道端鈴成

エッセイと書評など

天使はなぜ堕落するのか:人間における悪の起源について

2011年11月04日 | 書評・作品評
「天使はなぜ堕落するのか:中世哲学の興亡」という奇妙なタイトルの本を読んでみた。煩瑣で無用な議論の代名詞とされる中世哲学だが結構面白い。タイトルに関連する心理学的な論点についてごくアバウトにコメントを記す。

中世神学では、世界に存在する行為主体は天使、人間、動物、サタンに四分類されたらしい。天使は純精神的存在、動物は純肉体的存在、人間は精神と肉体の混合である。精神性の根源である神は自分の僕として、純粋な精神的存在としての天使を作ったが、意に反するところがあったので、自分の似姿として人間をつくり、人間に利用させるために動物を作ったということになる。サタンは天使が堕落した存在と考えられた。(最初からサタンがいたのでは、一神教としては都合が悪い。かといって直接サタンを作ってもやはり善の神の名に傷がつくので、意に反してということにしたかったらしい。しかし、そうすると全能の神があやしくなる。どのみち、唯一全能善の神というのは無理筋なので、まあこの辺でという感じ。)問題はなぜ天使が堕落したかだが、二説あるらしい。一説は、天使としての精神的存在に肉体的欲望が混入したため堕落したという肉体的欲望汚染説である。もう一説は、精神的存在としての天使が自らの限界の認識の欠陥により傲慢の罪を犯したという自己認識欠陥傲慢説である。著者の八木氏が指摘するように、中世哲学的に考えれば、純粋な精神的存在に派生的な存在である動物的肉体性が影響するという肉体的欲望汚染説は説得力に欠ける。一方、精神的存在に内在する自己認識の欠陥と傲慢という考えは思弁的により面白いし、キリスト教神学でサタンの最大の罪が神に対抗しようとした傲慢にあるとされているように、説得力もある。

以上の話しはなんとなくゲームの設定みたいだし、まともな進化論の常識(動物から人間、人間が想像した神、天使、サタン)からするとまさしく逆さまのファンタジーの世界だが、人間における悪の起源に関する象徴的な議論としては、なかなか深いところをついているのかもしれない。

「しあわせ仮説――古代の知恵と現代科学の知恵」の4章で、道徳感情研究の専門家であるジョナサン・ハイトは人間における悪の原因の問題についてとりあげ、この人類2000年来の問題を社会心理学者のBaumeisterの"Evil: Inside Human Violence and Cruelty"がついに解いたと言っている。仲間内の評価なので割り引かなければならないが、Happiness Hypotheisの次作のThe Righteous MindはBaumeisterのEvilの結論にそったものなので、重要な貢献として高く評価していることは確かだ。BaumeisterはEvilで家庭内暴力からホロコーストにまでいたる侵犯者の心理を調査した.。Baumeisterが見いだしたのは通常侵犯者は自らを悪いとは思っていないという事実だった。侵犯者は彼らの血なまぐさい行為を防衛的、あるいはやむをえない反応としてとらえていた。侵犯者による自らの行動の理由付けは彼らの極端な独善性をうかびあがらせた。Baumeisterの研究によると貪欲やサディズムは個人的犯罪や歴史的な残虐行為において、比較的少ない役割しか果たしていない。

多くのケースで独善が侵犯行為の主要な原因であるとの主張は常識に反するが、十分な証拠に裏付けられている。貪欲やサディズムは侵犯行為の補助的な要因、少ないケースでの主要な要因という位置づけになるだろう。Baumeisterの言う独善は、常に自分が正当で対立する相手は不当であるとの倫理的独善と常に自分の見方が客観的でこれと対立する相手の見方は偏って歪んでいるという認識論的独善(素朴リアリズム)の両者を含んでいる。これが集団間の対立に拡張されると、我々対彼らにおける集団的独善になる。Baumeisterの言う独善は、過去多くの虐殺や残虐行為を生んできた不寛容複合(倫理的独善・認識論的独善・集団的独善)のコアを形成すると言えるだろう。貪欲やサディズムも重要な役割を果たすが、虐殺や残虐行為の素地を形成するのはより幅広く分布する独善をコアとする不寛容複合であり、種となるのが貪欲やサディズムだろう。サディズムを楽しむ人もいるが数パーセント程度である(『戦争における「人殺し」の心理学』参照)。貪欲は程度問題だが、集団的独善の助けなしに侵犯行為に至るのはやはり少数である。しかし、善良な人でも、侵犯行為とは無関係だとしても、なんらかの独善は避けがたい。

天使の堕落に話しをもどすと、貪欲やサディズムが肉体的欲望汚染説、独善が自己認識欠陥傲慢説に相当する。中世哲学における思弁的理論と現代心理学における実証的研究の結果が対応している点が面白い。

しかし、人間の独善と思い上がりはどこからくるのだろうか?中世哲学では自己認識の欠陥を言っている。これは基本的な論点である。原理的に言って、自分が知らない事については、何を知らないのかどの程度なのか具体的に知ることは不可能である。この無知についての無知、メタ無知は、無知の領域がゼロである全知の神以外は逃れ得ない。従って、純粋な精神的存在である天使もメタ無知からは逃れられない。自分が知っている領域や観点を過大に評価し思い上がる可能性がつねにある。人間もこれを避けることはできない。できるのは、失敗や無知を認め、謙虚さを学ぶことだけである。そして、もはやそれが神でないにしても、より大きな存在を意識した畏敬や謙虚さについて我々が中世の哲学から学ぶことは色々ありそうだ。

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