河端「やあ。ひさしぶり。何を読んでいるんだい。」
道端「宮崎哲弥の「新書365冊」です。なかなか面白いですよ。」
河端「宮崎氏というと、テレビによく出ているコメンテーターだね。」
道端「はい。ずいぶん売れっ子になって驚いてます。社会哲学、宗教、社会問題を主要な領域とする若手の評論家です。とくに「正義の見方」での「いいかげんにしてよ中沢さん」の中沢新一批判は出色でした。チベット仏教の専門家の発言を引いて中沢氏の著作は仏教としては異端である。また学問としても、ごまかしだらけであると、中沢新一氏の言説を徹底的に批判しています。」
河端「ああ。「虹の階梯」とか「チベットのモーツァルト」とか「雪片曲線論」とか、あったな。バブルの時期の一種の知的ファッションだった。TBSの筑紫氏が朝日ジャーナルの編集長で、若者達のカリスマとかなんとか持ち上げてたな。」
道端「オウム真理教事件では、宗教学者の島田裕巳氏が、学生の入会をめぐって、責任をとる形で大学を辞職しました。しかし、島田氏は、オウム真理教に騙されて広告の役割を担ってしまったかもしれませんが、島田氏の仕事自体は、宗教社会学として手堅いものです。オウム真理教事件において、島田氏は、あくまで周辺的で偶発的な役割をになったにすぎません。オウム真理教事件の信者達をカルトに誘導し多くの人々を地獄に誘導した笛吹き役、思想的な主犯は中沢新一氏です。」
河端「中沢氏の仕事がごまかしだらけというのは、どういう点かな。」
道端「例えば、フィールドワークを元にしたと書きながら、創作が混じっているらしく、フィールドワークの情報や資料が明確でない。数学や自然科学の用語を出鱈目な意味で使っているなどです。ファンタジー小説なら良いかもしれませんが、学問的な仕事としては問題です。その辺を、宮崎氏は的確に批判してます。オウム真理教事件の前、まだニューアカデミズムという言葉が死語になっていなかった頃の事ですが、中沢氏は、東大の教養学部の助教授として迎えられることが、教室のレベル(たしか相関社会学だったと思います)では決まっていました。しかし、教授会で否決されました。大学行政では、教室の決定が実質的で、教授会はそれを追認することが通例なので、異例の出来事です。そのときの教授会のメンバーに話しをきいたことがありますが、中沢氏の数学や自然科学の用語の出鱈目な使用に対する自然科学系の教員の反対が多かったそうです。宮崎氏も指摘していますが、その時の東大の教養学部の教授会はアカデミズムとして、まともな判断を下したわけです。」
河端「なるほど。で、最近、中沢氏は、漫才師と共著で「憲法九条を世界遺産に」などという本を書いているようだが。」
道端「ええ。オウム真理教事件のほとぼりもさめたし、また、笛吹き役をしようというところなのかもしれません。バブルの時代、中沢氏のエキゾチックなニューアカ言説は、今ここでないどこかでの不全感の解消をもとめる人々にアピールしました。今度は、世界の現実にたいする認識の普及とともに後退しつつあるサヨク言説を、笑いとファンタジックな逆説、それにニューアカデミズムの残り香で再賦活し、また信者を誘導しようというのでしょうか。」
河端「道端君は、中沢氏については、色々いいたいことがあるようだな。しかし、本題の宮崎哲弥氏の「新書365冊」に戻ろう。書評の書評というのも面白そうだからな。」
道端「はい。中沢新一氏の問題については、また改めて書きたいと思います。で、「新書365冊」ですが、通読して、宮崎氏は社会哲学、社会問題について特に詳しいと思いました。宮崎氏の評論家として美質は、幅広い知識をもって論理的に考える能力があることとバランスがとれ中途半端な点にあります。このため、右は左を嫌悪し、左は右を軽蔑しといった今の日本の言論状況のなかで、いわゆる右とも、左とも、まともな対話のできる貴重で重宝な存在になっています。「新書365冊」自体、いわゆる右の雑誌の「諸君」で連載し、戦前は右で戦後は左の「朝日新聞社」から出しているのが象徴的です。」
河端「社会哲学に通暁し幅広い知識をもってバランスのとれた発言をするので、右も左も一目おかざるをえないということだな。」
道端「はい。いわゆるジャーナリストやコメンテーターの不勉強は酷いですから。鳥越氏など、日本版オーマイニュースの編集長を引き受けながら、JanJanやライブドアニュースを知らなかっただの、2チャンネルでは女子アナ板しか見たことがなくゴミダメと思ったなど、信じられない無知というか無恥ぶりです。キャラクターを売りのタレントとして自分を考えているなら別ですが、知識や情報を商品としている自覚があるなら、宮崎氏の半分とは言いませんが、十分の一でも勉強して欲しいです。」
