「病的」な18組の蒐集家に、ポール・ガンビーノがインタビューした記事と、そのコレクションを撮影した写真によって構成された《死をめぐるコレクション》に目を通していると、ホルマリン漬けの胎児や人体の一部、お定まりのミイラ、頭蓋骨、デスマスク、さらには実際の殺人に使用されたナイフや連続殺人犯が残した手紙など、数々の鮮明な写真の中に、何人ものコレクターが共通して蒐集している「干し首」というアイテムがあることに気づいた。
晒し首やミイラではなく、干し首――。
写真を見ると、どれもグロテスクで、そこに猟奇的にも美的な要素がないと感じるのは個人的センスに過ぎないとしても、よくもまぁ、こんなものを蒐集したがるものだと半ば呆れてしまう。それも結局は個人の好みのことだから、他人がとやかく言うことでもないが、気になったのは、人間の胴から分離した「首」に対する態度として「畏れ」の感覚があまり見られないように思えることだった。
あるコレクターは、長年かけて集めたエクアドルの干し首をいくつも公開する。また別のコレクターは、その昔ニューヨークのコニー・アイランドの見せもの小屋に陳列されていた「世界最小の干し首」を見せ、さらには夫の裏切りを知った人妻が、その愛人の娘を殺して作った干し首を所有しているコレクターもいる。
カルヴィン・ヴォン・クラッシュという蒐集家について、ポール・ガンビーノは次のように書いている。
《 成長すると博物館に足繁く通うようになり、家では恐竜のおもちゃを精巧なジオラマに並べるようになった。さらに20年後、カルヴィンはこうした幸福だがささやかなスタートから頭角を現し、グラフィック・デザインの学位を持つ才能あふれたタトゥ・アーティストとして成功すると、コネチカットの繁華街に大きなアパートメントを構えた。そして再び運命に導かれるまま、トップレベルのコレクターになった。アパートメントに移る際には、作りつけの陶磁器用キャビネットをあつらえた。高級磁器に興味があったわけではなく、今こそ自分のコレクションの、オカルトや秘宝の類を全力で拡張する絶好のチャンスだと考えたのだ。彼だけの「ヴンダーカマー(驚異の部屋)」になるだろうと。伝統的な骨董用飾り棚との違いを出そうと、カルヴィンは最初に、ガラス扉をはずした。みんなにコレクションに触ってもらいたかったからだ。自宅の展示キャビネットはどれもガラス扉がない。だから、ゲストやコレクションの見学者は、それぞれのアイテムと打ちとけた時が持てる。カルヴィンは、人々が干し首を手に取ったり、双頭の子牛の剥製をなでたりする時の表情を楽しまずにはいられない。》ポール・ガンビーノ《死をめぐるコレクション》(グラフィック社/2017年)
つまり、干し首をためらわず手に取る人が、当たり前ではないにしても、ある程度普通に存在するということだ。
■干し首について____1
別の蒐集家ミク・ミラーは次のように語る。
《祖父は文化担当の大使館員で、内乱の調停者みたいな立場としてアメリカ政府から世界中へ派遣されていた。時には随分変な場所へも。それで祖父はほとんど出張のたびに、最高に奇妙な品を持って帰ってきた。その頃はまだ、干し首とかアボリジニの吹き矢とか人間の頭蓋骨を手荷物に入れて、飛行機に乗れたんだ。誰も文句をつけなかったから。こうして、祖父はすごく心に残るコレクションを集めた。完全にとりこになったね》(同書)
干し首とはどういうものかと言えば、山田仁史氏の《首狩の宗教民俗学》の中での言及が明快かもしれない。それは南米の乾し首についての記述で、敵対する部族などから奪った首の扱い方は、(一)頭蓋骨、(二)ミイラ化、(三)乾し首ないしツァンツァ、(四)髑髏杯――の四種に分類できる。
コロンビアのカウカ地方では、16世紀にスペイン人が到来したときの記録が多く残されている。その頃ここでは、一般に食人の習慣と首狩とが深く結びついていたという。
《戦勝トロフィーとしては、頭部、手足、灰を詰めた皮膚、皮膚を張った太鼓、の四種類が存在したが、そのうち頭部の事例か最も普通である 敵首は竿の上や家屋の入口または屋内に展示したり、皮膚張り太鼓の数で名声が高まったりした。この皮膚張り太鼓を戦闘時に叩くことで、敵の戦意をくじくこともあった。敵の力を呪術的に得ようという意図もあったらしい。ゲオルク・エッカートの見解では、死者に対する恐怖心があったのにもかかわらず、敵首を屋内に保存したのは、儀礼などによって死者をなだめ、白分たちの意志に従わせることができる、との観念が存在したからではないか、と言う。》山田仁史《首狩の宗教民俗学》(筑摩書房/2015年)
