは既に予約で城崎温泉に来ていて、泊まる宿は決まっていた。

たまたま見つかったお客様を歩いて暗い路地を案内すると、途中で気持ち悪く怖がって、いつの間にか帰ってしまう。

この悔しさと恥ずかしさは一生忘れない」と。

後ろ目がたさも少しは感じていた私は、思わず涙ぐみ「何とか両親を楽にさせてやりたい」との思いを強くした。

今でも忘れられない母親の遺言だと心している。

そんな事もあり、宿命的に現㈱ユラクの前身である(有)山荘湯楽(観光旅館)にフロント係として入社した。

以来37年間、自分としては微力ながら一生懸命に頑張ったつもりであるが、気が小さく少しヤンチャな私は「トラブルメーカー」とも呼ばれ、「命長ければ恥多し」多くの人に心配や迷惑を掛けながらも、見放されること無く温かく支えられ、無事に任期満了を迎える事が出来たが、振り返って見ると、これは私の努力と言うより運が良かったと思っている。

両親が観光旅館「湯楽」と言う最大の生活基盤を残してくれた事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

兄弟3人で仲良く経営が出来た事。退職者も含め優秀で素敵な社員の皆様に出会い支えられた事など、振り返れば数えきれないくらい幸運であった。

 

入社当初は、年商数千万円、社員10数名の本当に小さな家族会社であったが、最盛期には、観光旅館業を始め、海産物販売業、ギフト販売業、結婚式場、外食業、レンタカー業などの4つの子会社を持つユラクグループを形成し、年商も13億を超え、社員130数名を数える会社へと成長し、当時から毎年の5月1日を創業記念日と定め、社員一同を会しての経営発表会、創業記念祝賀会を行い、近年は最盛期をも上回る業績を上げている。

長年経営に当たってきた、ユラクの第一線を離れる寂しさは有るが、こんな環境で過ごせた私は幸せ者である。運を掴む努力も大切である事を皆様には言って於きたい。

誰しもが「幸福」を求め願う。

「働かず、お金に困らず、好きな事をして、好きな人と結婚をして、マイホーム、マイカーを持ち、家庭を持ち、病気や怪我もせずに楽しく一生を過ごす。」私も同感であり、何の反論も無いが、これは目的であり夢である。

目的や夢の達成には、必ず手段や方法が必要である。これ無しには目的や夢の達成は叶わないが、これをよく忘れる人が少なからず居る。

運命は変える事は出来ないかも知れないが、運は自分の努力と選択によって変えられると思う。「棚から牡丹餅(ぼたもち)」と言うことわざがあるが、その棚の下で待っていなければ牡丹餅は拾えない。しかし、棚から落ちて来ないかも知れない。待つか待たないかは、その人の選択である。落ちて来るか来ないかは運である。

私が、昭和30年の生まれだから、社員の皆様との出会いが有ったが、明治30年に生まれていたら出会う事は無かったであろう。昭和30年に生まれたことは運命である。

大阪の大学に進学し、大阪での就職も考えたが、「母親の遺言」通り実家の家業である「観光旅館湯楽」を選択した。

そして、昭和56年に家内と結婚し、城崎の現在地で家庭生活をスタートさせた。

ある時にユラクを退職しようと思った事が有ったが、退職しない事を選択した。

もし、23歳の時に大阪で就職していたら、ユラクは親戚の兄弟が経営する会社。おそらく家内と知り合う事も結婚する事も無く、3人の子供たちと出会う事も無く、まったく別の所で別の人生を歩み、ユラクの社員の人達とも出会う事は無かったであろう。

しかし、私は「湯楽」を選択し、家内を選択し、城崎を選択し、今の人生を選択した。そして、「湯楽」に自分の人生を掛けて、誰しもが願う「幸福」と言う目的達成の為の最大の手段、方法として「湯楽」に掛けたが、それが良かったのか悪かったのかは、タイムスリップして、別の人生を選択して歩んでみなければ、今後も永遠に分からないだろう。

この度で37年間の「ユラク」での第一線の「ユラク人生」に幕を閉じるが、運が味方をしてくれ、これらの選択が、私の最大の「幸福」を掴む事に貢献したのは、両親、兄弟を始め多くの社員の皆様のお陰と感謝し、無事に任務を終えられたことに少しばかり安堵している。