河端「「新書365冊」の社会哲学、社会問題以外は、どうなんだい。」
道端「科学はあまり詳しくないようですね。「「心の専門家」はいらない」」(小沢)を評価するのはタイムリーでしょうが、「行動分析学入門」(杉山)は30年前のスキナー流の行動分析の繰り返しなので、手放しの感心ぶりを見て、知識ないのかなと思いました。仏教については、サンスクリットまで勉強しているそうですから、チベット仏教のダライラマとヴァレラを初めとする認知科学者との一連の対話と共同研究にも興味を持って欲しいです。それと、宮崎氏が自らの思想的拠点としてとなえるラディカル・ブッディスムですが、関係論的な自己と世界の認識を基本とするのは、当然だと思います。しかし、それがなぜニヒリズムにならないのか、あるいは仏教をニヒリズムと考えるのか、もっとつっこんで検討すべきです。「死体はゴミだ」などと発言し、ラディカルぶりを誇ったようですが、言葉の本来の意味で探求者として問題の根底をさぐるという点で真にラディカルかというと、やや疑問です。この点は、ヴァレラなどの認知科学者が真剣に取り組んでいます。」
河端「まあ。新書が対象だから。あまり要求しすぎるのもな。」
道端「はい。そうですね。で、次にバランスがとれ中途半端な点です。例えば「東アジア「反日」トライアングル」(古田)を碩学による著作として評価しています。これは妥当でしょう。しかし、古田氏の立論として、韓国、中国のナショナリズムの原因として近代国家としての高揚の時期にあたるという歴史的フェーズの差は紹介していますが、中華思想には一言も触れていません。古田氏の本を読めば、近代国家としてフェーズの差だけでなく、中華思想も重要な問題として、むしろ中華思想をより中心的なテーマとして扱っていることは明らかです。ここで、宮崎氏は、評論家としての処世上、あぶないかもしれないテーマを上手に回避しているという印象をうけます。また「歴史認識を乗り越える」(小倉)を気韻があるなどやや抽象的な評価で絶賛しています。宮崎氏は、得難い博識で論理の人ですが、文体への感受性と鑑識眼をそなえたタイプの批評家ではないようです。宮崎氏にもうすこし、文体への感受性があったらなと思いますが、ないものねだりでしょう。博識で論理だけでも現在の日本では貴重です、本も、幅広く全体としてはバランスがとれ、好著です。」
河端「評論家というと、小林秀雄以来、日本では影響力を持った評論家が大勢いるが、宮崎哲弥氏はどんな位置になるのかな。」
道端「そうですね、評論家の評論というのも面白いですね。評論家にとって、ある程度の博識は前提だと思いますが、小林秀雄を初めとして、感受性と鑑識眼を中心とした評論家は多いと思います。宮崎氏は、社会哲学が中心領域ということもあってか、感受性と鑑識眼ではなく、論理を中心とした点に特色があるかもしれません。もうひとつ、評論家にとって難しいのが、自らの主義主張の基点をどこにおくかです。これを特定の政治的立場におくと、読者を限定してしまい、色つきの評論家、わるくすると色物の評論家として位置づけられてしまう危険があります。評論家を副業としているならかまわないでしょうが、評論家だけで食っていこうとすると、とくにテレビなどで出るとさらに制約が大きくなるかもしれません。文化領域に言説を限定するというのは一つの選択肢です。政治的に受け入れられやすい立場に立つ、政治的な立ち位置を変幻自在にずらしつつ言説を振りまく、などの選択肢は、論理的でラディカルであろうとする評論家には受け入れられないものです。ここで、呉智英氏の封建主義のように、実際の選択肢にはならないが、時代批評の論拠にはなりうるような立場を基点として設定するという方法もあるような気がします。ラディカルで、するどく、愛嬌があるという言説です。宮崎氏のラディカル・ブッディスムにも、同じにおいを感じます。呉智英氏のラディカルで、するどく、愛嬌路線と対照的なのが、山形浩生氏などで、ラディカルで、するどく路線ですが、実際の選択肢になり正味対立のあるところに言説の基点を置く言説戦略です。経済論争ではクルーグマン側、人間性論争ではピンカー側、知の欺瞞ではソーカル側と、日本の論壇ではどちらかというと少数派の、しかし理は通った立場に断固たっています。それで、宮崎氏ですが、、」
河端「そうか、道端君の評論家評論なんだかややこしいな。続きは、またの機会に、ゆっくりうかがうことにするよ。」