エクアドル東部のシュアル(ヒバロ)諸族にも、同様のことが知られる。ヒバロ族は1599年にスペインとの戦闘に勝利してからというもの、その戦闘力が恐れられ、自立を長らく保ってきた。
■干し首について____2
《シュアル諸族が戦争で取った首は、まずエントラダという儀礼によってなだめられた。これを行うことで、犠牲者は殺害者に仕えることになる、と考えられていたのである。その後、首から頭骨を抜き取り、目や口を植物などで縫い刺し、皮だけにした袋状の頭部内に熱い砂などを入れ、長時間かけて縮小させた。こうしてできた「乾し首」はツァンツァと呼ばれ、戦闘や狩猟の成功、健康、畑の豊穣、家畜や女性の多産を助けるとされた。
やがて一九世紀末、二〇世紀初頭頃からこのツァンツァはヨーロッパ人により、土産物として注目されるようになる。こうし
て一九二〇年頃からは、シュアル諸族以外の民族もこれを作り始め、頭部を得るための墓あばきや、猿・山羊などの頭部による
まがい物まで出現した。》(同書)
このようなツァンツァの事情を知ってしまうと「首」に対する畏れは若干薄れる。しかし不気味なことに変わりはない。
さて以下に触れるエピソードは、干し首についてのものではないが、問題の本質は同じところにあると思える。
フランシス・ラーソン《首切りの歴史》によると、イギリスの現代美術家ダミアン・ハーストは、16才の1981年に、リーズの死体置き場に出掛け、金属製の台に置かれた身元不明の男性の切断された頭部と並んで、何気ない記念撮影のような軽々しさで写真を撮った。その写真は端的に《死人の首と》と題されている。ハーストはやや身をかがめて、その禿げ頭の男性の顔に触れんばかりに近づき、カメラに向かって満足げに笑っている。
――ラーソンはハーストがこの時のことを後になってこう回想している言葉を引用している。
《これはぼく。となりは切られた首。ここは死体置き場。ヒトの死体だ。ぼくは一六歳……ぼくの顔はいかにもうれしそうだよね。「早く、早く、写真を撮って」って。困ったもんだ。友だちにも見せたかったんだけど、死体置き場のあるリーズまで全員を連れて行くわけにはいかなくて。ぼくは心底こわかった。写真では笑っているけれど、そいつがいきなり目を開けて、ゾンビみたいに「うがぁぁぁぁ」と言い出すんじゃないかって、びくびくしてたよ。》フランシス・ラーソン《首切りの歴史》(河出書房新社/2015年)
この写真はアルミ板に焼きつけられた限定版として、10年後に開かれたハースト初の個展で発表された。彼は一般常識をもてあそび、死者に対する無神経な態度と厚かましい振舞いによって、嫌悪感を最大限に引き出すのに成功した、といっていいだろう。
《この作品は、ハーストが美術家としての人生の中で吸収してきたテーマの多ぐを体現している。生と死のぼやけた境界、切開と腐敗と保存のプロセス、嫌悪感と恐怖心の限界、医学と科学の介人が社会に与える影響などを。さらに言えば、見る人の心をとらえる気まぐれやユーモア、物議をかもす力までもが含まれている。
考古学者のサラ・ターローはこの作品を「目に余る」と言う。「日ごろ死者の遺体を相手に真摯に仕事をしている人々の職業基準をふみにじる行為だ」と。この写真の首の持ち主は、たとえ身元不明でも個人が特定できるほどはっきりと写っている。だが本人がハーストの「搾取的で無神経な」行為に自分の顔を使われることに同意しているはずがない。
ハーストはこの写真を撮った日も、人体をスケッチするために死体置き場に出かけていた。彼は生と死についてよく知るために死体をスケッチしていた。》(同書)
■干し首について____3
ハーストの回想には続きがある。
《ぼくは、うんと若いころ、死について知りたくて死体置き場に出かけ、見てきた。胸が悪くなり、ぼくもこのまま死ぬんじゃないかと思い、ぞっとした。いちど家に帰ったが、また戻ってきてスケッチをはじめた……つまり、自分から飛びこんでいったんだ。なんだ、ただの死体じゃないか。死は少し遠ざかった……死について考えていたことは、この種のものに実際に向き合ったとき、どこか別のところへ行ってしまった。》(同書)
一般常識を揺さぶり、嫌悪感を刺戟する結果になったとは言え、ハースト自身にも苦悩があった、というわけだ。
ラーソンはハーストの写真について「一つの美術作品としてなら恐怖心の克服を表したものと解釈できるかもしれないが、写真としては、一六歳の少年の真摯な追求という表層の奥に垣間見える子どもっぽい自慢を瞬間的にとらえている」という感想を述べている。この「子どもっぽい自慢」という指摘が、妙に心にひびく。現代のコレクターが収集する干し首の場合にも妥当する気がする。それはそれでいいのかもしれないが。