こうして話すとお分かりの通り、選択と運は隣同士、表裏一体、一対であることが分かる。

人生の内で、大きな岐路や選択はそんなに何度も無いが、その時にどちらを選択するかによって、人生は大きく変わり選択によっては、まったく別の人生を歩むことに成る。

「湯楽」を選択した後の私の人生は、色々な困難も有ったが、ようやくここに来て、この選択が間違いで無かった事に気付づき、大満足で幸せな「ユラク人生」であったと感謝している。

今では、今後に続くユラク関係者の、全ての人々の幸せを願わずには居られない。

  

      

 

 

 

 

 

 

 

 

  「現在の湯楽のロビー」

ご覧頂きありがとうございました。

次号第2章もどうぞ 

カニ料理 兵庫城崎温泉おすすめの/Kinosaki Spa&Garden 湯楽

 


辛酸をなめた私の闘病日記全20章(目次~治療経過)

2017年05月31日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

 

     目  次

目 次・・・・・・・・・・・・・

はじめに・・・・・・・・・・・・・

治療経過・・がんの闘病生活 日付順の経過

第 1章・・私のユラク人生・・・・・・

第 2章・・第二の人生・・・・・・・・・

第 3章・・日常に異変が、闘病生活の始まり

第 4章・・ガン告知と入院・・・・・・・

第 5章・・一回目の手術の開始・・・・・

第 6章・・一難去って、また一難・・・・・

第 7章・・二回目の全摘出手術・・・・・・

第 8章・・恐怖との戦い・・・・・・・・・

第 9章・・驚異的な回復・・・・・・・・・

第10章・・身体障害者の認定・・・・・・・

第11章・・更なる試練とお正月・・・・・・

第12章・・生体検査で三回目の手術・・・・

第13章・・最悪に事態に・・・・・・・・

第14章・・人生を諦めた瞬間・・・・・・

第15章・・初めての抗がん剤治療・・・・・

第16章・・兵庫医科大学病院での生死を掛けた大手術

第17章・・二回目の正月・・・・・・・・・

第18章・・二回目の抗がん剤治療・・・・・

第19章・・兵庫医大、半年目の検査・・・・

第20章・・峠を越えて思う事・・・・・・

最後にお礼・・・・・・・・・・・・・

思い出写真集・・・・・・・・・・・・・

ユラクグループ・・・・・・・・・・・・


 

 

は じ め に

 

 

 この冊子は、私 伊藤修生が体験した、恐怖のガンの闘病生活を日記の様に編集したものです。

誰しも、常日頃では余命の事は、余り意識せずに生活して居ると思いますが、人間は生まれた時から既に一日一日と少なくなります。

また、未だかつて「余命150年と宣告された人も存在しません。」ですから、誰しも生きている今現在が一番若く、その後は必ず死を迎えます。

さて、平成27年3月の還暦を迎える直前に、恐怖のガンの告知を受け、その後も次々に襲い掛かる病魔との戦いを、夫婦愛や兄弟愛などの人間関係を交え、平凡な日常生活がある日、突然、変貌する恐ろしさを知って頂く為に綴った冊子です。

登場する人以外にも親族や中学、高校、大学の同級生、町内会や会社関係、所属団体など多くの人に、お見舞いや激励を頂き感謝申し上げます。

本当に、ご心配をかけました。

従って、決して同情や慰め、お見舞いを望んでいるものではありません。あくまで私の闘病体験として、今後の皆様の健康管理の参考にしていただけると幸いです。

誤字や脱字、失礼な文言が入っている事をお許しください。 

                         平成29年5月吉日  伊藤修生

 

         がんの闘病生活 日付順の経過

平成26年

 秋

頻尿状態になり、トイレの回数が増える

平成27年

03月~

夜中のトイレの回数が4~5回と増える

 

03月10日

かかりつけ医を受診 豊岡病院への紹介状を受け取る

田中クリニック 田中先生

 

03月11日

豊岡病院を受診 膀胱がんの告知を受ける 白波瀬先生

 

03月20日

豊岡病院に入院(一回目) 白波瀬先生

 