道端「はい。わかりました。」
道端「宮崎哲弥の「新書365冊」です。なかなか面白いですよ。」
河端「宮崎氏というと、テレビによく出ているコメンテーターだね。」
道端「はい。ずいぶん売れっ子になって驚いてます。社会哲学、宗教、社会問題を主要な領域とする若手の評論家です。とくに「正義の見方」での「いいかげんにしてよ中沢さん」の中沢新一批判は出色でした。チベット仏教の専門家の発言を引いて中沢氏の著作は仏教としては異端である。また学問としても、ごまかしだらけであると、中沢新一氏の言説を徹底的に批判しています。」
河端「ああ。「虹の階梯」とか「チベットのモーツァルト」とか「雪片曲線論」とか、あったな。バブルの時期の一種の知的ファッションだった。TBSの筑紫氏が朝日ジャーナルの編集長で、若者達のカリスマとかなんとか持ち上げてたな。」
道端「オウム真理教事件では、宗教学者の島田裕巳氏が、学生の入会をめぐって、責任をとる形で大学を辞職しました。しかし、島田氏は、オウム真理教に騙されて広告の役割を担ってしまったかもしれませんが、島田氏の仕事自体は、宗教社会学として手堅いものです。オウム真理教事件において、島田氏は、あくまで周辺的で偶発的な役割をになったにすぎません。オウム真理教事件の信者達をカルトに誘導し多くの人々を地獄に誘導した笛吹き役、思想的な主犯は中沢新一氏です。」
河端「中沢氏の仕事がごまかしだらけというのは、どういう点かな。」
道端「例えば、フィールドワークを元にしたと書きながら、創作が混じっているらしく、フィールドワークの情報や資料が明確でない。数学や自然科学の用語を出鱈目な意味で使っているなどです。ファンタジー小説なら良いかもしれませんが、学問的な仕事としては問題です。その辺を、宮崎氏は的確に批判してます。オウム真理教事件の前、まだニューアカデミズムという言葉が死語になっていなかった頃の事ですが、中沢氏は、東大の教養学部の助教授として迎えられることが、教室のレベル(たしか相関社会学だったと思います)では決まっていました。しかし、教授会で否決されました。大学行政では、教室の決定が実質的で、教授会はそれを追認することが通例なので、異例の出来事です。そのときの教授会のメンバーに話しをきいたことがありますが、中沢氏の数学や自然科学の用語の出鱈目な使用に対する自然科学系の教員の反対が多かったそうです。宮崎氏も指摘していますが、その時の東大の教養学部の教授会はアカデミズムとして、まともな判断を下したわけです。」
河端「なるほど。で、最近、中沢氏は、漫才師と共著で「憲法九条を世界遺産に」などという本を書いているようだが。」
道端「ええ。オウム真理教事件のほとぼりもさめたし、また、笛吹き役をしようというところなのかもしれません。バブルの時代、中沢氏のエキゾチックなニューアカ言説は、今ここでないどこかでの不全感の解消をもとめる人々にアピールしました。今度は、世界の現実にたいする認識の普及とともに後退しつつあるサヨク言説を、笑いとファンタジックな逆説、それにニューアカデミズムの残り香で再賦活し、また信者を誘導しようというのでしょうか。」
河端「道端君は、中沢氏については、色々いいたいことがあるようだな。しかし、本題の宮崎哲弥氏の「新書365冊」に戻ろう。書評の書評というのも面白そうだからな。」
道端「はい。中沢新一氏の問題については、また改めて書きたいと思います。で、「新書365冊」ですが、通読して、宮崎氏は社会哲学、社会問題について特に詳しいと思いました。宮崎氏の評論家として美質は、幅広い知識をもって論理的に考える能力があることとバランスがとれ中途半端な点にあります。このため、右は左を嫌悪し、左は右を軽蔑しといった今の日本の言論状況のなかで、いわゆる右とも、左とも、まともな対話のできる貴重で重宝な存在になっています。「新書365冊」自体、いわゆる右の雑誌の「諸君」で連載し、戦前は右で戦後は左の「朝日新聞社」から出しているのが象徴的です。」
河端「社会哲学に通暁し幅広い知識をもってバランスのとれた発言をするので、右も左も一目おかざるをえないということだな。」
道端「はい。いわゆるジャーナリストやコメンテーターの不勉強は酷いですから。鳥越氏など、日本版オーマイニュースの編集長を引き受けながら、JanJanやライブドアニュースを知らなかっただの、2チャンネルでは女子アナ板しか見たことがなくゴミダメと思ったなど、信じられない無知というか無恥ぶりです。キャラクターを売りのタレントとして自分を考えているなら別ですが、知識や情報を商品としている自覚があるなら、宮崎氏の半分とは言いませんが、十分の一でも勉強して欲しいです。」