■干し首について____4
晒し首やミイラではなく、干し首――。
写真を見ると、どれもグロテスクで、そこに猟奇的にも美的な要素がないと感じるのは個人的センスに過ぎないとしても、よくもまぁ、こんなものを蒐集したがるものだと半ば呆れてしまう。それも結局は個人の好みのことだから、他人がとやかく言うことでもないが、気になったのは、人間の胴から分離した「首」に対する態度として「畏れ」の感覚があまり見られないように思えることだった。
あるコレクターは、長年かけて集めたエクアドルの干し首をいくつも公開する。また別のコレクターは、その昔ニューヨークのコニー・アイランドの見せもの小屋に陳列されていた「世界最小の干し首」を見せ、さらには夫の裏切りを知った人妻が、その愛人の娘を殺して作った干し首を所有しているコレクターもいる。
カルヴィン・ヴォン・クラッシュという蒐集家について、ポール・ガンビーノは次のように書いている。
《 成長すると博物館に足繁く通うようになり、家では恐竜のおもちゃを精巧なジオラマに並べるようになった。さらに20年後、カルヴィンはこうした幸福だがささやかなスタートから頭角を現し、グラフィック・デザインの学位を持つ才能あふれたタトゥ・アーティストとして成功すると、コネチカットの繁華街に大きなアパートメントを構えた。そして再び運命に導かれるまま、トップレベルのコレクターになった。アパートメントに移る際には、作りつけの陶磁器用キャビネットをあつらえた。高級磁器に興味があったわけではなく、今こそ自分のコレクションの、オカルトや秘宝の類を全力で拡張する絶好のチャンスだと考えたのだ。彼だけの「ヴンダーカマー(驚異の部屋)」になるだろうと。伝統的な骨董用飾り棚との違いを出そうと、カルヴィンは最初に、ガラス扉をはずした。みんなにコレクションに触ってもらいたかったからだ。自宅の展示キャビネットはどれもガラス扉がない。だから、ゲストやコレクションの見学者は、それぞれのアイテムと打ちとけた時が持てる。カルヴィンは、人々が干し首を手に取ったり、双頭の子牛の剥製をなでたりする時の表情を楽しまずにはいられない。》ポール・ガンビーノ《死をめぐるコレクション》(グラフィック社/2017年)
つまり、干し首をためらわず手に取る人が、当たり前ではないにしても、ある程度普通に存在するということだ。
■干し首について____1
別の蒐集家ミク・ミラーは次のように語る。
《祖父は文化担当の大使館員で、内乱の調停者みたいな立場としてアメリカ政府から世界中へ派遣されていた。時には随分変な場所へも。それで祖父はほとんど出張のたびに、最高に奇妙な品を持って帰ってきた。その頃はまだ、干し首とかアボリジニの吹き矢とか人間の頭蓋骨を手荷物に入れて、飛行機に乗れたんだ。誰も文句をつけなかったから。こうして、祖父はすごく心に残るコレクションを集めた。完全にとりこになったね》(同書)
干し首とはどういうものかと言えば、山田仁史氏の《首狩の宗教民俗学》の中での言及が明快かもしれない。それは南米の乾し首についての記述で、敵対する部族などから奪った首の扱い方は、(一)頭蓋骨、(二)ミイラ化、(三)乾し首ないしツァンツァ、(四)髑髏杯――の四種に分類できる。
コロンビアのカウカ地方では、16世紀にスペイン人が到来したときの記録が多く残されている。その頃ここでは、一般に食人の習慣と首狩とが深く結びついていたという。
《戦勝トロフィーとしては、頭部、手足、灰を詰めた皮膚、皮膚を張った太鼓、の四種類が存在したが、そのうち頭部の事例か最も普通である 敵首は竿の上や家屋の入口または屋内に展示したり、皮膚張り太鼓の数で名声が高まったりした。この皮膚張り太鼓を戦闘時に叩くことで、敵の戦意をくじくこともあった。敵の力を呪術的に得ようという意図もあったらしい。ゲオルク・エッカートの見解では、死者に対する恐怖心があったのにもかかわらず、敵首を屋内に保存したのは、儀礼などによって死者をなだめ、白分たちの意志に従わせることができる、との観念が存在したからではないか、と言う。》山田仁史《首狩の宗教民俗学》(筑摩書房/2015年)
エクアドル東部のシュアル(ヒバロ)諸族にも、同様のことが知られる。ヒバロ族は1599年にスペインとの戦闘に勝利してからというもの、その戦闘力が恐れられ、自立を長らく保ってきた。