03月23日

尿道からの膀胱がんの削り取り手術(1回目)約4時間 白波瀬先生

 

03月26日

豊岡病院 退院 白波瀬先生

 

04月  1日

豊岡病院 手術の結果の報告を受け、前立腺にもがんが認められ、開腹手術による膀胱、前立腺、精嚢、尿道、尿路変更の手術を進められる 白波瀬先生

 

04月 8日

豊岡病院で手術の為の採血を行う

 

04月14日

豊岡病院に入院(二回目) 白波瀬先生

 

04月17日

豊岡病院にて膀胱、前立腺、精嚢、尿道の全摘出の手術と尿路変更の手術(2回目)約10時間を行う 白波瀬先生

 

05月 8日

豊岡病院を退院 白波瀬先生

身体障碍者4級の認定を受ける

 

05月20日

豊岡病院にて経過検査を受ける 白波瀬先生

 

05月27日

豊岡病院にて経過検査を受ける 白波瀬先生

 

06月 3日 

豊岡病院にて経過検査を受ける 白波瀬先生

 

06月 4日

豊岡病院にてストーマの講習を受ける

 

06月17日

豊岡病院にて経過検査を受ける 白波瀬先生

 

07月28日

豊岡病院にて経過検査を受ける 白波瀬先生

 

09月 8日

豊岡病院にて経過検査を受ける 白波瀬先生

 

10月20日

豊岡病院にて術後半年の経過検査を受ける 白波瀬先生

肺に腫瘍らしきものが見つかるも3年前のレントゲンの

映像にも腫瘍らしきものがあり、大きな変化は無い

 

 

11月 1日

豊岡病院にて経過検査を受ける 白波瀬先生

肺の腫瘍らしきものに変化なし

平成28年

01月12日

豊岡病院にてCT検査を受ける 白波瀬先生

膀胱がん、前立腺がんに転移や再発は認められないとの

診断を受ける。肺の腫瘍に変化なし 白波瀬先生

 

01月15日

豊岡病院の呼吸器内科を受診 阪森先生

 

01月19日

福知山市の京都ルネス病院にてペットCT検査を受ける

 

01月22日

豊岡病院にて肺の腫瘍の報告を受ける。肺がんの疑いが

あるが、大きな変化は無い 阪森先生

平成28年

02月 1日

豊岡病院にて心臓の検査

 

02月 4日

豊岡病院の循環器科を受診

 

02月 5日

豊岡病院の呼吸器化を受診 阪森先生

 

02月 8日

豊岡病院の心臓血管外科を受診 平野先生

肺の腫瘍に変化なし

 

 

02月  9日

豊岡病院の泌尿器科を受診 膀胱、前立腺の転移再発

無し 白波瀬先生

 

03月 7日

豊岡病院 心臓血管外科を受診

肺の腫瘍に変化なし 平野先生

 

03月 29日

豊岡病院 心臓血管外科を受診

肺の腫瘍に変化なし 平野先生

 

 

05月 9日

豊岡病院 心臓血管外科を受診

肺の腫瘍に変化なし 平野先生

 

05月16日

豊岡病院 心臓血管外科を受診 

生体検査の手術を進められる 平野先生

 

05月17日

豊岡病院 泌尿器科の経過検査を受ける 

白波瀬先生 口腔外科を受診                

 

06月 3日

豊岡病院 入院(三回目) 平野先生

 

06月 6日

豊岡病院 口腔外科受診

 

06月 7日

豊岡病院 肺の生体検査の為に手術(3回目) 

約6時間 平野先生

 

06月16日

豊岡病院 退院

 

06月27日

豊岡病院 肺の腫瘍が中皮腫と断定告知を受ける平野先生

 

07月  1日

豊岡病院 呼吸器内科を受診 阪森先生

 

07月 6日

豊岡病院 MRI検査を受ける 

中皮腫に大きな変化なし 阪森先生

 

07月 8日

福知山市 京都ルネス病院にてペットCT検査を受診

 

07月15日

豊岡病院 呼吸器内科受診 

兵庫医科大学病院を紹介される  

中皮腫に大きな変化なし 阪森先生

 

07月21日

兵庫医科大学病院を受診抗がん剤治療を進められる 

長谷川先生

 