河端「「新書365冊」の社会哲学、社会問題以外は、どうなんだい。」
道端「科学はあまり詳しくないようですね。「「心の専門家」はいらない」」(小沢)を評価するのはタイムリーでしょうが、「行動分析学入門」(杉山)は30年前のスキナー流の行動分析の繰り返しなので、手放しの感心ぶりを見て、知識ないのかなと思いました。仏教については、サンスクリットまで勉強しているそうですから、チベット仏教のダライラマとヴァレラを初めとする認知科学者との一連の対話と共同研究にも興味を持って欲しいです。それと、宮崎氏が自らの思想的拠点としてとなえるラディカル・ブッディスムですが、関係論的な自己と世界の認識を基本とするのは、当然だと思います。しかし、それがなぜニヒリズムにならないのか、あるいは仏教をニヒリズムと考えるのか、もっとつっこんで検討すべきです。「死体はゴミだ」などと発言し、ラディカルぶりを誇ったようですが、言葉の本来の意味で探求者として問題の根底をさぐるという点で真にラディカルかというと、やや疑問です。この点は、ヴァレラなどの認知科学者が真剣に取り組んでいます。」
河端「まあ。新書が対象だから。あまり要求しすぎるのもな。」
道端「はい。そうですね。で、次にバランスがとれ中途半端な点です。例えば「東アジア「反日」トライアングル」(古田)を碩学による著作として評価しています。これは妥当でしょう。しかし、古田氏の立論として、韓国、中国のナショナリズムの原因として近代国家としての高揚の時期にあたるという歴史的フェーズの差は紹介していますが、中華思想には一言も触れていません。古田氏の本を読めば、近代国家としてフェーズの差だけでなく、中華思想も重要な問題として、むしろ中華思想をより中心的なテーマとして扱っていることは明らかです。ここで、宮崎氏は、評論家としての処世上、あぶないかもしれないテーマを上手に回避しているという印象をうけます。また「歴史認識を乗り越える」(小倉)を気韻があるなどやや抽象的な評価で絶賛しています。宮崎氏は、得難い博識で論理の人ですが、文体への感受性と鑑識眼をそなえたタイプの批評家ではないようです。宮崎氏にもうすこし、文体への感受性があったらなと思いますが、ないものねだりでしょう。博識で論理だけでも現在の日本では貴重です、本も、幅広く全体としてはバランスがとれ、好著です。」
河端「評論家というと、小林秀雄以来、日本では影響力を持った評論家が大勢いるが、宮崎哲弥氏はどんな位置になるのかな。」
道端「そうですね、評論家の評論というのも面白いですね。評論家にとって、ある程度の博識は前提だと思いますが、小林秀雄を初めとして、感受性と鑑識眼を中心とした評論家は多いと思います。宮崎氏は、社会哲学が中心領域ということもあってか、感受性と鑑識眼ではなく、論理を中心とした点に特色があるかもしれません。もうひとつ、評論家にとって難しいのが、自らの主義主張の基点をどこにおくかです。これを特定の政治的立場におくと、読者を限定してしまい、色つきの評論家、わるくすると色物の評論家として位置づけられてしまう危険があります。評論家を副業としているならかまわないでしょうが、評論家だけで食っていこうとすると、とくにテレビなどで出るとさらに制約が大きくなるかもしれません。文化領域に言説を限定するというのは一つの選択肢です。政治的に受け入れられやすい立場に立つ、政治的な立ち位置を変幻自在にずらしつつ言説を振りまく、などの選択肢は、論理的でラディカルであろうとする評論家には受け入れられないものです。ここで、呉智英氏の封建主義のように、実際の選択肢にはならないが、時代批評の論拠にはなりうるような立場を基点として設定するという方法もあるような気がします。ラディカルで、するどく、愛嬌があるという言説です。宮崎氏のラディカル・ブッディスムにも、同じにおいを感じます。呉智英氏のラディカルで、するどく、愛嬌路線と対照的なのが、山形浩生氏などで、ラディカルで、するどく路線ですが、実際の選択肢になり正味対立のあるところに言説の基点を置く言説戦略です。経済論争ではクルーグマン側、人間性論争ではピンカー側、知の欺瞞ではソーカル側と、日本の論壇ではどちらかというと少数派の、しかし理は通った立場に断固たっています。それで、宮崎氏ですが、、」
河端「そうか、道端君の評論家評論なんだかややこしいな。続きは、またの機会に、ゆっくりうかがうことにするよ。」
道端「はい。わかりました。」