■干し首について____2
《シュアル諸族が戦争で取った首は、まずエントラダという儀礼によってなだめられた。これを行うことで、犠牲者は殺害者に仕えることになる、と考えられていたのである。その後、首から頭骨を抜き取り、目や口を植物などで縫い刺し、皮だけにした袋状の頭部内に熱い砂などを入れ、長時間かけて縮小させた。こうしてできた「乾し首」はツァンツァと呼ばれ、戦闘や狩猟の成功、健康、畑の豊穣、家畜や女性の多産を助けるとされた。
やがて一九世紀末、二〇世紀初頭頃からこのツァンツァはヨーロッパ人により、土産物として注目されるようになる。こうし
て一九二〇年頃からは、シュアル諸族以外の民族もこれを作り始め、頭部を得るための墓あばきや、猿・山羊などの頭部による
まがい物まで出現した。》(同書)
このようなツァンツァの事情を知ってしまうと「首」に対する畏れは若干薄れる。しかし不気味なことに変わりはない。
さて以下に触れるエピソードは、干し首についてのものではないが、問題の本質は同じところにあると思える。
フランシス・ラーソン《首切りの歴史》によると、イギリスの現代美術家ダミアン・ハーストは、16才の1981年に、リーズの死体置き場に出掛け、金属製の台に置かれた身元不明の男性の切断された頭部と並んで、何気ない記念撮影のような軽々しさで写真を撮った。その写真は端的に《死人の首と》と題されている。ハーストはやや身をかがめて、その禿げ頭の男性の顔に触れんばかりに近づき、カメラに向かって満足げに笑っている。
――ラーソンはハーストがこの時のことを後になってこう回想している言葉を引用している。
《これはぼく。となりは切られた首。ここは死体置き場。ヒトの死体だ。ぼくは一六歳……ぼくの顔はいかにもうれしそうだよね。「早く、早く、写真を撮って」って。困ったもんだ。友だちにも見せたかったんだけど、死体置き場のあるリーズまで全員を連れて行くわけにはいかなくて。ぼくは心底こわかった。写真では笑っているけれど、そいつがいきなり目を開けて、ゾンビみたいに「うがぁぁぁぁ」と言い出すんじゃないかって、びくびくしてたよ。》フランシス・ラーソン《首切りの歴史》(河出書房新社/2015年)
この写真はアルミ板に焼きつけられた限定版として、10年後に開かれたハースト初の個展で発表された。彼は一般常識をもてあそび、死者に対する無神経な態度と厚かましい振舞いによって、嫌悪感を最大限に引き出すのに成功した、といっていいだろう。
《この作品は、ハーストが美術家としての人生の中で吸収してきたテーマの多ぐを体現している。生と死のぼやけた境界、切開と腐敗と保存のプロセス、嫌悪感と恐怖心の限界、医学と科学の介人が社会に与える影響などを。さらに言えば、見る人の心をとらえる気まぐれやユーモア、物議をかもす力までもが含まれている。
考古学者のサラ・ターローはこの作品を「目に余る」と言う。「日ごろ死者の遺体を相手に真摯に仕事をしている人々の職業基準をふみにじる行為だ」と。この写真の首の持ち主は、たとえ身元不明でも個人が特定できるほどはっきりと写っている。だが本人がハーストの「搾取的で無神経な」行為に自分の顔を使われることに同意しているはずがない。
ハーストはこの写真を撮った日も、人体をスケッチするために死体置き場に出かけていた。彼は生と死についてよく知るために死体をスケッチしていた。》(同書)
■干し首について____3
ハーストの回想には続きがある。
《ぼくは、うんと若いころ、死について知りたくて死体置き場に出かけ、見てきた。胸が悪くなり、ぼくもこのまま死ぬんじゃないかと思い、ぞっとした。いちど家に帰ったが、また戻ってきてスケッチをはじめた……つまり、自分から飛びこんでいったんだ。なんだ、ただの死体じゃないか。死は少し遠ざかった……死について考えていたことは、この種のものに実際に向き合ったとき、どこか別のところへ行ってしまった。》(同書)
一般常識を揺さぶり、嫌悪感を刺戟する結果になったとは言え、ハースト自身にも苦悩があった、というわけだ。
ラーソンはハーストの写真について「一つの美術作品としてなら恐怖心の克服を表したものと解釈できるかもしれないが、写真としては、一六歳の少年の真摯な追求という表層の奥に垣間見える子どもっぽい自慢を瞬間的にとらえている」という感想を述べている。この「子どもっぽい自慢」という指摘が、妙に心にひびく。現代のコレクターが収集する干し首の場合にも妥当する気がする。それはそれでいいのかもしれないが。
■干し首について____4