08月12日

豊岡病院 呼吸器内科を受診 

抗がん剤治療の報告を受ける 阪森先生

 

08月16日

豊岡病院 口腔外科、エコー検査を受診

 

08月17日

豊岡病院 1回目の抗がん剤治療の為に入院(4回目)三好先生 

口腔外科受診

 

08月31日

豊岡病院 退院 三好先生

 

09月 6日

豊岡病院 泌尿器科受診 膀胱 前立腺 

経過検査異常なし 白波瀬先生

 

09月 7日

豊岡病院 2回目の抗がん剤治療の為に入院(5回目)三好先生

 

09月12日

豊岡病院 退院 三好先生

 

09月20日

豊岡病院 抗がん剤治療の経過検査 三好先生

 

09月28日

豊岡病院 3回目の抗がん剤治療の為に入院(6回目)三好先生

 

10月03日

豊岡病院 退院 三好先生

 

10月11日

豊岡病院 口腔歯科

 

10月14日

豊岡病院 呼吸器内科受診 CT検査 阪森先生

 

10月25日

京都ルネス病院 PET CT検査 

 

10月26日

豊岡病院 MRI検査

 

10月28日

豊岡病院 検査結果の報告 阪森先生

 

11月  8日

兵庫医科大学病院 長谷川先生受診

 

11月 9日

兵庫医科大学病院 多久和先生

 

11月11日

兵庫医科大学病院 心臓検査

 

11月21日

兵庫医科大学病院 手術の説明 多久和先生

 

11月22日

兵庫医科大学病院 入院(7回目)

 

11月24日

兵庫医科大学病院 11時間の手術(4回目) 長谷川、橋本、福田先生

 

12月 8日 

兵庫医科大学病院 退院

 

12月22日

兵庫医科大学病院 外来受診 長谷川先生

平成29年

01月10日

田中クリニック受診 田中先生

 

01月13日

豊岡病院呼吸器内科 阪森先生

 

01月16日

田中クリニック 田中先生

 

01月20日

豊岡病院 呼吸器内科 中皮腫検査 阪森先生

 

01月30日

豊岡病院 抗がん剤治療1回目 入院(8回目) 三好先生

 

02月 4日

豊岡病院 抗がん剤治療1回目 退院

 

02月17日

豊岡病院 呼吸器内科 CT検査 阪森先生

 

02月21日

豊岡病院 口腔外科

 

02月22日

兵庫医科大学病院 術後検査 長谷川先生 予約

 

02月24日

田中クリニック 田中先生

 

02月28日

豊岡病院 抗がん剤治療2回目入院(9回目) 三好先生

 

03月 4日

豊岡病院 抗がん剤治療2回目退院

 

03月11日

平成27年3月11日 膀胱がん告知より2年生存

 

03月16日

豊岡病院 泌尿器科 膀胱ガン、前立腺ガンの再発転移の確認検査 白波瀬先生 

 

03月21日

豊岡病院 抗がん剤治療3回目入院(10回目) 三好先生

 

03月23日

豊岡病院 抗がん剤治療3回目退院

 

03月30日

田中クリニック 田中先生

 

03月31日

豊岡病院 呼吸器内科 経過検査 三好先生

 

04月 3日

豊岡病院 呼吸器内科 三好先生

 

04月14日

豊岡病院 呼吸器内科 阪森先生

 

04月25日

田中クリニック

 

04月28日

豊岡病院 呼吸器内科 4回目の抗がん剤治療 阪森先生 

 

05月12日

豊岡病院 呼吸器内科 CT検査 阪森先生

田中クリニック 田中先生

 

05月24日 

兵庫医科大学病院 術後の半年精密検査 長谷川先生

 

55月26日

豊岡病院 呼吸器内科 阪森先生

 

 

田中クリニック 田中先生

[担当病院]・公立豊岡病院、兵庫医科大学病院、京都ルネス病院、田中クリニック

]病 名]・膀胱がん、前立腺がん、悪性中皮腫、その他

[認 定]・身体障碍者4級 旅客鉄道旅客運賃減額 第2種 

平成27年5月21日 (兵庫県第267021号)

(膀胱機能障害により社会での日常生活活動が著しく制限されるもの。)  

 

 ご覧頂きありがとうございました。

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